第28話 重く粘つく暗闇の中で


 痛みと熱さに、意識が朦朧とする。


「まったく、しぶとい女だ。無駄にねばるから、余計に苦しむ羽目になるんですよ」


 ヴィルガイムが左右の爪を擦り合わせながら悠然と歩み寄ってくる。

 右だけではない。左の指先からも、ヴィルガイムは爪を伸ばしていた。


 両の爪から繰り出される三重殺爪ならぬ六重殺爪に、ラシャは追い込まれていた。


 片方だけであれば、深く踏み込み、爪が振り抜かれる前に大太刀で受けてしまうことで烈風と炎の発生を防げていたのだが、左右両方となると手に負えない。

 左の爪を受ければ右の爪を振り抜かれ、右の爪を止めても左の爪は止められない。

 こうなると大きく距離を取って避けるしかないが、それでは足止めができなくなってしまう。


 離れすぎないように避ける。三重殺爪に対して、それは自殺行為にも等しい対処法だった。

 爪を避けても烈風に身を切り裂かれ、炎に焼かれる。

 脚に、腹に、腕に、肩に、顔にまで。背中以外の全身に、ラシャは浅くない傷を負っていた。


 周辺は文字どおりの焼け野原と化し、空気は灼熱している。

 ラシャは改めて鬼人の血に感謝した。鬼人の肉体は屈強なだけでなく熱にも強い。おかげで、灼熱の空気の中でも呼吸ができている。だが、熱に強いといっても、あくまでも人間よりは強いといった程度でしかない。


 無数の裂傷と熱傷に加え、氣炎の法を使い続けていることによる消耗。ラシャの命は、もはや風前の灯火だったが、それでもラシャは口許には笑みが浮かんでいた。


 ルーベの村でも魔人相手に追い詰められたが、あの時とは違う。

 あの時、ラシャは一人で先走って窮地に陥った。守るべき人を置き去りにしてしまった。


 だが、今は、守るべき人と信じる人のために己の命を盾にしている。自分が死んだとしても、ふたりが――ソラとデインが、必ず敵を倒してくれる。


「なにを笑っているんです? 恐怖で気が触れてしまいましたか」

「シュナイデル将軍」


 ラシャは声をかける。ヴィルガイムにではなく、シュナイデルに向けて。


「私は、これまでずっとあなたを敵視してきた。姫様の敵だからだ。しかし、今は、少しだけ、あなたに親近感を抱いている。……私も、あなたと同じで勇者デインを恨んでいたからだ」

「彼には聞こえていませんよ? 彼の意識は、私が完全に支配していますからねぇ」


 かまわず、ラシャは言葉を続ける。


「無限の勇気を持ち、最強の剣を振るう。清廉にして正義の顕現。勇者とは、そのような存在だと私は考えていた。だから、恨んだ。この世で最も強く、正しい存在であるはずの勇者が、何故、私の故郷を、家族を、救ってくれなかったのかと」

「聞こえていないと言っているでしょう?」

「しかし、実際の彼は、痩せ衰えた中年男だった。私が思い描いていた勇者像からはかけ離れていた。だが、そんな彼に、私は救われた。命だけでなく心まで救われた。そして、私は知ったのだ。勇者デインの、本当の強さを」

「黙りなさい」

「デイン殿は、必ずあなたを救う。どうか、それまでの間、その薄汚い魔人に負けないでいただきたい」

「黙れと言っている!」


 ヴィルガイムが右の爪を大きく振りかぶる。

 ラシャは霞む目をカッと見開いて、残りわずかな命を火を燃え上がらせた。

 鋭く深く踏み込み、ヴィルガイムの右爪に大太刀をぶつけ、止める。


「右を止めただけではなぁ!」


 当然のように、ヴィルガイムは左の爪を振るう。

 ラシャは、大太刀から右手だけを離し、その手でヴィルガイムの手首をつかんで、爪撃を阻んだ。


「おおおおおおおおおおっ!」


 最後の力を振り絞って、ラシャはヴィルガイムの下顎に頭突きを見舞う。

 ぼぐん! と鈍い音が響いて、ヴィルガイムの巨体が傾く。

 だが、倒れたのはラシャのほうだった。


(ここまで……か)


 気力を振り絞っても、もう指一本も動かせなかった。


「痛いじゃないですか、まったく」


 鎧に覆われていない箇所ーー弱点であるはずの頭への攻撃も、効きはしなかった。


「いい加減に死になさい」

(だが、時は稼いだ。姫様、デイン殿、あとはお任せします)


 灼熱する空気の中、ラシャの意識が闇に沈みかけたその時、


「水の理よ。我が意に従い、冷たき槍となれ。ーー氷烈槍葬アイシクルランス!」


 ソラの声が響き、そして、無数の氷の槍が降り注いだ。


※※※


(私を纏いなさい。それで、あなたは強くなれる。あの、勇者デインを凌ぐほどに!)


 鎧の声がする。それは、四六時中、所構わずシュナイデルの頭の中に響いてきた。

 鎧――魔の鎧。かつてアズール王国を襲撃した、鏖魔おうま十二将の一人、ヴィルガイムが身に着けていたという、無敵の鎧。


 アズール王城の第六宝物庫。人には扱えない魔人器が保管されているその場所に、国王の許可を得てシュナイデルが足を踏み入れたのは、魔の鎧を斬るためだった。

 勇者デインでさえ完全な破壊には至らなかったという魔の鎧を斬ることができれば、己の剣がデインを上回ったことを証明できる。


 しかし、渾身の斬撃を何度見舞っても、魔の鎧はビクともしなかった。傷の一つさえつけられなかった。


(あの男……デインの剣は、魔の鎧を破壊はできなくとも大小無数の傷をつけたと聞いた。なにより、魔鎧将軍ヴィルガイムを倒している。俺の剣は、デインに遠く及ばないというのか!?)


 打ち拉がれるシュナイデルの頭の中に、あの声が響いてきたのだった。

 ヴィルガイムの誘いを、シュナイデルは当然、拒絶した。


 そして、魔の鎧の破壊を幾度となく試みたが、シュナイデルの力では、どうやっても破壊はおろか傷つけることも叶わなかった。


(弱い弱い。勇者デインの剣は、こんなものではありませんでしたよ? 今のあなたでは、あの男には到底敵わない。ですが、私があなたに力を与えます。無敵の力を。私を信じて。共に勇者デインに復讐を!)


 どこにいても聞こえてくるヴィルガイムの声と、そして、突きつけられる自分がデインに劣るという現実に、シュナイデルの心は衰弱していった。


(あなたは、いつまで弱いままでいるつもりですか? 今のままでは、あなたは何も守れない。大好きなお姉さんが命と引き換えに守ったこの世界を、守るんじゃないんですか?)


 姉さん。大好きなサクラ姉さん。

 僕を置いて、遠くに行ってしまった。

 僕がもっと大人だったら。もっと強かったら、僕は今も姉さんと一緒にいられたのに!

 誰のせいだ? 誰のせいで、姉さんはいなくなった?

 デインだ。勇者デイン。

 勇者なのに、姉さんを守れなかった。勇者なのに、姉さんが守った世界を捨てていった。

 許せない。許せない許せない許せない!

 全部、あいつが悪いんだ!


(ええ、そうですとも。勇者デインを許してはいけません。あなたと私なら、あの男を殺せる。さあ、復讐を! 復讐を!)


 許せない。許せない許せない許せない!

 誰を?

 勇者デイン!

 ……本当に?

 僕が……俺が、本当に許せないのは、誰だ?

 わからない。考えたくない。

 強くなれるなら、あいつより強くなれるのなら、もうなんだっていい。


 そして、シュナイデルは、文字どおりの悪魔の誘惑に堕ちてしまう。


「シュナイデル将軍」


 暗闇の中で、声がした。女の声だ。

 聞き覚えのある声だったが、誰のものだろうか。


(どこだ、ここは)


 重く、粘つく暗闇の中に、シュナイデルはいた。

 身動きができない。何も見えないが、自分の目が開いているのかさえも判然としない。


「……――……――」


 先ほどの声が何かを言っているが、音が濁って聞き取れない。


 周囲の暗闇が、意識にまで絡みついてきているのがわかる。

 意識が――自我が、暗闇に蝕まれていく。

 どうにか自我を保とうと、シュナイデルは暗闇の向こうから聞こえてくる声に意識を集中する。


 音はやはり濁っていたが、辛うじて聞き取れた。


「デイン殿は、必ずあなたを救う。どうか、それまでの間、その薄汚い魔人に負けないでいただきたい」


 デインが、俺を救う?

 なにを、馬鹿な。ありえない。

 俺は、あいつを殺そうとしたんだぞ。

 あいつは臆病者の卑怯者だ。俺はあいつを勇者とは認めない。

 あいつに救われるぐらいなら、死んだほうがマシだ。

 死……。

 死ぬのか、俺は。

 暗闇に蝕まれて、俺という存在が消えていく。

 消える。

 怖い。

 消えたくない。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 消えたくない! 俺はまだ消えたくない!

 助けて。助けてよ、姉さん!


「水の理よ」


 その時、暗闇を切り裂くように、清冽な声が響いた。


「我が意に従い、冷たき槍となれ。――氷烈槍葬アイシクルランス!」

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