第21話 勇者になった場所で
シュナイデルは自分の名前が嫌いだった。
シュナイデルは三百年前に当時の魔王軍を退けた勇者の名前だ。
勇者のように強く勇ましい人になってほしいという親の願いが込められているのだろうが、それをたしかめる術はなかった。シュナイデルが物心つく前に、両親は魔獣に襲われて死んでしまったからだ。
たまたま生き残ったシュナイデルは天涯孤独となり、孤児院で育った。
同じ孤児院の子供たちに、名前をからかわれることが多かった。
少年時代のシュナイデルは背も低く痩せこけていた。自分でも名前負けしていると思っていたから、名前をバカにされるのが本当に嫌だった。
(シュナイデル、素敵な名前だね)
ただ一人、サクラだけがシュナイデルの名前をからかわなかった。
同じ孤児院で暮らす年かさの少女だったサクラを、シュナイデルは「姉さん」と呼んで慕っていた。
(優しいシュナイデルには、ぴったりの名前だよ)
サクラは言った。世界を救うために戦った勇者シュナイデルは、きっと世界で一番優しい人だったのだと。
(シュナイデルも、勇者シュナイデルみたいな世界一優しい人になってね)
サクラの笑顔は、瞼を閉じれば――否、目を開けたままだとしても、鮮明に思い浮かべることができる。
サクラ。
身体も弱く気も弱く、いじめられてばかりだったシュナイデルに、ただ一人、無償の愛を注いでくれた人。
シュナイデルの太陽。
だが、ある日、サクラはシュナイデルの前からいなくなった。
(私ね、魔法使いになりたいの)
サクラは、親の形見だという一冊の魔導書を大切にしていた。
それは、大きな街であればどこでも手に入るような、ありふれた魔法の入門書だったが、サクラはその魔導書だけを頼りに、いくつかの簡単な魔法を使えるようになっていた。ほぼ独学といっていい。
魔法に関して何も知らなかった当時のシュナイデルにも、サクラが並々ならぬ才能の持ち主であることはわかった。
だから、魔法使いになりたいという夢を叶えるために孤児院を巣立っていく彼女を止められなかった。
(姉さんが魔法使いになるなら、僕は勇者になるよ。世界一強くて、世界一優しい勇者に。そしたら、姉さん、僕と一緒に旅をしてくれる? ずっと僕と一緒にいてくれる?)
涙交じりに訴えたシュナイデルに、サクラは笑顔でこう言った。
(シュナイデルなら、きっと立派な勇者になれるよ)
そして、サクラは去った。
ほどなくして魔王軍による侵攻が始まり、世界は血と死に満ちた。
どこどこの街が滅びた、あるいは砦が落ちたという話ばかりが聞こえてくる日々の中で、唯一人々の希望となったのが、勇者デインと賢者サクラの活躍だった。
賢者サクラが、自分にとっての太陽だったサクラと同一人物であると、シュナイデルは信じて疑わなかった。
(勇者、デイン……)
サクラが賢者と称されるほどの魔法使いになったことは嬉しかった。サクラは夢を叶えたのだ。けれど、サクラの傍らに勇者と呼ばれる男がいるという事実は、シュナイデルの心を焼いた。
(勇者デイン……!)
サクラの傍らで、勇者として共に戦う。シュナイデルの夢を、勇者デインが奪っていった。
そして、魔王グインベルムは倒された。――サクラの命と引き換えにして。
「……ぐううぅぅぅうっ!」
獣のような唸り声で、シュナイデルは目を覚ました。
王宮の執務室。シュナイデルの外には誰もいない。
椅子の手すりをつかむ手が震えている。シュナイデルはその手を顔の前に運び、拳にして握りしめた。爪が掌に食い込み、皮膚が破れて血が流れ出る。
シュナイデルをそこまで力ませているのは、怒りだ。唸り声の主も、自身だ。
「勇者、デイン……ッ!」
この世で最も憎い男の名を搾り出すように口にして、シュナイデルは奥歯を噛み鳴らす。
(おやおや、主様はどうやら虫の居所が悪いようだ)
不意に聞こえた声に、シュナイデルは視線を窓へと走らせた。
窓の向こう――深い夜の闇の中に、赤い双眸が浮かんでいる。
鴉に似た黒い鳥が、窓枠に留まっていた。
「貴様か」
(はいはい。ヤヴンハールめにございますよ。夜分に失礼致します。あ、今のはシャレではありませんよ?)
黒い鳥――ヤヴンハールの声は、閉まっている窓にも遮られることなくシュナイデルの耳に届いた。
「くだらん話はいい。報告しろ」
(はいはい。連中は順調に王都ヒンメルに接近しておりますよ)
ヤヴンハールはシュナイデルが手駒にしている魔人の一人だ。軽薄な喋り方が勘に障るが、密偵としては優秀だった。
城を発ったソラの行動を、シュナイデルはヤヴンハールを使って監視していた。
(明後日には
「そうか」
曙光の丘は、王都ヒンメルを望む丘陵地帯だ。過去にはアズール軍と魔王軍の大規模な戦闘が行われた場所でもある。
その戦いに於いて、当時まだ一介の傭兵にすぎなかったデインが
「くっくっくっ」
勇者の丘で勇者を迎え撃つ。おあつらえむきではないか。
シュナイデルは掌の血を舐め、白い右目をすがめた。
※※※
緩やかな上り斜面が続いている。
ここを上りきれば、その先に王都ヒンメルが見えてくる。
青の森から丸一月を経て、デインたちは遂に目的地へと至ろうとしていた。
(曙光の丘、か……)
デインはふと足を止め、振り向いた。
初夏の爽やかな風に、草花が淡く揺れる。
曙光の丘の光景は、デインが知るものとは大きく変わっていた。
デインにとって、ここは戦場だった。
アズール王国軍と魔王軍との、繰り返された衝突。右を見ても左を見ても、前も後ろも、兵士たちと魔獣たちの死体、死体、死体。むせ返るような血の臭い。
まさに死の大地であったが、二十年の時を経て、草花が目にも鮮やかな美しい土地になっていた。
「デイン、どうかされましたか?」
デインが足を止めていることに気づいたソラが、声をかけてきた。
「……いや、帰ってきたな、と思ってな」
この場所での戦いをきっかけに、デインは勇者と呼ばれるようになった。勇者として過ごした過酷な日々は、この場所から始まったのだ。
勇者なんて呼ばれなければ、勇者なんて称号がなければ、デインにはもっと別の人生があったのかもしれない。あるいは、今も傍らにはサクラがいたのかもしれない。
勇者という称号は、デインにとっては呪いのようなものだった。だった。過去形だ。
その呪いのような称号を、デインは自ら背負おうとしているのだから、人生というものはわからない。
「わたしとラシャにとっても、久しぶりの王都です」
「ずいぶん遠回りしちまったからな」
青の森に寄ったのもあるが、デインたちは基本的に街道を避けて移動していた。
ルーベの村のように、魔獣や魔人の襲撃に無関係な人々を巻き込まないためだ。
結局、ルーベの村以来、敵に襲われることはなかったのだが、それが逆に不気味でもあった。
「果たして、このまま無事に着けるものかね」
デインは後頭部をボリボリと掻きつつ言った。
「なにせ、こっちの動きはあちらさんに筒抜けだしな」
「赤い眼の鴉、ですね」
「気づいてたのか」
ソラは小さく頷いた。
「気づいたのは、つい最近ですが」
「俺もだ」
ソラとラシャがデインの許を訪れたタイミングで現れたガルムとベロス。そして、デインたちを先回りしていた半蜘蛛の魔人。シュナイデルが何らかの手段でデインたちを監視しているのは明白だった。
赤い眼の鴉の存在にデインが気づいたのは、青の森を発って数日後のことだった。
巧妙に気配と敵意を殺し、こちらの視界から外れながら、赤い眼の鴉はデインたちをつけ回していた。
魔人か、魔人が操っている魔獣か、どちらにしろ厄介な追跡者だった。
なによりも嫌だったのが距離感だ。叩き落としてやろうにも、攻撃が届かない距離を保たれていた。
こちらが存在に気づいていることを悟られないよう、ソラとラシャにも言わずに隙を窺ったが、結局、機会は訪れなかった。ソラもデインと同様だったのだろう。
「四日前から姿が見えなくなりました。シュナイデルに報告に戻ったのでしょうか」
「そういうことだろうな。この丘の向こうに、奴さんがアズール王国軍全軍を率いて待ち構えてる可能性もあるってことだ」
「アズールの民の血を流したくはありません」
「同感だ」
「姫様! デイン殿!」
先頭を歩いていたラシャが緊迫した声をあげた。
デインとソラは顔を見合わせ、駆け出す。
ラシャの隣に並んで、彼女が声をあげた理由がわかった。
騎影が見えた。数は、一つ。
斜面の頂から、陽光を背にデインたちを見下ろしている。
逆光と距離で顔までは見えないが、それでも、異様なまでに研ぎ澄まされた気配が、その者の正体を伝えてきた。
「シュナイデル……」
デインの呟きに、ソラが「はい」と頷いた。
「おかえりなさいませ、ソラ様」
騎馬の主から、朗々とした声が届いた。
ゆっくりと騎馬が近づいてくる。
逆光から外れ、シュナイデルの姿がはっきりと見て取れるようになった。
『白』が目立つ男だった。
白髪に白い鎧。そして、白い左目。乗っているのも白馬だ。
同じ白髪でも、デインの灰を被ったようなみすぼらしい白髪とは違う。処女雪のような汚れのない白だ。美しくはあるが、潔癖じみた、神経質な印象を受ける。
「無事のご帰還を祈っておりました」
「刺客を差し向けておいて、何を言うのです!」
ソラが、凛とした声をシュナイデルにぶつけた。
「お気に召してはいただけませんでしたか」
シュナイデルは否定しなかった。アズールの将軍の地位にありながら、王女であるソラへの敵対を、堂々と宣言している。
「おまえ、一人か?」
シュナイデルの黒と白の目が、問いを口にしたデインを見て――冷えた。
寒気がするほどに、デインに向けられたシュナイデルのまなざしは冷たい。そして、まなざしと同じ冷えきった声で、シュナイデルは答えた。
「そうだ」
シュナイデルの後方に人の気配は感じられない。あの赤い眼の鴉も見当たらない。
「アズールのお姫様を殺すのに、アズールの兵を使うのは都合が悪いってか?」
「見当違いだな。俺は、この日を二十年待ち望んだのだ。誰にも邪魔されてなるものか」
凍みるような目はそのままに、シュナイデルは口の端を吊り上げた。
「デイン……デイン……! 勇者デイン!」
シュナイデルに名を呼ばれ、デインはたじろいだ。
(なんだ、この男は……!?)
デインの声には、目とは対照的に、灼けるような感情が込められていた。
その感情は――憎悪。
シュナイデルは、デインを憎んでいる。
「なんだ、その灰を被ったような頭は!? そのみすぼらしい風体は!?」
シュナイデルは傲然と声を響かせる。
「おまえが! おまえのような男が勇者だと!? 笑わせるな!」
間違いなく初めて見える男だ。恨まれる覚えはデインにはない。だが。
「あんたは、一体何者なんだ?」
デインの問いかけに、シュナイデルは黒と白の双眸を剥いて腰の剣を抜き放ち、そして、名乗った。
「俺はシュナイデル! 賢者サクラの弟だ!」
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