松の間の神、中

「何で……」

 烏有は震える手を額に当てる。

 靴底にひたりと、水が侵入したような感覚が染みた。足元を見下ろすと、どす黒い赤の液体が広がっていた。地面がいつの間にかひび割れたタイルに変わり、七色のガラスの光が反射していた。

 夥しい血が流れた、あの礼拝堂。



「切間さん」

 肩を掴まれた感触に、烏有は咄嗟に顔を上げた。六原の青白い顔がある。景色は村外れの寂れた休憩所に戻っていた。烏有は平静を繕って頷く。


「悪い、少し考え事をしていただけだ」

「そうですか」

 六原の横顔は相変わらず表情が読み取れなかったが、細い顎を一筋の冷や汗が伝い落ちたのが見えた。

「六原、お前も何か見たのか?」

「切間さんもですか」

「ああ……昔対処した領怪神犯を見た」

「私も同じようなものです」


 六原は少し俯いて言った。

「以前、片岸調査員と赴いた村があります。そこには、死者の声を真似る邪神がいました」

「それを聞いたのか?」

「はい、あまり面白くない記憶です」

「邪神と関わって面白い記憶になるもんかよ」


 烏有は煙草を咥えて火をつける。風に乗った灰がノートに落ちた。六原が口を開いた。

「松の間の神の影響でしょうか」

「恐らくな。対象の人間が最も恐怖するものの記憶を見せる。それが特性らしい」

「恐怖ですか……」

「どうした?」

「私はあまり恐怖というものがわかりません。自分にとって都合が良くないかどうかはわかりますが」 

「お前、脳の神経が焼き切れてるんじゃないか?」

 六原は微笑を浮かべた。


「何でここで笑うんだよ」

「義弟にも似たようなことを言われたことがあって」

 烏有は呆れながら煙を吐いた。

「恐怖がないのはいいことじゃない。この仕事で危険を測るための尺度だからな。臆病じゃやっていけないが、神への畏れは必要だ」

「怯えて逃げ出しはしなくても、事の大きさは理解しているつもりです」

「それならいいが……そうだな。凌子さんとは違えもんな」

「切間さん?」

「何でもねえよ」


 烏有は六原を盗み見た。未だに凌子の面影が重なる。だが、彼は違う。だから、自分が特別調査課に選んだ。烏有は煙草をもみ消して立ち上がった。

「調査に戻るぞ」

「そうですね。確かめなければいけない部分がありますから」

「神の実態か?」

「もっと根本的な部分です。松の間の神は本当に人間を怯えさせる神なんでしょうか」

「どういうことだ」

 烏有は言葉の続きを待ったが、六原はそれ以上答えずに踵を返した。



 休憩所を後にし、六原は人家の影もまばらな畦道に進んだ。道端の草は枯れ果て、不法投棄された自転車やタイヤの山が隅に積まれている。廃村のような光景だった。

 彼の後ろを歩きながら、烏有は足を早めた。


「六原、お前何処に向かってるかくらいまともに報告しろよ」

「切間さんもご存知だと思っていましたが」

「どういう理屈だ」

「松の間ということは座敷がある屋敷か旅館に端を発するものでしょう。この村の旧家屋はひとつだけですから、そこに向かえばわかると」

「だから、それを伝えろって言ってんだよ!」



 烏有の怒声に反応したのか、道端から作業服姿の中年が顔を覗かせた。手にはネオン管が壊れた看板の残骸を握っている。男は訝しげにふたりを眺めた。


「見ない顔だな」

 六原が無表情に言った。

「東京から来ました。この辺りに旧家屋があると聞きましたが」

「だから何だ。あんたらもゴミを既に来たのか」

 男は警戒の色を濃くし、手に持った廃材を振った。烏有は前に進み出る。

「その調査に来たんです。各地から違法な業者が不法投棄を行っていると聞いて」


 男は急に表情を和らげた。

「おお、ついに来たのか! 前から再三どうにかしろって役所に行ってたんだ」

「重大な問題のようですね」

「そりゃそうだ。何だってわざわざあの松屋敷に捨てるんだか……」

「松屋敷?」


 烏有と六原は視線を交わした。男はふと息を吐いて言った。

「大昔の話で、俺も爺さん婆さんから聞いたんだが、今はズタボロになってるあの廃墟、元は松屋敷って言われてたんだよ」

「どんな方が住んでいたんです」

「医者半分拝み屋半分みたいなもんだってよ。詐欺師とは違うぞ。病気の流行ってるところを転々として、拝みながらちゃんとした薬も作って安く売ってたらしい」


 烏有は小さく息を呑んだ。歩き巫女と呼ばれた自身の系譜に重なる部分はある。詐欺師じゃないなら俺とは違うか、と胸中で呟いた。


「村の流行り病を取り除いてくれた礼にって、行き場のないそのひとたちに立派な家を建てて住んでもらおうってことになってな」

「それが松屋敷ですか」

「ああ。中にちゃんと祭壇も作ってな。まあ、定住してからはもっぱら拝み屋じゃなく医者だったらしいが」

「それが何故廃墟に?」


 六原の問いに、男はかぶりを振った。

「しばらくして、村に別の病が流行ったのさ。前のよりひどくって拝み屋一家には太刀打ちできなかった。だが、村人は何とかしてくれって縋ってくる。だから、村のひとを見捨てずに祈り続けて、最後は自分たちまで病気になって死んじまったと」


 烏有は目を伏せた。

「……その後は?」

「別の村から医者が来て、病は治った。動けるようになってから、村のみんなで拝み屋一家を厚く弔った。住む人間がいなくなってもあの家は残しておいたんだ」

「それが今でもあるんですね」

「ああ、拝み屋一家はうちの村の守り神みたいなもんだからな。病が鎮まった後、弱った村に漬け込もうと入ってくる奴等がいたが、みんなすぐ出ていったんだと。この業者どもも追い出してほしいもんだな」



 男はそう言って、駐車してあったトラックの荷台に廃材を投げ込んだ。

 男が去ったのを見送ってから、六原が呟いた。

「聞きましたね。恐らく、松屋敷の祭壇が神の出処でしょう」

「そうだな……行くか」

 寂れた畦道の奥から埃の匂いの絡んだ風が吹き抜けた。

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