墓標

@perozo

墓標

 これは墓標である。

 俺たちが確かにそこにいたことを、そしてもう二度と蘇ることのない日々を刻むための。

 そうでなければ先には進むことが出来ないから。


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01 始まり

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 遊ばなければならない。

 何故か突然そう思ったのは25歳の誕生日を迎える少し前のことだ。

 四捨五入すると30歳という現実に漠然とした未来への不安を覚えた。

 「田原坂さん。25歳の目標決めましたよ」

 同僚の先輩である田原坂さんはパソコンから目を離し、笑みを浮かべながら「おー、何にしたんだ」と面白そうな声。

 「遊ぼうと思います。自分で言うのも何ですが今までマジメに生きてき過ぎたような気がするんです。今まで彼女出来たこともないですし、何よりもゲームとか好きで休日は引きこもってる方が多いくらいでしたから。まぁ、そんなだから大学のときもコンパやサークル活動とか縁がなくて。思い返せばつまらない生き方だなって思ったんです」

 それまでこちらに目を向けつつもカタカタとキーボードを鳴らしていた音が止まる。

 「それは良いな!さっそく俺がどこか連れてってやるよ。何時が良い?誕生日の祝いってことで任しとけ」

 力強い声で言うと田原坂さんは先ほど以上の速さでキーボードを打ち始めた。

 あの時の言葉はとても嬉しかった。

 自分は本当にマジメなだけでつまらない人間で遊び方すら知らずにいたのだから。

 25歳の誕生日は当たり前のようにやってきて、四捨五入して20歳の年に別れを告げた。

 25歳になったからと言って周りが何か変わるわけでもなく、仕事の内容も給料も大して変わらないし、寝て起きたら高身長イケメンになっているわけでもない。

 ただその日の朝は昨日よりも世界が急いでいるように見えた。

 仕事が終わり、田原坂さんに肩を叩かれる。

 「今日は面白いところに連れて行ってやるよ」

 九州男児の血が流れる彼は豪快な性格で中途採用ながらも早くからプロジェクトのリーダーを任されるほどにエネルギッシュだった。

 面白いところと言われても自分にはピンと来なかった。

 外で遊ぶといえばゲームセンターやボウリングといったくらいしかしてこなかった自分だ。

 夜の繁華街を歩き、慣れない喧騒を通り過ぎていく。

 自分の知らない世界だ。

 ネオンが光り、ハッピを着た青年がカラオケや居酒屋をしきりに勧めている。

 飲み放題60分ポッキリ1000円という派手な看板の横を通りながら田原坂さんは「安いけど値段相応だからな、もっと良いところが」と呟いていた。

 しばらく歩いたところで田原坂さんは斜め前の店舗を指さして「ここにしよう」と笑った。

 全国チェーンの餃子屋の看板が見えた。

 「バカ、そっちじゃない」

 「餃子ですか」と聞いた自分に田原坂さんはニヤリと笑い、餃子屋の横にある店舗を指さしていた。

 シルクロードという店だった。

 海外のドラマでしか見たこと無いような回転するドアが出入り口のショットバー。

 薄暗い店内は外から様子を窺い難い。

 「いいから来いよ。知ってる店だ」

 そう言うと田原坂さんは勝手知ったように回転扉を押して店内へと入っていく。

 それに倣って自分も店内へと入る。

 店内に入って感じたのは思ったよりも広いということ。

 奥行があり、ズラッと長いカウンター席が続いている。

 カウンター奥の木製の棚には無数の酒が置かれ、バーテンが目の前の客と談笑しながら次の注文を聞いていた。

 ピシっと決まったバーテンの制服、高級感溢れる装飾が為された壁、薄明りはそれら照らし、非日常的な空気を醸し出している。

 「久し振り!元気してた」

 出入り口近くの席に座った田原坂さんがバーテンに声をかけると「いやぁ、元気ですけど田原坂さんこそ大分ご無沙汰だったじゃないですか。景気悪いんですか」と気心が知れたような会話が為されていた。

 本当に何度も来ているのか、それとも顔と名前をすぐに覚えられるくらい強烈な印象があるのか分からないが、自分からするとバーの店員と馴染みになるということが凄いことだ。

 「おう、こっち座れよ。こいつ俺の会社の後輩なんだけど、あまり遊び慣れてないもんで色々教えてやろうと思ってな」

 「そうなんですか。それでここが一発目ですか」

 「そうそう。分かり易いところから順にやってこうと思ってよ。ということでメニュー貰っていい」

 「かしこまりました」

 そんなやり取りがあり、すぐにメニューが手渡された。

 メニューには自分でも知っているような有名メーカーのビールもあれば、ウィスキーの欄に1ページで収まらないほどの銘柄が記載されてもいた。

 後半のページにはカクテルがいくつも記載され、名称の下にベースの酒と混ぜ物が何であるのか、度数はどれくらいなのかがあり、なるほど初心者でも分かり易いと感じた。

 「いろいろあると思うけど、まずはウィスキーだ。ページ見てもらえば分かると思うけどウィスキーと言っても様々な銘柄があってな、それぞれ特徴がある。分かり易いのはこのマッカランってやつとラフロイグってやつを飲み比べて見るといいと思う。ということでマッカランとラフロイグをロックで」

 こちらの様子を窺っていたバーテンは手際良くグラスを用意し、丸い透明な氷をカランと音を立てて入れる。

 「こちらがマッカランになります。熟成期間によって味に違いが出ますが、もっともメジャーな12年を用意しますので、まずはこちらをどうぞ」

 目の前に出された美しい琥珀色のウィスキーを一口含む。

 高い度数の酒を飲んだときの熱い感覚が下を焼き、それとともに感じる甘さに今まで飲んだことがあるウィスキーとの確かな違いを感じた。

 「甘いですね」

 「そうですね。マッカランはその甘さとキレの良さからとても飲みやすいウィスキーとして広くお勧めできる銘柄として多くのバーで取り扱われています。それでは、次にこちらをどうぞ」

 そう言いバーテンが差し出したウィスキーはマッカランよりも濃い色をしていた。

先と同じように一口飲もうとしてグラスを近付けたとき、独特な香りが鼻腔を突き抜ける。

 思わず一度立ち止まるが、意を決して口に含むとマッカランと違った重たい味がした。

 「これは凄い独特な香りと味ですね」

 「ええ。ラフロイグはマッカランと比べてクセが強いウィスキーとなります。最も特徴的なのはその香りですね。スモークされたような香りは他のウィスキーでは味わえない独特のもので、これがクセになる方も多いです」

 手元のコースターにラフロイグのグラスを置くと、ふと前のマッカランはどこに行ったのかと思い隣を見ると田原坂さんがちょうど空にしたグラスをカウンターに戻すところだった。

 「ウィスキーは銘柄での違いが結構あるから自分の気に入ったやつを見つけるのも面白いからまた色々試してみな。そしてバーと言えばカクテルだけど、これは本当にその日の気分とか個人の好みだから後ろのページ見て何か気になったやつあったら注文してみ」

 言いながら田原坂さんはラフロイグのグラスとメニュー表を交換していく。

 缶チューハイのカクテルならば飲んだことがあったが、こういった本格的な場所で飲むカクテルは初めてなうえ、ベースとなる酒についてもよく分からない自分は直感的に「グラスホッパーください」と決めた。

 「正直俺はウィスキーか焼酎が好みだからカクテルはよく分からん。グラスホッパーって言われてもどんなカクテルか分からんけど、どんなカクテルなんだ」

 「ミントとカカオのリキュールに生クリーム混ぜたやつらしいです」

 「へー。それじゃ甘そうだな」

 そんな会話をしている目の前ではシェイカーが用意され、砕いた氷がジャラジャラと吸い込まれていく。

 メジャーカップに注がれた緑と透明のリキュールが、生クリームがそれぞれシェイカーへと投入されるとバーテンは小気味よくシェイカーを振り出した。

 薄暗い灯りに照らされたバーテンはシェイカーを振り、その背景となる棚には色とりどりの酒が並ぶ。

 その姿は一枚の絵として完成された美しさに思える。

 シェイカーの蓋を外したバーテンはカクテルグラスに中身を注いでいく。

 白緑の美しいカクテル。

 「お待たせしました。こちらがグラスホッパーになります」

 飲んでしまうのが惜しいと思うほどに美しい色合いであったが、メニューの説明文にショートカクテルのため提供後は早めにお召し上がりくださいと記載されていたことを覚えている。

 カクテルグラスを持ち、一口。

 ミントの爽やかさとカカオの甘さ。

 シェイクするときの氷の残りがミントチョコレートのソフトクリームとでもいうような不思議な食感を与えている。

 ソフトクリームよりももっと細やかな、だけれども決してココアなどの甘い飲み物というわけでもない。

 「美味しいです」

 「ありがとうございます。グラスホッパーはショートカクテルに分類されるため提供されたらすぐに飲んでしまうことをお勧めしておりますが、その理由は飲んでいただいた今なら深く説明する必要すらないでしょう。ちなみにカクテルにはカクテル言葉というものがありまして、まあ花言葉のようなものですが、このグラスホッパーというカクテルには『あなたに会えて嬉しい』という意味があります。もし気になる方とバーに行かれる機会があれば頼まれてみてはどうでしょう」

 「そんな人が出来たらいいんですけどね」

 「ま、それはボチボチってな。とりあえずバーの授業はここまでだ。それ飲んだら次行くぞ」

 田原坂さんはウィスキーのロック2杯程度では全く酔っていない様子で、「会計は俺に任せろ」と言ってこちらが財布を出す隙もない速さで会計を済ませてしまう。

 「ご馳走様です」

 店舗の外で軽く体を捻りながら田原坂さんは「良いってことよ。それよりも次だぞ」とズンズンと歩き出す。

 次に向かった場所には屈強な男達が立ちはだかっていた。

 筋骨隆々とした男たちが店に入ろうとしている人を止めては身分証を確認している。

 「クラブは初めてか。実は俺、昔DJやってたんだよ。この店じゃないけどな。盛り上がるならやっぱりクラブは外せないからな。」

 運転免許証を見せると何の問題もなく中に入ることができた。

 エレベーターで上階へと昇っていくと途中の階が格闘技のジムだということが分かる。

 恐らくクラブのセキュリティはそこの関係者なのだろう。

 エレベーターが開くと重低音が耳に飛び込んできた。

 レーザー光線がフロアを飛び交い、重低音の曲に合わせて客は身体を揺らしている。

 受け付けで買った入場券代わりの紙バンドを着け、貰った酒の引換券を手にカウンターへと向かう。

 「ここでは酒と音楽を楽しめる。踊ってる客も多いけど、席に座って音楽を聴いて身体を揺らして酒を飲んでるだけでも楽しめるぞ」

 田原坂さんの言う通り、とりあえずカウンターで引き換えた酒を持って席に着いて音楽に合わせて身体を揺らす。

 確かにそれだけで酒に酔った身体は快感を覚える。

 レーザー光線と大音量の重低音が放つ非日常感も相まって浮遊感にも似たフワフワとした感覚に包まれる。

 「ちょっと待ってろ」と言い田原坂さんは席を離れるとすぐに女の子を2人連れて帰ってきた。

 「こんばんはー!初めまして。2人は会社の同僚なんだって、田原坂さんって面白いね」

 派手な格好をした女性が友好的に話しかけてきて何と答えて良いのか分からず「そうですね」とだけ返すとすぐに沈黙が降りてしまう。

 「ところで2人も会社の同僚なんでしょ?何やってるの?2人とも美人だし美容関係とか?」

 その沈黙が苦にならないタイミングで田原坂さんは会話を繋ぐ。

 「いやいやただのOLだよ。今日は仕事早く終わったから久し振りに楽しもうかと思って来たんだー」

 「へー、そうなんだ。あれでも早く終わってこの時間ってことなら近くで働いてるってこと?むっちゃ都会の女やん」

 「あはは、今はね。地元はすっごい田舎だったよ!田んぼとか普通にあったし」

 他愛も無い会話が続く中、自分は手の中のカクテルと音楽に埋もれていた。

 結局、最後まで会話に参加することが出来なかった。

 「じゃあね、バイバイ!楽しかったよ」

 そう言った彼女たちは田原坂さんしか見ていなかった。

 「おーい、もうちょっと頑張れよ。折角女の子調達してきてやったのに。ま、これからだな」

 軽く肩を叩かれ、まだまだ先は長いと思った。

 25歳という年を迎え、漠然と結婚というものが頭の中に浮かんでいた。

 しかし、今の自分は悲しいことに気の利いた言葉一つ吐けないでいる。

 こんな調子で結婚はおろか、女生と付き合うことすらできないのではないだろうか。

 「田原坂さん」

 「ん」

 「これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

 「おう!まかせろ」

 そしてこの日は締めのラーメンを食べて帰宅した。

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出会い

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 26歳の誕生日を迎えることに抵抗はなかった。

 25歳の誕生日を迎えたときは何かが終わったような気がしたけれど、何の感慨もないのはきっと節目と感じる年が25歳だったということだろう。

 この1年で目標にしていた『遊ぶ』ということ、それは概ね達成したと言って良いだろう。

 バー、クラブから始まり、キャバクラ、セクキャバ、ガールズバー、相席居酒屋、キャバレー、デリヘル、ヘルス、ソープと夜遊びしまくり、昼間もカラオケやダーツ、謎解きカフェ、昼から梯子酒するなど遊びまくった気がする。

 それだけ遊んでおきながら女の1人も出来ないのは自分が奥手だからということもあるが、『遊ぶ』ということに焦点を当てすぎてそれ以外のことを疎かにしているからに他ならない。

 そもそも『遊ぶ』ということを目標にしたのは漠然と感じた『結婚』というものを意識したからだ。

 即ち女の子に慣れるということ。

 そういう意味ではこの1年で目標を達成したと言っても過言ではない。

 今では初対面の女性にも何の抵抗もなく話をすることが出来る。

 だが、その次は問題である。

 今までもそう言う機会がなかったわけではない。

 相席居酒屋なんていうのは出会いの場に他ならないし、婚活パーティーに顔を出したこともあるのだ。

 その中で気になった相手がいなかったと言えば、それはその通りだ。

となるとそれ以外の場に出会いを求めるべきとなる。

 田原坂さんはクラブでナンパしていたが、ナンパという手段はクラブのような特殊状況下でなければ最悪通報される危険性がある。

 そしてクラブでナンパするという気にもならない。

 自分にとってクラブは酒と音楽を楽しむ場所で、それが出来れば満足なのだから。

 色々と建前を付けてみたものの、結局のところ通報されたり、セキュリティに締め出されるような真似は避けたいというのが本音だ。

 であれば今までに手を出していない分野に攻めてみるのも有りかもしれない。

 ということで選んだのが出会い系サイトや出会い系アプリというやつだ。

 サイトやアプリに登録し、自分のプロフィールを編集し、それを基に良さそうな相手を探すというやり方だ。

 しかし、思った以上に問題は多い。

 登録してすぐにメッセージが届くものの、結局は『ホ別ゴム有2万』という隠語が付いて回るということだ。

 分かり易く言うと売春だ。

 もっと露骨な言い方をすれば「ホテル代は貴方持ちでゴムを付けたセックスさせてあげるから2万ちょうだい」という意味である。

 お金を払ってセックスするだけならソープに行った方が遙かにマシだ。

 ソープで働く女性は性病検査を受けていて、そのうえセックスという行為があったところでお互いに好意が芽生えてするものであるという前提から強姦等の冤罪を受けることもない。

 話が逸れたが、言いたいことはセックスを目的とするならば出会い系を使う必要はないということだ。

 だが、出会い系に登録する人は本気で出会いを求めている人もいる。

 そういう人とマッチングできれば彼女が作れるかもしれない。

 しかしぱっと見では援助交際目的か出会い目的なのかは分からない。

 となればプロフィールを見て気になった相手にこちらからアプローチをかけるのが正解だと結論した。

 そこからはプロフィールを熟読して手当たり次第に連絡を取った。

 勿論、その中には援助交際目的の人もいたし、メッセージ交換で貰えるポイントが目当てでサイト内の会話を長引かせる人もいた。

 その中で『くまくま』と出会った。

 『くまくま』は隣の県に住む20代の女性で食事に連れて行ってくれる相手を探していた。

 メッセージ交換をしてこの子は援助交際目的ではないと思い、すぐにサイト外でメッセージをやりとりするようになった。

 1か月程メッセージ交換をしたとき、『くまくま』は謝罪とともに実は援助交際目的だったと語った。

 「ごめんなさい。本当は援助交際目的で連絡を取ってた。だけど、貴方はずっとそんな話もせずに、私とメッセージ交換をしてくれた。それが凄く嬉しかった。だからもう私のことは忘れてください。貴方の優しさに救われた」

 その誠実さに救われたのは自分の方だった。

 彼女が過去にそうして何人かと関係を持っていたとしても、どうでもよく思えた。

 彼女こそが自分の求めていた人物なのだと心の底から思えたのだ。

 「正直に話してくれてありがとう。僕は貴方とメッセージ交換をすることが楽しかった。だからこれからも関係を続けたいと思う。良かったらご飯でも食べに行かない?どこか行きたいところある?そっちの県でもいいよ。行きたいところを教えて」

 「ありがとう。ご飯行きたいところこっちの県だけど、足とかどうする?迎えに行こうか」

 「いや、いいよ。場所教えてくれたらタクシーでも使うから」

 「分かった。駅まで来てくれたら迎えに行くから、また連絡してね」

 彼女とのやりとりが本当に楽しくて、彼女に会うことが楽しみで、その日まで何があったのかなんてほとんど覚えていない。

 まだ見ぬ相手に思いを馳せていた。

 姿形は分からなくとも、誠実であることは確かだったから、何も心配はいらなかった。

 だけど、どんな見た目なのかを想像してドキドキしていたのは確かだ。

 約束の日。

 教えてもらった最寄り駅にて連絡を入れる。

 事前にどれくらいの時間に付きそうなのかってことを伝えてあったかいもなり、「もうすぐ着く」との回答だった。

 ドキドキが止まないでいた。

 『くまくま』は黒色の軽自動車に乗ってくるらしい。

 着いたら連絡をくれるという話だったけど、駅のロータリーに黒の軽自動車が来るたびに目で追いかけた。

 お父さんやお母さんという年齢の人や、もっと高齢の人が黒の軽自動車に乗ってきては誰かを乗せて去っていった。

 若い人が来たと思ってみていたら男性だったりもした。

 そんなヤキモキした時間を過ごしながら現れた黒の軽自動車がロータリーに止まった。

 乗っているのは若い女性だった。

 携帯電話を操作しているのが見える。

 ピロン、と通知が鳴る。

 「着いたよ。黒色の軽自動車」

 その通知に彼女が『くまくま』なのだと確信した。

 車に近づき手を振ると彼女もまたこちらに手を振り返した。

 車に乗り込み、挨拶をした。

 「初めまして、『ぺろぱ』こと俊二です」

 「初めまして『くまくま』こと里菜です」

 お互いに会話しながら目的の店まで向かう。

 会話の内容は他愛も無いものだったけど、彼女が語る言葉が心地よかった。

 正直に言えば、彼女は自分が想像していたよりも遙かに美人だった。

 だから会話しながら下心がちらついていることが腹立たしかった。

 彼女が美人でも不細工でも彼女の心に惹かれたから会いに来たはずなのに、美人だから下半身を暴走させるなんてことは不義理以外の何でもない。

 そう思えたからこそ、彼女との会話をただただ楽しんだ。

 彼女が行きたかった店は焼肉屋だった。

 もともとメッセージ交換をしている中で焼肉が好きということは聞いていたから驚きはない。

 驚いたのは肉図鑑みたいなものを持っていたことだ。

 なぜかそれが後部座席に置いてあり、目的の店でサインを貰っていた。

 彼女の運転だったので酒を飲ませてもらい、やはり店の中でも他愛も無い話を交わした。

 他愛も無い会話ではあったが、その中に確かに大切なことが散らばっていた。

 今の状況、将来的に何がしたいのか、何を望んでいるのか。

 色々な話をした彼女は幸せな家庭を作りたいと願っていた。

 それは自分も同じだった。

 「また会おう。今日は本当に楽しかった」

 「うん。また連絡するね」

 駅のロータリーで30分くらい話をして別れた自分たちはお互いに惹かれ合っていたのだと言ったら自惚れだろうか。

 少なくとも自分は彼女に心を奪われていた。

 帰りの電車の中で考えていたのは彼女との未来と、その反対に全て社交辞令であったのではないかという不安。

 そう思えてしまうほどに彼女は美しく、そして自分に対して誠実であった。

 長い電車に揺られ、期待と不安が交互に襲っていた自分の心は、それでも晴れやかであったのは彼女と居られた時間が幸福であったから。

 帰宅してすぐに眠りについた。

 酔っていたこともあるかもしれないが、何よりも心が穏やかだったからだ。

 ずっと探していたものを見つけたような、そんな安心感に包まれて眠った。

 彼女からの連絡があったのはそれから数日経った時だ。

 「今度はそっちに遊びに行こうと思う」

 「おー!こっちで行きたい店とかある」

 「また考えとく!そっちもどこか行きたいところあったら教えてね」

 予定の日付は来月の頭だった。

 楽しみで仕方なった。

 仕事もあっという間に終わった。

 ただその日が来ることが楽しみであった。

 再び彼女に会えることが奇跡みたいなものだと噛みしめていた。

 最初に逢った日の帰りに感じていた不安はどこにもなかった。

 そして約束の日が迫る月末に彼女からの連絡を受ける。

 「突然だけど入院することになりました。行くの楽しみだったけど、ごめん。行けなくなった。また連絡するから待ってて」

 「そっか。残念。ところで入院するならお見舞い行きたいところだけど、行っても大丈夫かな」

 体よく会うことを断ろうとしているのかもしれない、そう思ったのは事実だ。

 「ありがとう。来てくれると嬉しい。病院はここだから」

 しかしそんなことは全くなかった。

 彼女は真実だけを語ってくれた。

 決して会うのが嫌なのではなく、本当に仕方なかったのだ。

 彼女に教えられた病院へ行く日を決めた。

 行くことを伝えると本当に嬉しそうな返事をくれた。

 病棟や病室についても聞いていたから、病院でそれを確認したときにどこが悪いのかってことが何となく分かってしまった。

 難病を抱えていたとしても、それごと愛そう。

 そう思ったのは、自分のエゴなのかもしれない。

 今となってはそれが愛なのか欲なのか、きっと欲が先行したのだと思う。

 クズ以外の何でもない。

 あまりにも彼女に惹かれていたから、彼女のことを抱きたいと思ってしまったのだ。

 性欲なのか愛情なのか分からない今となっては暴走していたとしかいいようがないと思う。

 間違いなく彼女に狂っていた。

 「大丈夫。ではなさそうだね」

 点滴をしながら現れた彼女に見舞いの品を渡す。

 「まぁでも見た目ほどでもないよ」

 前よりもやつれて見えたが、確かに会話した限りでは普通そうに見えた。

 あまり長い時間の面会は出来なかった。

 彼女の体調もそうだが、何よりも治療のためだ。

 大丈夫そうに装っていたが、実際はかなり悪いのだと思う。

 「また来るわ」

 「うん。待ってる」

 どうかしている。

 会って間もない相手だ。

 数時間と数千円をかけて何度も逢いに行くとか、狂っていると言わずになんと言えばいい。

 心地良かった。

 狂っている。

 まるで甘い毒を舐めているかのような感覚だ。

 当時を振り返るとそう思う。

 いや、もしかしたらそれが愛なのかもしれない。

 しかし行為こそ愛なのかもしれないが、その裏にある欲望は決して綺麗なものではない。

 いや、それこそ冒涜なのか。

 性行為が汚いものなどあり得ない。

 そこに売買が加わるからそう見えるだけで、その行為自体は決して汚いものではないはずだ。

 であるならば、その下心を確かに抱えていながら、ひたすら彼女に溺れていた自分は正常なのか。

 そんなはずはない、それとこれは別の問題だ。

 確かにあの時の自分は里菜に狂っていたはずだ。

 ひたすら彼女に尽くして結果として性行為を行おうと画策していたはずの自分がクズであることに間違いないが、彼女に尽くしたことそのものは彼女にとって喜ばしいことだったのではないだろうか。

 自分の行為を正当化する気はない。

 間違いなく自分はクズだ。

 そのクズは相変わらず見舞いを続けて1か月程経った。

 彼女は相変わらず入院したままで、良くなる様子もない。

 その中で彼女は自分がクズあることを知らぬままに心を開き、もっと内面を、深い部分を曝しだしてくれる。

 自分は死んだ方がいいかもしれない。

 その方が世のためな気がする。

 「ごめん。入院費のころで病院に責められてパニックになった。ごめん。どうしたらいいか分からない。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。こんなおかしな女放っといていいから、ごめん。もう関わらない方がいい。ごめん今までありがとう」

 「大丈夫だ。安心しろよ。きっとどうにかなる。今日も見舞いに行くから落ち着きな」

 手渡したのは15万円程。

 「入院費の足しにしろよ」

 「もらえないよ」

 「いいから貰っとけ」

 悲しいかなこんなときでも彼女に対して下半身が反応してる。

 なあ、だけどよ、それ目的だけでそんなに尽せるのか。

 本当にお前はただのクズでやりたいだけなのか。

 いや、違う。

 やりたいのは確かだけど、それよりも彼女と一緒に居られることが、その気持ちの方がずっともっと大きい。

 でもやりたいんだろう。

 下半身繋げて気持ちよくなりたいんだろう。

 その通りだ。

 それは間違ってない。

 じゃあやはりクズなんだよ。

 見返りを求めることをクズというのか。

 開き直るなよ、クズ。

 だがまあ、愛を語るならば見返りは求めるべきではないと思うぞ。

 愛が無償のものだって話は分かるが、だとすると世の中に溢れている愛は大概紛い物になると思うぞ。

 ああ、誰だってそうだろうよ。

 誰だって「こんなにしてあげたのに」「あれしてあげたのに」「どうして私ばっかり」とか思ってただ与えるということが出来ずにいる。

 分かったよ。

 お前の言う愛は「神の愛」だ。

 ただただ無償に見返りを求めず与え続ける。

 それこそが愛だろう。

 その通りだが、俺たちは神にはなれない、ただの人だ。

 人が人を愛するのに「神の愛」を注ぐ必要があるのか。

 いや、無いね。

 だから世界には愛と呼ばれるものが溢れているし、それと同じほどの恨みや妬みが溢れている。

 ま、今ここで愛を語ったところで無意味だろう。

 当時の俺は里菜に狂っている最中なのだから。

 「ありがとう」

 万札の束をポケットに仕舞った彼女にキスされた。

 それで十分だった。

 彼女と下半身を繋げなくてもいい。

 確かに心が繋がっていると思えた。

 それでもまだこの時は付き合っていない。

 お互いにそうなる気でいただろうが、付き合うのはこの次に会うときだ。

 付き合いだしたのは十分に外が寒くなった季節のことだった。

 最初に会ったときはまだ半袖が似合うような季節だったことを思うとそれなりに時が経ったわけで、つまりはそれだけの時間2人の交流があったわけだ。

 その結果が恋人という形で現れたのだ。

 それはそれで良いことだと思う。


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燃えて灰となる

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 「田原坂さん、聞いて下さい」

 「おう」

 「ついに付き合うことになりました」

 「お、例のサイトで知り合った子とか!良かったな」

 遊びまくった1年間が無ければ出来なかったことだと思う。

 あの1年のおかげで会話にも慣れ、外での遊び方も分かってきた。

 と言っても前ほど外で遊ぶこともなくなったのは彼女が出来たからだ。

 「ま、上手くやれよ。何かあったら相談に乗るからな」

 相変わらず頼りになる先輩だ。

 とりあえずのところ今は相談するようなこともないくらいには順調である。

 そして仕事は終わり、その日は彼女と会う日であった。

 無事に退院した彼女は新しい仕事をしながら一人暮らしをしていた。

 「今日はどこに行く」

 「今日はこの店に行ってみよう」

 美味しい物を食べて会話する。

 それだけの日々が楽しくて、幸せだった。

 自分の隣に里菜が居て笑っていてくれることが、それだけで何にも代えがたい幸せなのだ。

 「2人で旅行とか行きたいな」

 「おー、いいな!どこか行きたいところあるの」

 「東京かな。美味しいお店を巡ってさ、あと話題になってるアミューズメント見るの」

 「楽しそうだな。里菜と2人の旅行」

 ちょうど仕事の休みがとれる時期だったこともあり、早い段階で予定を立てた。

 2泊3日の道程は最初の1日を出発地である地元の新幹線駅周りで楽しむことにした。

 探してみないと見つからないようなこだわりの店を里菜はよく知っていた。

 「これって珍しいよね。食べられる店あまりないんだ」

 「そうなんだ。確かに初めて食べる」

 そんなことが日常茶飯事だったから里菜との食事は楽しかった。

 大概は里菜が行きたい店を探してくるのだが、この日は一つだけ行きたいところがあった。

 以前に行ったバー・シルクロードだ。

 「バーとか初めて」

 そう言った彼女はメニューを見てワクワクと顔を輝かせていた。

 「ノンアルコールのカクテルもあるから気になったやつを頼んでみて」

 「分かった!そっちは何を頼むの」

 「グラスホッパーを」

 貴女に会えて嬉しい。

 その言葉は伝えず、ただ彼女の幸せそうな顔を見ていた。

 全くどうでもよい個人的なことだが幾つになっても新幹線に乗るのは楽しいと思う。

 地元で食を堪能して夜の新幹線に乗車したせいで外の景色なんてほとんど何も分からなかったのに楽しいと思えるから不思議だ。

 東京に着いてすぐにホテルに泊まった。

 2人とも疲れていたせいかすぐに眠ってしまった。

 翌朝起きたとき、里菜はまだ寝ていたけれど、すっかり目が覚めた自分は朝食を食べることにした。

 何の変哲もない和の朝食だった。

 食べ終わった頃に起きてきた里菜は前日コンビニで買ったお菓子とサラミを食べる。

 あのサラミはトリュフが効いていてとても美味しかった。

 2日目は話題になっているアミューズメント施設に行くところから始まった。

 電車を乗り継ぎ辿り着くと白い外壁をした、思っていたよりも広そうな施設が目の前に見えた。

 チケットを買って中に入ると貸出のハーフパンツに履き替えることとなる。

 どうやらこの施設の展示はほとんど床面が水で覆われているようで、その中を歩きながら楽しむものらしい。

 デジタルコンテンツを施設一つ使って大々的に展示するという今までに無いような経験を2人でできたことが楽しかった。

 ここで問題が発生した。

 どうにも気分が悪い。

 何かに当たったのかもしれない。

 施設を出た後は昼食を取る予定だったのだが、ひとまずコンビニに駆け込むこととなった。

 下からも上からも出るのでやはり何かに当たったのだろう。

 前日か朝の何かなのかは分からないが、どうにもひどい状態だ。

 昼食の後も状況は変わらない。

 トイレを見つけては入り、下と上から中身を出す。

 水分が減ってきたのか頭まで痛くなってきた。

 まだ行く予定の場所が残っている。

 「もう帰ろう。そんな状態じゃ危ないよ」

 「大丈夫だ。まだ行ってないところが残ってる」

 「でも」

 「大丈夫だから。俺は里菜と一緒にいたいんだ」

 もう1泊した。

 最終日は原宿に行く予定だから。

 ホテルでは横になっていた。

 本当は一緒に晩御飯を食べる予定だったが、流石にそれは無理があった。

 お金だけ渡して1人で楽しんできてもらった。

 ごめん。

 翌朝には随分と回復していたが、何かを飲んだり食べたりするという行為は避けた。

 食当たりの場合、とりあえず胃を空にして時間経過させるのが一番効くからだ。

 原宿という街は少々特殊な気がする。

 他では見かけないような店舗が数多く存在しているし、道を行く人も人目を惹く恰好をしている人も多い。

 そんな中で里菜は自身の美しさだけで人目を惹いていた。

 少なくとも俺の眼は里菜を捉えて離さない。

 カラフルな綿菓子も、色とりどりのお菓子量り売りも、限定ポテチも里菜に比べたら見劣りする。

 里菜が満足できたならばそれで十分だ。

 それと最後に立ち寄ったロブスターサンドはとても美味しかった。

 そうそこで最後だ。

 東京旅行は終わり、帰路につく。

 新幹線の席に座りながら旅の思い出を語るが、里菜のこと以外を語るなら食当たりが一番の思い出だろう。

 楽しかったが散々だったこともあるが、総評とすれば里菜といられて満足といったところだ。

 彼女と駅にて別れる際にキスをした。

 離れがたいと思うものの電車の時間は迫る。

 改札を通り過ぎる彼女に手を振り、その背が見えなくなるまで見つめていた。

 体調を崩したこともあるが、彼女と2人きりの旅行でも結局セックスしなかった。

 それを求めていたはずなのにしなかったのは、まだ早いと思ったからなのか、それとも単純に体調の問題なのだろうか。

 旅行が終わり、それぞれの生活に戻ったものの、相変わらず仕事が休みの日は毎日のように逢っていた。

 逢ってご飯を食べて会話をして帰る。

 その繰り返しでしかなかった。

 キスしたり手をつなぐことは珍しくなくなったがセックスしなかった。

 したいはずなのに、それ以上に無理に求めて彼女に拒絶されることが怖かったのかもしれない。

 それほどまでに彼女といる時間が特別になっていた。

 「ねぇ、このお店行ってみたい」

 ある日、そう言われて教えられた店舗は自分が住む地域にある隠れ家的な店で素材にこだわったコース料理を提供する店だった。

 当然ながら自分は行ったことはなかったし、そもそもその店を教えられるまで知らなかった。

 断る理由などなくて、彼女はこちらの予定を聞いてすぐに予約を入れてくれた。

 東京に行った月の月末近くであり、恋人たちの日が近かったことを覚えている。

 その店は住所番地こそ都会のそれであったが、夜になるとオフィスビルは閉まり、商店や飲食店がまばらにあるような地域だった。

 タクシーの後部座席に2人で並んで座る。

 事前に調べて店がどんな様子なのかを楽しみに語った。

 店舗はその調べた内容のとおり、ビルの2階にひっそりとあり一見すると気付かないような場所であり、その目立たない看板の掲げられた階段を上ると店舗のドアが見えてくる。

 店舗のドアにはこれまた可愛らしい店舗名が刻まれた木の札がかかっていた。

 そのドアの前に立つ彼女は嬉しそうに写真を撮っている。

 自分はその姿を撮影していた。

 この顔を見られただけでも来たかいがある。

 予約の時間となり店内に入ると、やはりここも非日常感のある閉塞感と薄暗さを感じた。

 コースは珍しい食材を使った前菜から始まり、そのまま最後まで他では味わえないような食材を使った料理が続く。

 彼女は写真を撮り、料理について質問し、そして美味しそうに食べていく。

 酒を飲めない彼女はソフトドリンクを別に頼んでいたが、そのドリンクもこだわっているようだった。

 長いコース料理は終わりまで数時間を要したが、食事をしている間はそんな時間が経っているなど思いもしないほど楽しめる内容だった。

 彼女もそれは同様だったようで「わ!もうこんな時間」と驚いていた。

 夜遅くで酒も入っていた自分は意を決して言う。

 「泊っていこう。里菜を抱きたい」

 率直過ぎる言葉だったが、彼女は少し照れくさそうに笑って「いいよ」と答えた。

 近くの大きなラブホテルに泊り、彼女を抱いた。

 背の低い自分よりも彼女は少し背が高いくらいだったが、その身体はあまりにも華奢だった。

 折れそうなほど細い身体は心配になるほどに。

 ずっとそうしたいと願っていた行為は思っていた以上に感動したことを覚えている。

 童貞というわけでもないし、彼女も処女というわけでもない。

 ただそれでも、彼女との行為は特別なものだった。

 一緒に湯船に浸かり、その細い腰を抱きしめながら夕食の話をする。

 あれが美味しかった。

 これは他では見たこと無い。

 それにしても長い時間だったけど、全然気にならなかったね。

 2人とも同じような感想を抱き、それがまた2人の距離を縮めたように思えた。

 ずっと抱きたいと思っていた女を抱いて、気持ち良かったか。

 ああ、思っていた以上に。

 セックスっていうのは気持ちが良い物だからな。

 だが彼女とのそれは特別に良かった。

 具合が良かっただけじゃないのか。

 具合が良かったのは認めるが、それ以上に心が満たされた気がしたんだ。

 心が満たされたって言うが、好きな女を抱いたことによる満足感じゃないのか、それは。

 愛じゃないって言いたのだろう。

 性欲を満たすというのに、どうせならブスよりも美人が良いだろう。

 彼女は確かに美人だということは認めるさ、それでも心惹かれなればけここまで彼女に尽くしはしないはずだ。

 美人だから心惹かれているのではないか。

 確かに、最初に見た時にこんな美しい人がいるのかって感動した。

 だが、心惹かれる理由がそれだけとは限らない。

 美人だから心惹かれているということを認めるが、それ以外にもあるということか。

 ああ。

 ならば、それは一体何だと答える。

 彼女と一緒に居たいと思う自らの内より来る思いは紛れもない真実だから。

 そうか。

 俺はその気持ちが何によるものなのかを問うたつもりだが、まだ俺の満足のいく答えは出ないということなのだろう。

 いいから消えろ、俺は彼女と一緒に居たい。

 翌朝になり、その時にまた彼女を抱いた。

 行為そのものが終わった後も抱き合ってキスをしていた。

 何も考えなかったし、ただこの時間が続けばいいとだけ思っていた。

 ギリギリの時間にチェックアウトして近くのカフェで朝食をとる。

 用事があるからこのまま帰らないといけないという彼女と地下鉄に乗り、2人が分かれる駅へと向かう。

 「あ、出て来てる」

 服の裾を恥ずかしそうに掴み、上目遣いでそう呟いた彼女の頭を撫でる。

 何がなんていうのは聞くまでもなかった。

 「ありがとう」

 そう答えた自分は彼女が受け入れてくれたことが嬉しかったから。

 「ばいばい。またね」

 駅の改札を通り過ぎる彼女を見送った。

 彼女をずっと抱きたかった。

 その本懐を遂げたわけだが、彼女への興味は尽きない。

 もっとずっと一緒に居たいと思う。

 自らの内にちらつくのは彼女をこれからも好きに抱きたいだけなのだろう、という冷めた感覚。

 彼女と居たことの温もりを感じながら来た道を戻るが、常に悪意のような感覚が付いて回っていた。

 彼女と一緒にいることが彼女を傷付けることになるのではないか、そう思う気持ちを持ちながらも彼女と一緒に居たいと思ってしまう。

 しかしその気持ちが悪意によるものならば、彼女のために彼女とは別れるべきだ。

自らの心すら分からない。

 温もりと冷酷を同居させて寒空を歩く。

 道を行くカップルに幸せを願いながら。

 思うことも考えることも多々あるが、それら全ては里菜と出会ったことによるものだ。

 であるならば、この苦みもまた愛なのかもしれない。

 だが愛を語れば悪魔は冷たい笑みを浮かべてそれを否定するだろう。

 ただの情欲だ、と。

 愛とはなんだろう。

 彼女を思う気持ちは本当だが、それは果たして綺麗なものなのだろうか。

 悪意に満ちた言葉に貫かれたとき、その時に心の底から違うと言い切れるのだろうか。

 彼女を抱きたいという気持ちがあるのは確かで、それ故に分からない。

 幸せな感覚に包まれている。

 それもまた確かだ。

 今はそれに溺れて眠ろう。

 2人の思い出作りは続く。

 「今度は大阪か。確かにこっちには無さそうな店だな」

 「へー。高山にはこんなところがあるのか」

 遠征しながらその地方の食事を楽しみ、その地の文化を楽しんだ。

 遠出しない時はお互いの地元で新しい店を見つけたり、お互いが好きな店を教え合ったりした。

 そしてお互いに新しい発見があり、ケンカなんて一つもなかった。

 「明日、私の好きなキャラクターの10周年記念特別販売があるんだ」

 「そっか、それじゃ明日はそこに行こう」

 待ち合わせ、約束の時間よりもだいぶ余裕を持って待つ。

 今日を楽しみにしていた彼女はどんな顔をするのだろう。

 10時を過ぎる。

 約束の時間だ。

 彼女は来ない。

 心配になり連絡を送るも返事は無い。

 何か返事が出来ない事情があるのかもしれないからもう少し待とう。

 時計の針は進む。

 長い針は一周周り、短い針は指し示す数字を一つずらす。

 連絡を送るが、返事は無い。

 何かあったのかもしれない。

 それとも俺が何かをしたのかもしれない。

 彼女を怒らせたのかもしれない。

 彼女を傷付けたのかもしれない。

 もしかしたら待ち合わせ場所を間違えている。

 そう思った時、彼女から昨日届いたメッセージを見直した。

 いつものキャラクターショップではなく、隣の商業ビルに特別に設営された会場があり、待ち合わせ場所はそこになっていた。

 間抜けにも待ち合わせ場所を間違えたのは自分だった。

 急いで隣のビルへと向かう。

 特設会場は多くの人で賑わっていたが、彼女の姿はない。

 フロアをあちこちに探し回り、それでも彼女はいなかった。

 待ち合わせに来なかった自分に怒って帰ってしまったのかもしれない。

 今まで心を通わせてきたと思っていたが、こんな些細なミスで全てを失うのか、そう思うと自分の馬鹿さ加減に腹が立った。

 見落としているのではいかと思い何度もフロアを行き来する。

 もしかして行き違いで普段のキャラクターショップにいるのではないかと思い再び戻る。

 そこにも彼女の姿はない。

 時刻は既に昼を回っていた。

 ビルを出て駅の中を探した。

 いくつもの路線が乗り入れる大型の駅はとても広く、このどこかにいるのだとしても余りに途方もない。

 それでも、探すしかなかった。

 彼女に謝らなければいけない。

 自分の馬鹿さ加減を。

 もっとよく確認すれば良かったのだ。

 彼女は本当に楽しみにしていて何度もメッセージを送ってきていたのに。

 何時間も探したが結局どこにも彼女はいなかった。

 携帯電話でメッセージを確認するが、やはり既読すらつかない。

 あまりにも突然過ぎる。

 胸が苦しくなり、うまく呼吸が出来ない。

 反射的に電話をかけた。

 「おう!どうした」

 「田原坂さん、突然ですみません。一緒に飲めますか」

 「あー、いいけど。今手持ちないからそっち持ちでもいいか」

 「大丈夫です。突然誘ってすみません」

 彼女と行く予定だった店へ先輩と入る。

 「突然だったけど、どうした?何かあったのか」

 「今日、本当は彼女とこの店に来るはずだったんです。昼に一緒に買い物する約束して、その後にどこかで休憩して夕食を食べるはずだったんです」

 いつもの軽快な調子ではなく、田原坂さんは黙って話を聞いていた。

 「でも彼女は来ませんでした。いや、来ていたのかもしれません。僕が馬鹿なばかりに待ち合わせ場所を間違えてしまって、それからずっと連絡が取れなくなりました」

 「そうか。探してみたんだろう。それに何度も連絡だって入れただろう」

 「はい」

 「今はそれしか出来ない。下手に騒ぎ立てるのは止めろ。本当に怒って連絡を取れないのだとしたら、今は待つ時だ。とりあえずビールでも飲んどけ」

 田原坂さんが注文したビールを飲む。

 「それにしても馬鹿だな。もっとよく確認しろよ。ま、分かってると思うけど、その様子じゃ本当に申し訳なく思っているし、彼女のこと好きなんだろう」

 「はい」

 「なら、やはり今は待つ時だ。怒ってるときってのは何をやってもダメな場合が多いけど、ちょっと時間が経って冷静になってくると相手の話も聞けるようになってくるからな。ちょっと待って、その時にできることをやって無理なら、もう諦めろ。それはお互いのためだ」

 「そうですね。すぐには無理かもしれませんが、ちょっと待ってできることをやってみようと思います」

 ざわついた心が少し落ち着いていた。

 乾杯。

 頼れる先輩に。

 ビールの苦味がいつもより優しかった。

 相談を終え、店外に出るとすっかり夜になっていた。

 「これからどうする」

 「今日はもう帰ります。彼女を傷付けたこと考えてみます。どうやって謝ろうかと」

 「分かった。上手く行くこと祈ってる」

 先輩を見送り、自分も帰宅した。

 自分にそのつもりがなかったとはいえ、彼女からしてみたら本当に楽しみにしていたことを直前ですっぽかされたのだ。

 それは当然怒れてしまうし、俺もそうなったらひどく悲しいと思う。

 だから彼女が感じたであろう怒りと悲しみは相当なもののはずだ。

 それを許してもらおうと思うとなると、ちょっとやそっとでは足りない。

 何ができるのだろう。

 何をすべきなのだろう。

 分からない自分にできることは待つこと。

 せめてその待ちの間にできることを考えよう。

 そう思っていた時インターホンが鳴った。

 「開けて」

 彼女だった。

 どうして、そんなこと思う前に扉を開けていた。

 「どうして来てくれなかったの」

 泣きながら彼女は部屋に入って蹲る。

 その身体を抱きしめながら、謝る。

 「ごめん。間抜けな話だけど、待ち合わせ場所を間違えていた。いつものキャラクターショップの方で待っていて、気付いたときには1時間くらい経っていて、それから急いで待ち合わせ場所に行ったけど里菜はいなかった。その後もずっと里菜のこと探していたけど、逢えなかった。連絡も何度もしたけど、何も返事がなくて、本当に里菜のこと怒らせたんだって」

 「やっぱり間違えてたんだ。私は待ち合わせ場所に行ったときに居なくて、遅れているのかなって思って待つことにしたんだけど、その後も全然来なくて、もしかしたらドタキャンされたんじゃないかって思って連絡しようとしたんだけど、昨日携帯が水没して壊れていて出来なかった。もしかしたらいつものショップと間違えてると思って行ったんだけどそっちにもいなくて、家に来たけどそこでも会えなくて、きっと外にいると思ったんだけど連絡する方法何もなくて」

 「ごめん。本当にごめん」

 「いいよ」

 それから2人でご飯を食べた。

 お互いに出会えたことに喜び、ご飯を食べ終わる頃には元気になっていた。

 こんなに素直に謝ることができたはずなのにね。

 自分は里菜が好きで、里菜もまた自分のことを好きでいてくれる。

 何の疑いもなかった。

 「ばいばい、またね」

 改札に見送った彼女は笑っていた。

 突然の障害だったけれど、何とか乗り越えられた。

 これからも2人の間にいくつも障害があると思うけれど、どれも乗り越えていけると信じている。

 ケンカと言っていいのかどうかも分からないようなすれ違いはこれくらいで、この 時が夏の時期であったはずだ。

 最初に里菜と逢ったときはまだ薄着でも大丈夫な季節だったことを思うと出会ってから1年くらいが経過しているわけで、付き合いだしてから半年以上といったところか。

 自分の仕事はそれなりに順調で、里菜も1人暮らしが軌道に乗っているといえば乗っていた。

 これから先のことを考えると、自分は里菜とどうしたいのかということを考えることになる。

 ただやりたいだけの時期は過ぎ、一緒に居たいという思いが強くなっていた。

 それはつまり結婚を意識しているということだった。

 退院したとはいえ里菜が重い病気に苦しんでいることは知っていたから、それを支えて行けるかどうかという不安はあった。

 ただどうにかなるだろうという楽観的な気持ちもあった。

 お互いが好きならば、それでどうにかできるのではないか、と。

 実際のところそれだけではどうにもならないのだが、それでもどうにかなると思えるほどに里菜と一緒に居たいと思っていたのだ。

 「一緒に住まないか」

 言い出したのは自分だった。

 ちょうどその頃、里菜が仕事で悩んでいることを聞いていたからだ。

 ならば里菜は仕事を辞めて2人暮らしを始めよう。

 節約すれば1人の稼ぎでどうにかなると思った。

 里菜もそれを了承して2人で物件を探した。

 家賃や広さなどを考え、駅からの近さも十分な物件が見つかったところで契約と 引っ越しの日取りをお互いに決めた。

 今まで1人で暮らしていた者どうしが一緒に暮らすということでケンカもすると思うけど、それでもお互いを許し合えると信じている。

 荷造りを手伝い、いよいよ始まるんだな、とお互いに笑い合った。

 2人の幸せを願ってキスをする。

 引っ越してすぐに思ったのは朝家を出ていくときに彼女が居てくれて、帰ってきても居てくれるということがどれだけ幸せなのかということ。

 もうす冬を迎えようという頃に引っ越しをした。

 慣れない地で里菜にかける負担も大きいと思うが、それでも彼女を支えて行こうと思う。

 同棲を始めて2週間くらいしてケンカした。

 些細な生活感の違いからだ。

 ゴミを分別してほしい。

 そうお願いしたら怒って「細かいよ」と拗ねた。

 その態度にこちらも怒れてしまったからだ。

 ゴミ出しをするときに分別し直すのは手間で、分別してくれるようにお願いしたのにどうして怒られないといけないのか、と思ったのだ。

 結局のところ、お互いに謝った。

 これから分別気を付ける。

 俺も言い方が悪かったかもしれん。

 その後少しだけ分別は良くなったが、相変わらずゴミの捨て方は雑だった。

 これは言っても無意味なのかもしれないと諦めた。

 それから少し経ったころ、里菜の携帯に電話がかかる。

 しばらく里菜が電話していたが、途中で自分に代わった。

 ざっくり言うと買い物した店舗への支払いが滞っているからどうにかしてくれ、と いう電話だった。

 どうにかしてくれって言われてもどうにかするしかないので支払いを行った。

 里菜は「ごめん」と謝っていたが、どうしてこんなことになったのか深くは話してくれなかった。

 だから自分もそれ以上は聞かないことにした。

 相変わらずの生活が続いていたのだが、引っ越しや増えた家賃と2人分の食費に車の購入代金など出費が多くなった。

 そうしてくると段々と預金はなくなっていき、息苦しさを覚える。

 同棲を始めて半年くらい経ったときにお願いした。

 「ごめん。2人で生活するには俺だけの稼ぎだと正直キツイ。少しだけでもいいからアルバイトとかしてくれないか」

 「分かった。探してみる」

 とりあえず納得してもらえたようなので仕事帰りに駅でタウンワークを貰って帰るようにした。

 預金が少なくなったことから以前の様に外出や外食する機会は減った。

 だが逆に里菜は1人で出ていく機会が増えた。

 そしてある日、里菜が眠っているときに彼女のスマホがメッセージを受信し、見えたスマホの画面に凍り付いた。

 「昨日は楽しかった。また会いたい」

 「俺もだよ。また行こうね」

 悪いとは思いつつもスマホを開いてメッセージアプリを確認する。

 外出が増えたことの意味が分かると同時に、ひどく悲しくなった。

 里菜を起こして追求するべきなのかと迷う。

 結論から言えば、安心したように眠る里菜を起こすことができなかった。

 だが自分は眠れない夜を過ごすことになった。

 それから先も里菜の外出は続いた。

 自分に隠れるようにして電話してくることも増えた。

 「最近外出多いけど、どうしたの」

 「こっちの方に住んでる友達と遊びに行く機会が増えたから」

 友達か。

 年の離れた男性が友達で、しかも頻繁に会って一緒に買い物したり裸の写真送ったりするわけだ。

 「そっか、最近家にいないこと多いから遊びに行くなら事故とか気を付けてね」

 「うん」

 友達というなら、それでも友達だと受け入れよう。

 だが里菜は俺が自分の母親くらいの年の女と買い物をして裸の写真を送り合ったとしても俺が「友達だから」といえば納得してくれるのだろうか。

 「どうしたの。何か怒ってるみたい」

 「何でもないよ。大丈夫」

 そう、大丈夫。

 里菜はただ友達と会っているだけなのだから。

 そう言い聞かせてみたものの、里菜への疑念は残る。

 2人で幸せになろうと言ったのに、もしかしたら俺は遊ばれているだけで、都合の良い寝床と車と提供しただけの間抜けなのではないか。

 車に乗り込んだ。

 走行履歴を見る。

 点で表示される履歴は車がどこを通ったのか分かりやすく教えてくれる。

 その点が職場の側に付いているのを見て、絶望した。

 職場の側だからその点がある場所にラブホテルがあることを知っていたからだ。

 ホテルに行っていることを示すメッセージは携帯の中にはなかった。

 もしかしたらラブホテルの側を偶々通ったときにGPSが狂って点の位置ずれただけかもしれない。

 だから大丈夫。

 何も問題ない。

 そう思いながら小型ICレコーダーを車に置いた。

 里菜は週末に外出することが多かったので、その頃合いを見計らって設置し、同様に回収した。

 「こんにちは。今日はどこ行く」

 「まずはラブでええんちゃう」

 そんな会話があり、カーナビ音声が告げる交差点名が職場側のラブホテル直近のそれであることを教える。

 車が止まり、里菜と誰かが降りていく。

 数時間が経ち、また2人が車に乗り込んだ。

 「それじゃ、今日はあそこにご飯食べに行こう」

 「そうやな。何かほしいものあったら買ったるけど、何かあるか」

 たっぷり1日デートを満喫してきたようだった。

 会話の様子から始めてというわけでもなさそうだ。

 車が止まっている数時間で2人は何をしてきたのやら。

 俺は里菜に何を言えばいいのだろう。

 それらを知った今、里菜とどうやって向き合えばいいのだろう。

 「ねぇ、どうしたの。最近何かおかしいよ」

 里菜の目からもそう見えるのだから如何に自分の様子が普段と違うのか明白だったのだろう。

 「里菜、昨日は誰とどこで何してきた」

 「え、いや友達と遊んで」

 「男とラブホテルに行くことが遊びなのか」

 目を見開く里菜。

 「携帯、見たの」

 絞り出すような声。

 「見えた。通知が、な。それが男とのやりとりで、随分と親しそうだった」

 「でも、それだけだよ。本当に友達で、ラブホなんて」

 「悪い。最近の様子がおかしいのは里菜もそうで、そんなメッセージ見たせいでどうしても確認したくなって車にICレコーダー置いた。ラブホテルで何時間も男といることが遊びだっていうなら、遊びなのかもしれないな」

 「は、そんなことしたの。最低」

 「最低はどっちだよ。俺は里菜を信じてたけど、俺が馬鹿だったわけだ」

 「いや、勝手に車に盗聴器つけるとかマジでありえん。信じられん」

 「俺の車に俺の機械を置いただけで最低とか言われても、ね。里菜のしたことに比べれば大したことじゃないんじゃないの。俺よりも一緒に居たい相手がいるんだったら出て行けよ」

 「いや、何で。ちょっと、いや確かに行ったけど、してないから。確かに友達じゃないけど、いろいろと物を買ってくれるから会ってただけで、本当にやってないから」

 「でもそれは証明しようがない。確かなのは里菜が外で男と会っていて、しかも一緒にラブホテル行ったってことだけ」

 「ごめん」

 「しかも最初は友達と遊びに行ってるだけと嘘ついて取り繕うようにした」

 「だって、そんなこと言っても、仕方ないじゃん」

 「何がだよ。何が仕方なくて男とラブホ行くんだよ」

 「だからごめんって。だってこんなこと正直に言っても怒るに決まってるし、それでもさっき言ったようにいろいろなもの買ってくれるから会ってただけで、その人のこと好きでも何でもない。だからやってないけど、それは信じてとしか言えない、ごめん」

 追求すれば取り繕う彼女に怒りが湧いたが、2度としないと誓う彼女を許すことにした。

 許すとか、何様だろうね。


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鬼が来たりて

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 里菜との関係は続いていた。

 北海道の旅行が当たったので一緒に行くことにした。

 函館空港から付近を巡る。

 主に食を楽しむグルメツアーだ。

 ツアーといっても2人で企画したのだけれど。

 夜景が綺麗と言われる街であったが生憎の雨であった。

 雨に濡れた街と乱反射する街灯が、それはそれで美しいと思えた。

 寿司やハンバーガー、チーズに新鮮な魚介料理。

 3泊4日の大旅行だった。

 最終日に市場でやったイカ釣りに里菜は興奮しながら満面の笑顔を見せた。

 釣ったイカはその場で捌いてもらい、新鮮そのものであるそれを里菜はペロリと平らげる。

 お土産を買い、飛行機に乗り込む。

 行きの飛行機で里菜は体調を崩して大変だったので、帰りの飛行機も心配していたのだが案の定そうなった。

 その時に知ったが病気の関係で本当は飛行機に乗ることは止められているらしい。

 体調を崩した里菜を気遣いながら帰りの道を行く。

 流石に自宅の最寄り駅に着いたらタクシーで帰宅することにした。

 それくらいに里菜はダウンしていた。

 「心配かけてごめん」

 「大丈夫だ。ゆっくり休んどきな」

 北海道に行くのは初めてだったが、とても楽しかった。

 初めてを里菜と経験することが多いのは、きっと彼女にやりたいことが多いからだろう。

 楽しい旅行も終わったが、やってくる現実は厳しいものだ。

 里菜を実家に連れて行ったが、評判は悪かった。

 その原因は働いていないということと病気のことだ。

 病気はすぐにどうにかなるものではないし、その点は受け入れている。

 だが確かにアルバイトをしてほしいとは自分も思っていた。

 結局のところアルバイトをお願いしてから未だに働いていないのだ。

 毎月の出費を計算してかなりケチって生活しているので何とか収支はプラスに落ち着いているものの以前のように外食や外出を頻繁に行えばすぐにマイナスに傾くだろう。

 金は溜めなければならない。

 籍を入れるだけならタダみたいなものだが、彼女は式を挙げることを望んでいる。

 50人くらいの式でも300万円くらいはかかると思うと先は遠い。

 里菜を実家に連れて行ってからというもの、彼女は少し元気がない。

 どうやら親からあまり感触が良くなかったことを気にしているようだった。

 最悪そこはどうにかなるのだが、自分としてもできることなら親に里菜のことを家族として受け入れてほしい。

 その為にはアルバイトを始めてほしいと思う。

 そうすれば家計も少しは楽になり今よりも窮屈は感じなくなるはず。

 だがその窮屈が里菜には耐え難いものだったのかもしれない。

 再び里菜は外で遊ぶ機会が増えてきた。

 前回のことが頭を過る。

 生まれた疑念を2度としないという里菜の言葉で押さえつける。

 押さえつけていた「信じる」という言葉を跳ね除けたのは噓をついて取り繕おうと したことが頭の中に残っていたから。

 証拠は何もない。

 あたかも証拠を握っているかのようにカマをかけただけだ。

 探偵を雇って証拠があると伝えた。

 それだけであっさりと白状した。

 また男と会っていた。

 証拠が全くなかったわけでもない。

 何処の誰とも知らない男から里菜宛てに荷物が届くのだから。

 またケンカになり、結局別れなかった。

 そもそも別れる気が自分にはなかったから、里菜の気持ちが他の誰かを向いているなら、それを自覚させたかった。

 俺と居るよりも一緒にいて幸せになれる人が他にいるなら、里菜はその人と一緒になるべきなのだ。

 どれだけ自分が里菜と一緒に幸せになりたいと願っていても、それは仕方ないことだ。

 どれだけケンカしても結局は里菜と一緒にいることを自分が望んでいることが分かっていた。

 だから、里菜に他の男の影が見えると絶望を覚える。

 首を吊るバスタオルを設置したら家族からメッセージが来て止めた。

 死ぬことはなかったが、それでも絶望していた。

 里菜と一緒に幸せになると誓ったはずなのに、里菜にその気がもう無いのかもしれない。

 繰り返す浮気に段々と心が擦り切れていく。

 それでも里菜のことを好きで、一緒に居たいと願ってしまう。

 何度も繰り返し、段々と感情が薄れていく。

 怒ることに疲れたのではなく、怒っても意味がないと思ってしまうのだ。

 怒ったときは何も感じないように、考えないように、時が過ぎるのを待つことにした。

 そうして落ち着いたときには元通り笑えているのだから。

 だから里菜が事故を起こしたときも怒らなかった。

 注意して運転しないからだぞ、と。

 怪我はないか、と。

 心配はしたな。

 幸い里菜も相手にも怪我はなく、車が壊れただけで済んだ。

 ただ修理代はよけいな出費だった。

 「大丈夫。アルバイトして少しずつ返してくれればいいよ」

 肩代わりすることはどうでもよくて、これを機にアルバイトを始めてくれれば大助かりくらいには思っていた。

 「ごめん、働き出したら少しずつ返すから」

 結局その後里菜がアルバイトを始めることはなかった。

 ならば別の手を考えることにした。

 無理やり何もかも納得せざるを得ない状況にしよう、と。

 自分がそれを望んでいたこともある。

 子どもが出来れば、お互いにそれを最優先に考えて行動できるはず。

 そう考えた。

 セックスの回数を増やそうとしたが、里菜は相変わらず働くこともなければ外遊びを辞めることもなかった。

 それでも機会を見つけてはセックスした。

 子どもが出来れば誰が何と言おうと結婚することに文句は言い難い。

 子どもが出来れば外遊びする機会も減るはず。

 子どもが出来れば身体を労わって里菜が働かないことも納得する。

 心のさざめきも、周りの雑音も、何もかも忘れて里菜と一緒になりたいと願った。

 自分の隣に里菜が居てほしい。

 これから先もずっと。

 だが何度目か分からないようなケンカのときに出ていけと言ってしまった。

 それから何日も普通に過ごしていたが、ある日帰宅したら彼女はいなくなっていた。

 残されていたのは手紙。

 『今までありがとう。

私達はもう一緒にいても意味がないと思う。

先が見えないんだ。

外食も外出も減って、お互いに口数も減っていたね。

感謝していることいっぱいあるよ。

出会えたことも、同棲したことも後悔していない。

だけど、2人の道は違ってしまったと思う。

嫌なところも見えたし、受け入れられないようなこともあった。

耐えられなくなっちゃった。

これから先にいい人できると思うけど、悪いところは直した方が良いよ。

本当に今までありがとう。

顔も合わせずサヨナラになるけど、バイバイ、元気でね。

里菜』

 何もなくなった部屋。

 いつもなら邪魔なほど大きいぬいぐるみがソファーに座っていたはずなのに、ぽっ かりと空いたそこには何もなくなっていた。

 「あ、ああ・・・あ・・・」

 言葉にならない声が漏れた。

 自分の声とは思えないような、絞り出すような声だった。

 平衡感覚を失い、ぽっかりと空いたソファーのスペースに座り込む。

 「電話・・・そうだ電話」

 何度目かのコール音があり、彼女は出た。

 「手紙読んだ」

 自分の第一声はそれだった。

 「何も言わずに出てってごめん。完全に嫌いになったわけじゃないけど、もう無理かなって思ったんだ」

 「そっか。ごめんな」

 視界は歪み、声は震えた。

 「ごめん。何て言ったらいいのか分からないけど、いっぱい傷つけてごめん。今も勝手に泣いてごめん。あまり気にしないで。ただその突然過ぎて、俺も何を言ったらいいのか」

 「うん。そう、だね。また落ち着いたら話そう。今は、もう」

 「ああ、ごめん」

 それだけの会話。

 引き留めるべきだったのかもしれない。

 いや、引き留めることもできずにいた。

 もう居なくなっていたのだ。

 部屋の中、所々に残る痕跡が里菜のいた証として残っている。

 彼女は幻でもなく、確かにここにいたはずなのだ。

 つい昨日までは。

 今この部屋にいるのは自分ただ1人だけ。

 もう1人しかいない、2人で暮らし始めた部屋。

 どうして。

 馬鹿なやつだ。

 「どうして」

 お前はもっと里菜の声を聞くべきだったのさ。

 「聞いていただろ」

 いや、聞いていなかったはずだ。

 「そんなこと、ない」

 ならば里菜がどうして男と居たのか考えたのか、お前と付き合っていながら男と居た理由を聞いたのか。

 「聞かなかったさ、色々買ってくれるからって言っていた」

 どうして色々買ってもらう必要があったんだ。

 「それは、ほしいものがあったから」

 それをどうしてお前に言わなかった。

 「俺が金を貯めていたから」

 その通りだ。

 「あぁ、本当の馬鹿は自分だったな」

 お前は馬鹿の極みだよ、本当に大切なことを見失って目先の物事に囚われて勝手に傷ついて自分だけが被害者のような気になっていた。

 「里菜は言っていた。好きな人じゃないけど、いろいろ買ってくれるから、と。好きじゃない相手に媚びてでも俺に迷惑をかけないように出来る方法で家計を助けてくれていた」

 今になって気付いたのか、馬鹿め。

 「それに気付かずにひどい言葉で里菜を傷付けて、里菜が分かり合おうとしてくれたときもただの言い訳だと軽く受け流していた」

 それで愛を語るとか笑わせる。

 「全くだ。愛してくれていたのは里菜の方だったよ。そのことにも気付けなかった」

 おめでとう、君は本当の愛に気付けたようだ、と祝辞を述べたいところだが、これからどうするつもりだ。

 「分からない。けれど、里菜に伝えないといけないことは山ほどある」

 その相手は去った後だがな。

 「後悔とか、覚悟が足りないからするんだと思っていたよ。だけど、無自覚も十分な後悔の理由になるんだな。涙が止まらないよ。今更どうしろって言うんだよ」

 どうするのか決めるのはお前だよ。

 お前は何を望んでいる。

 出来ることは限られるかもしれないが、お前にはお前の出来ることをするしかないだろう。

 そうじゃないと後悔を残すぞ。

 既に後悔したお前がこの先でさらに後悔することを避けたいなら、出来ることは何でもやるんだな。

 「ああ」

 何度も何度も積み上げては壊した。

 いつしか救いがあると信じてきた自分はただの独りよがりだった。

 2人で一緒に幸せになろうと誓い、その幸せを1人でどうにかしようと足掻いていたんだから、それは破綻するに決まっている。

 里菜が働かなったことを言っているんじゃない。

 何でも1人で決めて、相手の言葉を聞かなかったことだ。

 ただ働いてと頼んだ自分は、結局働いて何をしたかったのかを伝えなかった。

 働いて得られるのは金で、その金で何がしたかったのか。

 何もかも伝えていれば本当に2人で同じ未来を見て頑張ることができたかもしれない。

 馬鹿な自分は自分がどうにかしなければいけないと勝手に背負い込み、結果として里菜をないがしろにしていた。

 里菜に見限られても仕方ない。

 それでも、独りよがりだったとしても、自分は里菜と一緒の幸せを夢見て日々を過ごした。

 それは確かな事実だ。

 今更簡単に受け入れてもらえるとは思わない。

 それでも何度も謝ろう。

 そして何度も伝えよう。

 今でも里菜を愛している。

 「それが全てだ」


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墓標

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 まともじゃないのは分かっている。

 だが出来ることをやると決めた自分は思い出を旅して今の自分が何を望んでいるのかをハッキリとさせる必要があった。

 一つの選択肢としてこのままあっさりと受け入れて別の道を行くということもできるのだから。

 だが選べる道は他にもあり、自分が何を望んでいるのかを自覚して選択肢を選ばなければならない。

 その結果として残されたこの里菜との歴史はまるで墓標のようだ。

 ここまでに刻まれているのは過去に起きた出来事なのだから。

 2人が確かにいたことを記し、区切りをつけるためのものでもある。

 当然まともじゃないのは、食事もせずに酒を飲みながら十数時間も張り付いて執筆している自分のことを客観的に見えているからだ。

 客観的に見えるからこそ、冷静に物事を見られている。

 今無理やり里菜の実家を訪れたり、何度も電話やメッセージを入れることが里菜を傷付けるだけだということ。

 里菜の幸せを願うなら、彼女を傷付けることは避けるべきだ。

 里菜は悩んだ末に強い気持ちで出て行ったのだから、最悪復縁出来ないことも考えなければならない。

 復縁したいと願うが、今の状況は自分が蒔いた種なのだから拒否されることは仕方ないと受け入れる必要がある。

 それでも確かなことは里菜との復縁を望んでいるということ。

 里菜が出て行ってから言われたことがある。

 「私への愛はもう無いと思う」

 まともじゃないが、それでも胸を張って言おう。

 「今でも貴女を愛してる」


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