松の間の神、下

 松屋敷は鬱蒼とした木々の中に溶け込むように建っていた。


 屋根の瓦は殆ど剥がれ落ち、漆喰の塗装は風雨に引き裂かれて肋のような骨組みを剥き出しにしている。縁側は砕けて傾き、下の土と同化して草を生やしていた。


 六原が淡々と言う。

「かつてのお屋敷がこれとは、悲惨ですね」

「思ってねえだろ」

「思ったところでどうにもできません」


 烏有は溜息をつき、雑草を掻き分けた。屋敷に歩み寄りながら六原を振り返ると、スーツに泥がつくのも構わず烏有の後をついてくるのが見えた。

「どうしましたか?」

「いや、内勤の割に胆力があると思ってな」

「私の出身も田舎ですから、土や草を嫌がる気もありません」


 烏有は肩を竦めた。六原の故郷でもある、こどくな神を祀る村は、彼と片岸たちの働きによって壊滅的な被害を受けた。梅村うめむらが事後処理に奔走していたのを思い出す。


 切間さんにもこの男くらいの無神経さがあれば、故郷の村で起こったことも、その後のことも、もっと気楽に済ませることができたかもしれねえのにな。烏有は取り止めのない思いを打ち消すようにかぶりを振った。



 そのとき、目の前を白い影が過った。

 烏有は咄嗟に身を引く。後ろから追いついた六原が目を細めた。

「虫でもいましたか?」


 腐りかけた木々が檻のように視界を塞ぐ中、向こうに松屋敷の広間が見えた。

 破れた障子から朽ち果てた畳と、剥がれた壁紙が覗いている。奥の屏風は殆ど壊れていたが、金箔を下地に描かれた松の絵があった。


「あれが松屋敷の所以ですね」

 六原の声に烏有は首を横に振る。自分にしか見えていない。

 朽ちた屏風の前に、白い着物を纏った何かが立っている。人間ではない。死装束じみた着物の襟から突き出しているのは、首ではなく、太い松の幹だった。顔と髪の代わりに針の如く尖った松の枝葉が茂っている。


「松の間の神……」

 烏有の呟きに、神がゆっくりと蠢いた。視界が歪む。

 松の間の神の姿が霞み、鋭い爪と乾涸びた鬼灯のような無数の顔が浮かんだ。すずなりの神の姿がまた歪む。

 くわすの神の村で見た、肉腫を掻き集めたような歪な神像。四又の触腕を蠢かせる呼び潮の神。礼拝堂のステンドグラス。床に染みる血痕。銃声。



 烏有は後退り、頭を抱えた。思い出したくない記憶の断片が脳裏に突き刺さる。六原の声が響いた。

「切間さん?」

 烏有は咄嗟に顔を上げた。目の前には松木を生やした神が佇んでいる。目も口もない枝葉の塊に、見覚えのある表情が浮かんだ気がした。

 神に消し去られる前の冷泉れいぜいや切間の、覚悟を決めたような表情。


「そうか……」

 烏有はもつれる足で歩み寄り、傾いた縁側に倒れるように手をついた。松の間の神が自分を見下ろしているのがわかった。古い白装束の裾から木の根のような足が覗いていた。烏有は節くれだった爪先に触れる。


「待ってんだな、家主の帰りを。だから、こうして邪魔しに来る奴らを怖がらせて追い払ってんだよな……わかるよ。俺も同じだから」


 神は沈黙していた。緑の針のような茂みの中からひとつの松の実が落ち、縁側に転げた。涙のようだと思った。



 気がつくと、松の間の神は跡形もなく姿を消していた。烏有はそっと身を起こす。六原は相変わらず表情の読み取れない顔で彼を見つめていた。

「大丈夫ですか?」

 烏有は襟元を正し、背筋を伸ばす。

「ああ、問題ない。神の実態も、対処法もわかった」



 村外れの休憩所で木を模した椅子に腰掛けながら、六原は烏有の言葉に頷いた。

「つまり、松の間の神はあの屋敷や村の人間を害する者を排除するため、対象が恐怖するものの姿を模していた、と?」

「ああ、最初の聞き込みから妙だと思っていたんだ」

 烏有は煙草の煙を吐きながら言う。


「蛇を見た中年の女は蛙が嫌いだと言っていた。虫を追い払うため小屋を掃除しに行った少年は蜘蛛を見たと言う。蒸発した父と遭遇したという男は実父より養父を悪様に語っていた」

「成程……本人が見たものと苦手とするものが異なりますね」

「ああ、松の間の神が真似たのはその人間に害を及ぼす者にとっての天敵だ」

「蛙の天敵は蛇、害虫を捕食する蜘蛛、男性の育ての親は実父に後ろめたいことがあったのでしょうね」

「そういうことだ。自分を信じてくれる村人を守るために邪魔する奴らを追い払ってたんだろう。あの屋敷を保護すれば神も沈静化するはずだ」

「道理で"松"ですか」

「家主の帰りを"待つ"ってな」


 六原は僅かに口角を上げ、すぐに真顔に戻った。

「駄洒落ですか。私は能楽堂に描かれる影向の松だと思ったのですが。あれには神が宿るとされて、演者は神と向き合って舞うと聞きます」

「……それもあるかもな」



 烏有は誤魔化すように二本目の煙草に火をつけた。

 六原は先端で燻る火を凝視する。

「あの神に遭っても私は何も見えませんでしたが……少しだけ義弟のことを思い出しました」

「片岸か」

「何故かはわかりません。私は義弟を恐れているつもりはないのですが。ああ、前に仕事で同乗したとき運転が荒いときがあって不信を覚えました」

「ろくでもないな。神の方もお前を脅かすのは苦心しだろう」


 烏有は苦笑を返してから目を伏せる。

「似てるからかもな」

「何と何がですか?」

「あの神と片岸が、だ。奴も帰らない何かを待っているらしい。そうじゃなきゃこんな仕事に就かないだろ」

「それは切間さんもでは?」


 烏有は思わず煙草を取り落とした。六原は慇懃な動作で屈み、拾った煙草を渡す。

「待つとし聞かば今帰りこむ、と言いますから」

「何だそれ」

「松と待つをかけた和歌ですよ。猫がいなくなったときに、この下の句を書いておくと戻ってくるとか」

 紫煙が細くたなびいた。烏有は少し迷ってから煙草を受け取った。

「待つだけで終える気はねえよ」



 吸殻を揉み消し、烏有はポケットを探る。乾いた感触が指先に触れた。摘んで掌に乗せたそれは、小さな松の実だった。

 烏有はベンチの片隅に、供物のように実を置いた。

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