こうもりの神、下
雨は吐き捨てられた唾のように車のフロントガラスを汚し続けた。
助手席の梅村がワイパーを見つめて言う。
「片岸くん、どう思う?」
「普通に考えるなら、死んだ娘が峠で祀られ続けるうちに神になったんでしょうね」
「普通に、ね……」
「創設期からいる梅村さんには釈迦に説法ですが、自分もいろんな神を見てきました。人間が神になるなんてパターンはほぼない。神は最初から存在して、人間がいくら足掻いても届く余地のない、それがほとんどですよ」
片岸はハンドルを切る。タイヤがぬかるんだ泥に溜まった雨水を跳ね上げる音がした。
「……片岸くんが知らない大昔の話だけど、すずなりの神って領怪神犯がいてさ。川に橋を架ける人柱にされた少女が鈴を鳴らし続ける音が聞こえるって怪談が発端だった」
「こっちの状況と少し似てますね。それで? その娘が神だったんですか?」
「違う。実態は神楽鈴みたいに大量の顔と手を持った神だったよ。生贄の少女を助けに人間が来たのを学習して、鈴の音でひとを誘き寄せて食う悪神だった」
「最悪ですね。道理で『鈴生り』か……あっ」
「何か思いついた?」
「いや、何でもないです。駄洒落みたいなものなので」
「言いなよ。恥ずかしがるなって」
「これで外したらみっともないですから」
突如、フロントガラスが黒く曇った。どす黒い雨雲が空を埋め尽くしたように。
片岸はブレーキを踏む。隣の梅村が低く唸った。
「出やがった……」
片岸は上空を睨んだ。
巨大な傘が死骸じみた白い骨を広げている。骨の間に張られた黒い布地が空を埋め尽くしていた。
「片岸くん、アレさっきよりデカくなってないか」
「ええ。しかも、最初見たときは布地なんてほぼなかったのに……」
巨大な傘は風に煽られて左右に蠢く。獲物を探す蝙蝠の動きだと片岸は思った。
視線の隅で、小さな黄色いものが揺れた。
「梅村さん、あれ!」
「何? うわ、マジかよ……」
細い雨が降りしきる峠を、傘をさした子どもが歩いている。
急な雨に俯き、白の運動靴に泥が染みるのを恨めしげに見つめていて、空を覆う異形には気づいていない。自分の背後に佇む影にも。
子どもの後ろに、若い女が立っていた。
赤い着物は泥で黒く染まり、濡れた髪を雫が伝い落ちる。絶えず降る雨は女の姿を白く霞ませていた。
梅村は額の汗を拭った。
「とりあえずあの子ども保護しようぜ。こうもりの神の対策は後回しだ」
片岸は黙り込んだまま、巨大な傘と娘を睨む。白骨の傘は子どもではなく、女の亡霊の上を飛んでいた。
「片岸くん、聞いてるか」
「はい……子どもの方は任せます。梅村さん、傘持ってますか」
「たぶんこっちにひとつだけあると思うけど」
梅村は座席の足元を探り、埃を被った折り畳み傘を差し出した。
「すみません、後で買って返します」
片岸は傘を受け取ると、ドアを開けて車外へ駆け出した。
傘を広げながら、片岸は子どもの方へ走る。
黄色い傘にすっぽりと覆われた子どもは、革靴の脚が泥水を跳ね上げる音にようやく顔を上げた。
「君、あの車の中に入れ!」
片岸は驚いて身を竦ませた子どもを抱え上げ、投げるように梅村に押し付けた。
「ちょっと、誘拐犯かよ!」
梅村の非難を無視して、片岸は再び駆け出す。
着物の女が濡れ髪を振り乱して顔を上げた。蒼白な顔には無数の擦り傷があり、泥の混じった血が雨と共に滴り落ちる。
片岸の頭上が更に暗く陰った。
こうもりの神が地上に向けて落下してくる。擦り切れた黒布と骨組みの間から、傘の先端が見えた。
上部に取り付けられた髑髏が赤い目を剥き、片岸を見据えている。
片岸はこうもりの神が迫る直前に、石碑に向けて折り畳み傘を差し出した。
苔むした石を打つ冷たい雨が、小さな傘に弾かれた。
片岸は石碑に傘を被せ、手を離す。背後で、濡れた着物がぐちゃりと音を立てた。
「……悪神じゃないよな。ずっと探してたんだろ。あの娘、子守の女が探してた子どもを一緒に探してやってたんだろ。あのとき、誰かが代わりに傘をさしてやれば、はぐれずに済んだのにって」
天蓋のように空を覆う、こうもりの神が風もなく揺れる。白骨の傘は娘を雨から守るように広がっていた。
「この傘をやるから。もうやめておけよ」
石碑に掘り抜かれた文字に溜まった雨水が、涙のように滴り落ちた。
こうもりの神と着物の女が消えた。
片岸は薄い雨雲だけが流れる空を見上げ、ずぶ濡れのまま車に戻った。
助手席で、梅村が呆然とする子どもを抱えながら怪訝な目を向ける。片岸は溜息をついた。
「たぶん、終わりました。その子を送り届けて帰りましょう」
鈍色の空の下で車を止め、片岸はドアを開けて子どもを促す。
「急に悪かった。気にしないでくれ。できれば家族や学校の先生には言わないでくれると……」
「片岸くん、マジでそれ誘拐犯だよ」
子どもは車を降りると、一目散に駆け去って言った。
片岸はこめかみに手をやる。
「明日の不審者情報に載らないといいんですが……」
「新聞の一面に載らないだけマシだと思うしかないな」
梅村は鼻で笑ってドアを閉めた。
「それで、こうもりの神はどうなった?」
「消えました。あれでいいんだと思います」
「何したの?」
「傘を貸したんです」
片岸は煙草を一本抜き出し、シガーライターで火をつけた。
「梅村さんがすずなりの神の話をしてくれたでしょう。それで思ったんです。こうもりの神は何でこんなことをしてるのか、そもそも何故傘の姿なのかって」
「それで?」
「あの峠で子どもが死んで、それを探しに来た娘も死んだ。傘のせいで手を繋げなかったから。自分が傘代わりになってあげればと思ってあの姿を取ったんじゃないかと」
「子どもを攫ったのは?」
「娘が探してた子どもを見受けてやろうとしたんじゃないでしょうか」
「なるほどね……何でそこまでわかるんだよ。現地調査員の勘ってやつか?」
片岸は煙を吐いて苦笑した。
「それも梅村さんの話のお陰ですよ。駄洒落だって言ったでしょう。こうもりの神は元々『子守りの神』なんだと思います」
「本当に駄洒落だな」
梅村は眉を下げて笑い、雲間から挿す陽光を反射する窓を見つめた。
「攫われた子どもは帰ってくるのかな」
「どうでしょう。そう祈るしかないですが」
「神なんてそんなもんか」
車内に満ちた煙がゆっくりと滞留する。梅村は目を細めた。
「昔さ、そんな風に消されちゃった仲間がいたんだ。その中に好きだった子もいたんだよね。間接的には俺のせいでもあった訳。勿論望んじゃいなかったけど」
片岸は言葉を詰まらせた。
「そのときは神がやったことだし仕方ないそんなもんかって思った。でも、切間にぶん殴られたんだよ。初対面だぜ、信じられないだろ」
梅村は自分の頰を指す。
「信じられないと言うか、今の切間さんからは想像できないですね」
「まあ、あいつは変わったよ。いろんなことあったからさ。俺からしたら馬鹿なまんまだけどね」
片岸は携帯灰皿で煙草をすり潰した。軽薄な笑みを浮かべる横顔が煙で霞んだ。
梅村はダッシュボードに頬杖をついた。
「今じゃ嫁さんも娘もいるけど、あのとき自分が行動してたらって、たまに思うよ。切間もたぶんそういう後悔で動いてる。こうもりの神と変わらないかもな」
「人間と違って、なまじ干渉できる力を持ってるから厄介ですね」
「片岸くんがそういう力持ってたら、どうしてた?」
片岸は目を閉じた。
最後に見た彼女の微笑みがいつのものだか朧げだった。それでも、笑っていても不幸そうな顔ではない。呆れたような笑みだったと思う。
「考えつきませんよ。自分には何の力もありませんから」
「片岸くん、たぶん切間と仲良くなれると思うよ。昔の切間さんに似てるから」
「昔のって、俺はひとをぶん殴りませんよ」
「そうじゃなくて、まあいいか」
梅村は小さく笑った。
雨はもう止んでいた。
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