こうもりの神、中

 片岸は唖然として上空を見上げる。


 巨大な肋骨を思わせる白い骨組みと、その隙間に張りついた襤褸布から、雨水が滴っていた。

 傘はひとを雨から守る気などないように萎んでいて、枝に止まった蝙蝠を想像させた。


「何だあれは……」

 いつの間にか車から降りた梅村が隣で空を仰いでいた。

「あれくらいデカい神も、人里に降りてくる神もいることはいるけど、あんなに堂々とずっと浮かんでるのはちょっと特殊だよなあ……」

「あれは……人間の生活にどんな影響を及ぼしてますか?」

「今のところはただ浮かんでるだけらしい。でも、ちょっと気になる噂があるんだよね」

 梅村は片岸の肩を叩いた。

「あのオンボロ傘じゃ雨宿りもできないし、車に戻って聞き込みに行こうぜ。目星つけてるところあるからさ」


 片岸はもう一度傘を見上げた。遥か上空の先端に小さな丸い飾りがついている。髑髏のように思えた。



 分厚い茶色の木戸を押すと、真鍮のベルががらんと鳴った。


 エプロン姿の初老の女が「いらっしゃい」と微笑んで、ふたりを出迎える。喫茶店の照明は仄暗く、ラジオから流れるジャズが響いていた。


 片岸は上着の水滴を払いながら、梅村を睨んだ。

「聞き込みじゃなかったんですか」

「これも立派な聞き込みだろ。地元の喫茶店は常連しか来ないから穴場だぜ。それに、朝飯食ってなくてさ」

「それが目的でしょう」



 片岸が溜息をつく間に、梅村は早くも奥の席に座った。

 ステンドグラスのランプが影を落とすテーブルにつくと、店員が注文を取りに来る。

「ピザトーストとコーヒーで、片岸くんは?」

「同じので大丈夫です」


 店員が立ち去ると、梅村はガラスの灰皿を片岸に寄せた。

「片岸くん、吸うひとだよね」

「どうも。梅村さんは?」

「今はやめた。昔はアークロイヤル吸ってたんだけどね」

「結構重いの吸ってたんですね」

「他人の影響でね。結婚して、嫁さんにやめろって言われたんだよ」

「お子さんの健康のためですか」

「いや、子どもができる前から。結婚前はそんなこと言われなかったんだけどね。女の勘ってやつかな」

「それ以上は聞かないでおきます」



 片岸が軽く手を上げたとき、大量のトマトとピーマンを乗せた分厚いトーストとコーヒーが運ばれてきた。

 摘んだだけで指先が油だらけになる焦げたチーズを齧っていると、ドアのベルが鳴った。



 雨に濡れた老人たちが三人、店内に雪崩れ込んでくる。

 慣れた口調で「いつもの」と指を立て、カウンターに座った。常連客のようだ。


「またこうもり峠だよ。これで五人目か?」

 老人たちの声に、梅村がパンをちぎる手を止める。

 片岸も耳をそば立てた。


「子どもばっかりなあ。うちの息子の嫁さんが怖くて孫を連れ歩けないって震え上がってたよ」

「でも、晴れりゃ問題ないんだろう?」



 片岸はちょうど水を注ぎ足しに来た店員を呼び止めた。

「仕事でこの辺に来たんですが、峠で何かあったんですか?」

「あそこねえ……ちょっと物騒なんですよ。あの辺を通ったひとがたまに行方不明になるらしいんです。しかも、雨の日で子どもだけ」

「ちょうど、今日のような?」

「そうです。事件じゃないかと思ったけど何の手がかりもなくて。雨の日はみんなあそこを通らないようにしてるんですよ」


 梅村は布巾で手と口元を拭って言った。

「事件っていうより怪談みたいですね。お姉さんは何か知らないんですか?」

「やだ、お姉さんなんて。私は三年前に退職してここに移住してきた新参者なんですよ。土地のことはあのひとたちが詳しいんじゃないかしら」


 店員は途端に顔を綻ばせ、カウンターに座る老人を指した。

 梅村はさっさと立ち上がり、老人たちに話しかけてる。間もなく笑い声が聞こえた。

「すげえな、俺よりずっと現地調査員向きだ」

 片岸は苦笑して席を立った。



 野球帽を被った老人が身振り手振りを交えて梅村に語る。

「最近来たひとは知らないだろうが、俺らがガキの頃からあそこは危ないって言われてたんだよ。女の幽霊が出るとかな」

「お前は昔からそういうの信じてたもんなあ」

 眼鏡の老人が笑い飛ばす。


「女の幽霊? 傘ではなく?」

 割り込んだ片岸に老人たちは一瞬戸惑ったが、すぐに言葉を続けた。

「おう、着物着た若い女幽霊だってさ。雨の日に傘もささずにふらっと現れるんだよ。それで、傘をさしてる子どもを見つけて攫っていくらしい」


 片岸は眉を顰めた。

「傘をさしてると、ですか」

「ああ。だから、どんなに土砂降りでも傘をさしちゃいけないんだとよ」

「峠の向こうは崖になってるから、ずっこけたとき両手が塞がってちゃまずいってことかもしれないけどな」

 梅村が頷く。

「そのまま言い聞かせるより怪談にした方が効きますもんね」


 競馬新聞で顔を隠していた老人が、目だけを覗かせた。

「それだけじゃないけどな」

 ふたりの老人が目を丸くする。

「何だよ。お前がそんな話するなんて意外だな」

「偶にはいいだろう。こうもり峠の怪談って言ったらうちの婆さんの十八番だったからな」


 老人は新聞を畳んで机に置いた。

「昔この辺りにお屋敷があって、そこの当主がひとり息子を大事に育ててたんだ。よそから奉公に来た娘を世話係にしてな。いつもふたりは手を繋いで歩いていた」

 低い声が這うように店内を流れた。

「だが、あるとき、娘は子どもを連れてこうもり峠を歩いてる最中、大雨に降られた。右手には傘、左手には買出しの大荷物。いつもは手を握ってる子どもは、そのときだけ少し後ろをついて歩いてた。そして、崖からツルッと足を滑らして落っこちちまったんだ」

「……それで?」

「屋敷の夫婦はカンカンに怒って、子どもを見つけるまで帰ってくるなと雨の中娘を追い出した。真っ暗な土砂降りの崖で、娘は同じように足を滑らして死んじまったのさ。今でも子どもを探して娘が化けて出るんだよ」



 片岸と梅村は小さく息を呑み、梅村を見る。視線に気づいた梅村は大きく手を叩いた。

「すごかったですねえ! 本気で怖かったですよ」

 沈黙していた老人たちが表情を和らげる。

「こいつは昔っから怪談語らせると悪趣味なんだよ」

「人聞きの悪い」

 コーヒーを啜り始めた老人たちに、梅村は自然な口調で聞いた。

「峠に石碑がありましたけど、あれってその娘を祀ってるってことですか?」

「そうじゃねえかなあ」

「いや、それよりずっと昔からあるって聞いたけどな」


 梅村は片岸の耳に口元を寄せて囁いた。

「現地調査員の見解は?」

「……鰯の頭も信心から。よくある怪談話でも、信仰が募れば領怪神犯になり得ます」

「なるほどね……」



 片岸から身を離し、梅村が立ち上がる。

 止める間もなく、ふたり分の会計を済ませ、梅村はドアに手をかけた。

「行こうぜ、片岸くん。といっても記録しかできないけどな。難儀なもんだよ。昔なら破壊できたかもしれないのに」

「教訓を怪談にしないと活かせないタイプですか」

「怖いものはもう嫌ってほど見聞きしたけどさ」

 片岸は肩を竦めた。

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