三、辻褄合わせの神

 神社を後にして人里へ降りてくると、既に陽が傾き始め、商店街の店々のシャッターに西日が反射していた。



 電線すれすれにぶら下がっていた提灯はもう片付けられている。提灯を飾っていれば祭りということになって、またあの神輿が来るということにでもなっているのだろうか。

 ろくでもない想像を振り払って商店街を進むと、埃を被ったショーケースに紳士用の革靴を並べた靴屋が、火かき棒のような長物でシャッターを降ろしているところだった。

 店主の老人は、俺と宮木を見ると半分まで降りたシャッターから身体を覗かせた。


「思いつきましたか?」

「何?」

 思わず声が低くなる。遅れてやって来た客にもう閉店なんですよと言い聞かせるような、申し訳なさそうな笑顔で老人が繰り返した。

「そろそろ思いつきましたか?」

 宮木が俺に首を振る。老人が降ろした残り半分のシャッターが苦笑をかき消した。



 点いている方が消えているより帰って虚しいような古ぼけた飲み屋の赤提灯が灯り出す。

 俺と宮木は無言で足を早めて商店街を抜けた。

 路肩に寄せられていたお面の屋台はもうない。


 住宅街に入ると、一歩進むごとに示し合わせたように俺たちの背後の家の明かりが点滅した。

 手入れの雑な椿の垣根と突き出した梅の木の枝が見えてくる。

 葉も花も落ちた太い枝の真下に、箒を手にした初老の女がいた。


「ここの家の方のお知り合い?」

 田舎の人間らしい馴れ馴れしさで女が語りかけてくる。普段なら鬱陶しいところだが、不気味な謎かけをされた後では幾分か救われた。

「ええ、まあ……」

「ここの木、切ってくれないかしらねえ。私なんか背が低いからいいんだけど、孫が仕事に行くと毎朝きちょうど引っかかりそうになるのよ」

「それは危ないですね。伝えておきますね」


 宮木が愛想よく返して庭木戸に手をかけたとき、女は箒を持ち直して呟いた。

「ここの家の方でも、貴方方でもいいんだけど……」

「ちゃんと切るように伝えておきますよ」

「切るって、梅の木の方じゃないのよ」

 女は顔の前で手を振って、表情を打ち消した。


「そろそろ思いついたのかって」

 戸にかけた宮木の手がピクリと跳ねる。俺は女を見返した。

 女の唇がすぼまり、横に広がって舌を小さく出す。

 う、で。

 俺たちは逃げるように友井の家に飛び込んで扉を閉めた。


「片岸さん、思いついたかって、あれですか……」

「あの腕の辻褄合わせ、だろ」

 宮木は沈鬱な表情で俯いた。

 玄関で息を整えてから顔を上げると、二階の階段から降りてくる途中だったこの家のひとり息子が見下ろしていた。

 陵は俺たちの様子から何かを悟ったのか、軽い足音を立てて階上へ駆け上がっていった。



「陵、挨拶くらいしなさい」

 暗い居間から顔を出した夫人が二階に向かって叱りつける。返事はない。

 夫人は眉を下げて俺たちに会釈すると、やっと居間の電球を点けた。


「息子が失礼をして……ごめんなさいね」

 テーブルに座った俺たちの前に薄い陶器のカップが置かれ、ポットから紅茶が注がれる。湯気が全く立たず、ずっと前から淹れ直していないのだろうと思った。

 案の定紅茶は死人の肌のように冷たく、渋かった。


「遅くできた息子だから甘やかしすぎてしまったんです」

 向かいに座る友井が音を立てて紅茶を啜った。

「お恥ずかしい話、私もそうだったんですよ。母がもう子どもは望めないとずっと言われ続けて、諦めた頃に授かったらしくてですね。母から叱られた記憶は一度もありません」


 友井は照れたように笑いながらポロシャツの襟のボタンを外した。

 宮木の視線がその首元に注がれる。友井の首にはぐるりと一周、縄で絞められたような赤い痣があった。

 ここに来る前に聞いた伝承が脳裏をよぎる。

 継子殺しの母子は綿を吐いて死に、親に恵まれなかった子どもは子に恵まれなかった女の元に生まれ変わった。



「友井さんのお母さんはどんな方なんですか? お仕事とか」

 宮木の唐突な問いに面食らいながら、彼はマグカップを置いて眉間を掻いた。

「静かであまり自分の話をしないひとでしたから……」

「でも、昔大きなお屋敷に勤めていたのよね?」

 妻が口を挟み、夫が「どこまで本当だか」と笑う。

「そのお屋敷だってもうないしなあ。一家に不幸があったとか何とかで屋敷のご主人も逃げてしまったらしいし」


 俺は何も知らない体で切り出す。

「そのお家に不幸というのは?」

「奥様とお子さんが亡くなられたんです。普通の亡くなり方ではなかったようで。強盗じゃないかって話もありましたが……それはないと思いますよ」

 強盗なら神が犯人を見過ごさない、とでも言う気か。

 友井はどこまで知っていてどこまで隠しているのだろう。


「事件だったならお母様はよくご無事でしたね。ああ、たまたまそのとき産休を取っていらっしゃったとか?」

 宮木が尋ねると友井は少し考え込んだ。

「いや、それだと計算が合わないな。確かその事件は私が生まれる半年くらい前ですから」

 俺と宮木は同時に視線を落とした。言い伝えでは女中が臨月で暇をもらっていたときの事件ではなかったか。


「嫌な話ですからあまりみんなしたがらないんですよ。何でも母子は眠った後口に綿を詰めて死んでいたらしい。よくない噂のある後妻でしたから因果応報なんて言うひともいましたがね」

 友井は仕切り直しとばかりに音を立てて紅茶を飲み干した。


 この男の母である女は産休の最中ではなかった。女中なら母子の食事に睡眠薬を入れるなり、眠らせる術はいくらでもある。屋敷を熟知しているなら証拠の隠滅を容易かっただろう。我が子のように愛していた子どもを殺された女が恨みに思った犯行だとしたら––––。


 俺は冷めきった紅茶を見る。赤い表面に一筋の埃が浮いていた。

 友井の母親がひと殺しだと決めつけるのは短慮だろうが、もし仮にそうだとしたら、今の状況は遅れてきた因果応報ではないだろうか。

 ひとを殺して素知らぬ顔で辻褄を合わした女が授かった子どもの息子が、辻褄合わせの神に試されている。

 悪い想像は加速する。



「友井さん、先ほど見せてくださった……その……」

 俺は壁際にゴルフクラブのように立てかけてある新聞紙の包みを指す。腕とは言わない方がいいだろう。

 友井が意図を汲んで包みを俺に手渡す。


 セロハンテープで止め直した新聞紙を開くと、やはり一本の腕があった。肘のくぼみのくすんだ青痣も変色していない。紫斑ではないようだ。

「この腕の辻褄合わせ、か……」



 呟いたとき、廊下で微かな足音がした。見ると、陵が玄関に屈んでサンダルを引き寄せているところだった。

「どうした?」

 友井が首を伸ばす。

「大学の友だちから電話。何か用があって近くまで来てるんだって」

 青年の細い背が磨りガラスから突き抜ける夕陽に黒く縁取られる。扉が半分開いたとき、陵が何者に腕を引かれて姿を消した。



「宮木、行くぞ!」

「友井さんたちは動かずに!」

 俺たちは体でぶつかるように扉を開けて外に飛び出す。耳の中で鈴の音が炸裂した。


 家をぐるりと取り囲む椿の垣根の内側、ひと回り狭い内円が広がっている。囲んでいるのは全てひとだ。

 エプロン姿の主婦から立っているのが不思議な老人まで、村人たちが友井家の庭に入り込み、玄関を塞ぐひとの壁を作っていた。


「陵くん!」

 宮木が叫ぶ。片足のサンダルが脱げた陵の肩を捕まえているのは、神輿を担いでいた白装束の男衆だった。蒼白な青年の顔の中で赤い唇が震えている。


「何だよ、こいつら……」

 異様な光景に混乱する頭をさらに掻き乱すように大音響の祭囃子が響く。高く低くなる笛の音に間断なく鳴らされる鼓の反響。村人たちは囃子に合わせて波のように揺れていた。



 白装束の男に肩を突き飛ばされた陵がたたらを踏んで立ち止まる。中央に押し出された彼に向けて村人が一斉に目を向けた。

 祭囃子が止む。村人はくすくすと笑ってから、せーのと息を合わせた。


「そろそろ何か思いつきましたか?」


 老若男女の合唱が響いた。陵は答えられずに震えるだけだ。

 陵と同世代の青年が進み出、級友に語りかけるような声で言った。

「何も思いつかなかったんだ?」

 その手には柄が赤く塗られた手斧が握られていた。

 光を吸収する分厚い鉄の刃がゆっくりと振り上げられる。



 俺は村人たちを突き飛ばして駆け出し、斧をかざす青年の脇腹に肘を打ち込んだ。青年が重心を崩し、隣にいた陵を巻き込んで倒れる。石畳の上で跳ねた斧を主婦が素早く拾う。


「何やってんだ、逃げろ!」

 陵が必死に青年の腹の下から這い出した。怒鳴りながら村人の包囲網を見回す。一体どこに逃せばいい?


 止んでいた祭囃子がさらに盛大に鳴り響く。主婦が振り下ろした斧の刃が陵の脇を掠めた。

 悲鳴を上げて顔を庇った細い腕に血が滲み、肘が青黒く染まっていた。



「宮木……」

 俺は次の言葉を言うかどうか躊躇した。迷っている間にも斧の追撃が陵に迫っている。

 宮木の瞳孔がすっと細くなり、俺に背を向けた。


「陵くん」

 右肩を捕えられた陵が不安げに顔を上げる。向かい合う宮木の表情は見えない。俺が止める間もないほど宮木の言葉は短かった。

「ごめんね」


 宮木が陵の肩を両手で押した。上体を浮かせた彼の向こうに振り下ろされる斧の銀の軌道が見える。


 鮮血が宙に弧を描き、伸びすぎた枝を伐採するように切断された一本の腕が飛んだ。



 赤い半円が夕空に線を引く間、立ち尽くしていた村人がゆっくりと胸元に手を持っていくのが見えた。

 倒れていた青年も起き上がり、主婦も斧を捨てる。それから拍手の音が響いた。

 村人が微笑を浮かべて拍手をする。腕を切り落とされた陵と、立ち尽くす俺と宮木をよそに、盛大に。


 白装束の集団は加わることなくしばらく見守ると、均一の取れた動きで踵を返し、庭の生垣から出て行った。

 村人たちも拍手を止め、軍隊の行進のように背を向けてぞろぞろと帰っていく。

 消えた祭囃子に代わってあまりに早すぎる救急車とパトカーのサイレンが聞こえ出し、夕陽より赤いランプの光が庭を染めた。



「大変でしたね、息子さんが……」

「手元が狂ったなんて、怖いわねえ」

「とにかく今ご両親は気をしっかり持ってください」

「変な話、命まで盗られずに済んだのは不幸中の幸いでしたよ」

「ええ、これが腕じゃなく胸や頭だったらもう……」



 狭い病院のロビーには暖房の淀んだ空気と村人たちの世間話が充満している。

 俺と宮木はガラス一枚隔てた外の駐車場にいた。


「陵の命に別状はないそうだ。切れた腕も手術で繋がるらしい……」

「よかったです……」

 忙しなく院内を走り回る看護師と、ウレタンの出た長椅子を囲んで友井夫妻を励ます村人は、ここから見ているとミニチュアの病院に押し込めた人形のようだ。


「神、空にしろしめす。なべて世はこともなし、か」

 宮木が無理に笑おうとする横顔がガラスに反射した。


「宮木」

「はい」

「言うべきじゃねえんだろうが、よくやった」

 作り笑いが驚きに変わり、呆れた笑顔に変わった。


 辻褄合わせの神の試練への解答は、陵が肘に痣を作る前から薄々浮かんではいた。

 庭に腕がかかっていたという事実に犯人を作らず説明をつけるなら、事故か何かで家人が失ったものということにするのが一番穏当だ。


 加えて、ここの神は失くした物を元の場所に戻す神だ。陵が庭で腕を失い、庭で取り戻す。過程と結果が逆になるが、それは後で辻褄を合わせればいい。

 それが一番被害の少ない解答に思えた。

 それをする度胸が俺にはなく、宮木にはあったという話だ。



「付け焼き刃の辻褄合わせでしかないけどな……」

「ここの神も似たようなものですよ。本来はそんなことできる神じゃないんでしょう」

 宮城は肩を竦めた。

「辻褄合わせと言えてしまうものなんて大したものじゃないんです。本当にやってしまえるものなら誰も辻褄を合わされたことなんか気づかず、元からそうだったと思い込んでいるはずですから」


 俺は白い横顔を見たが答えはそれ以上返ってこなかった。

「そうかもな……そういう神もいる」



 実際、俺が追っているのはそういう神だ。

 俺は隣にいる宮木ではなく、ガラスの中に映っている方と目を合わせた。


 こいつにそろそろ俺がこの仕事を始めた理由について話さなければならないだろう。つまり、ほんのいっとき俺の妻だった女の話を。



「まあ、でも、とりあえず……今日は帰って何にも考えないで寝てえな……」

 光に満ちたロビーの様子に溶け込む虚像の宮木が頷き、そうですねと唇が動いた。

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