第18話 水鏡
「ミクマリ」
青い髪に白い装束の少女が、おもむろに言葉を紡いだ。
「なに?」
「ミクマリ。我の名だ。忘れたのか? 名付けたのはおまえであろうが」
「……ああ。そういやそうだったな」
たしかに、デインがそう名付けた。名前を考えたのはサクラだったが。
「水の精霊王が女性だったとは」
ラシャが驚きを口にする。
「女の姿をしちゃいるが、性別があるわけじゃねぇよ」
「そうだ。我は我の前に立つ者の心を映し、姿を得る。今はデイン、おまえの心を反映している」
精霊王――ミクマリは、デインの傍らに立つソラを一瞥して、言った。
「老けただけでなく、少女趣味に走ったのか」
「んなわけあるか!」
大きな声を出して、デインはむせた。
「まあ、勇者様。勇者様も、わたしを想っていてくださったのですね」
「おまえも喜ぶんじゃねぇ! 違うからな!」
否定したデインだが、ミクマリが少女の姿を取ったのが、ソラの影響であることは間違いないだろう。
「して、何をしにきた」
「それを訊くのか? わかってんだろ? 水月を取りにきた」
ミクマリはつまらなそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「勇者であることを捨てたおまえが、水月を手にしてなんとする」
「……もう一度、勇者をやってみようって思ったんだよ」
「笑わせるな」
ミクマリは無表情のままに言い放った。
「一度捨てたものを、そう易々と拾い直せると思うな」
「……まあ、そう言われるよな」
デインは知っている。
ミクマリ――水の精霊王は、自身が言っていたとおり、人の心を映し出す。さなが
ら水鏡のように。
それは、姿だけではない。
ミクマリの言葉もまた、デイン自身の心から生まれたものなのだ。
「だが、俺もそれなりに本気だ」
「ならば、我が試してやろう!」
ミクマリの白く小さな足が地面を蹴った。
ぬかるみを蹴ったとは思えない疾さで、水の精霊王はデインの眼前に迫り、拳を振りかざした。
ソラもラシャも、そしてデインも、一歩も動けなかった。
ミクマリの拳に顔面を打ち抜かれて、デインは身体ごと吹っ飛ばされた。
「……っ!」
苔むした地面に背中と後頭部をしたたかに打ちつけて、デインは目を剥いた。
「勇者様!」
「勇者殿!」
「くる、な……っ!」
デインはどうにか声を出して、ふたりを制した。
歯を食いしばって立ち上がる。思うように息が吸えない。視界が定まらない。
ミクマリの拳打にはそれほどの威力があった。地面が硬かったら意識が飛んでいただろう。
「ほう、立ったか」
「言っただろ。俺は本気なんだよ」
よろめきつつ、デインは拳を構えた。ソラとラシャに、手を出さないよう目で訴える。
(これは、俺の戦いだ)
ミクマリが再び地を蹴った。瞬時にデインの懐に飛び込み、拳を
デインは咄嗟に両腕を盾にしたが、ミクマリの拳は吸い込まれるように防御の隙間を打ち据える。
「ぐ……あっ!」
たまらず腕が下がると、さらなる拳打の
糸の切れた人形のように、デインはその場に崩れ落ちた。踏ん張ろうとしたが、足がまるで言うことを聞かなかった。
「弱くなったな」
ミクマリがデインを見下ろし、冷たく言い放った。
「…………」
弱くなった。
それは、デイン自身が何よりも痛感している事実だった。
ミクマリは強いが、二十年前のデインであれば問題なく対応できた強さだ。
そういう強さに設定されている。――デインに現実を突きつけるために。
「全盛期の力に少しでも近づこうとあがいたようだが、無駄だ。時の流れというのは残酷なものだな。老いたおまえは、決してかつての強さを取り戻せない」
それもまた、デインが噛みしめている事実だった。
この二十日間、少しでもかつての力を取り戻そうと徹底的に自分を追い込んだ。その結果、どうだったか。
疲れただけだ。
ただただ、疲労だけが蓄積していった。それ以外に、何も変わった気がしない。
自分は、二十年という時間をただ棒に振っただけではない。その間に、老いていたのだ。
老いは残酷だ。どうあがいても、魔王グインベルムとさえ渡り合ったあの頃の自分にはなれはしない。その事実を、嫌というほどに思い知らされた。
「現実を突きつけられて、それでもおまえはもう一度勇者をやりたいなどと世迷い言をぬかすのか?」
「俺、は……」
「おまえは一度捨てた人間なんだ。一度捨てた人間は、同じことを繰り返す。おまえには何も成せはしない」
「やってみなきゃ、わからんだろうが……っ!」
「わかるさ。誰よりもおまえ自身がわかっているはずだ」
「ぐ……っ!」
デインは足を拳で殴りつけたが、足はやはり動かない。
「おまえはまた逃げ出す。投げ出す。そうしておまえは、勇者でもなければ元勇者でもない、何者でもなくなるんだ。――無だ」
立てないのなら逆立ちでもいい。止まるな。動け。
デインは地につけた両手に力を込めたが、デインの意志を嘲笑うように、その手はぬかるみに沈んでいく。
「ほら。おまえはもう立ち上がることすらできない。無様だ。何者でもなくなる前に、元勇者という肩書きがあるうちに、死ぬがいい」
ミクマリが片方の手を掲げると、湿った空気が震え、白く小さな手の上に水流が生じた。
水流は渦となって勢いを増し、やがて渦の中心から一振りの刀が現れた。
青い刀身のその美しい刀を、デインはよく知っていた。
精霊刀・水月。
水流が弾けて消え、水月はミクマリの手に収まった。
かつての愛刀が、デインの命を絶つべく振りかざされる。
デインにかわす術はない。
「楽になれ」
「水の理よ。我が意に従え!」
ミクマリの声を打ち消すように、別の声が響いた。
見えない何かに殴りつけられたかのように、ミクマリが大きく後ろによろめいた。
デインはソラを見た。ソラは必死の形相で、ミクマリに片方の掌を向けている。
「水の精霊王たる我に、水の理を及ばせるとはな」
「おおおっ!」
体勢を崩したミクマリに、ラシャが背後から斬りかかる。
「調子に乗るな!」
ミクマリが青い髪を炎の如く逆巻かせ、吠えた。
中空に湧きあふれた水が、奔流となって背後に迫っていたラシャを、そして、ソラを打ち据え、吹っ飛ばした。
「ソラ! ラシャ!」
「案ずるな。殺してはいない。しばらくは身動きできん程度には痛めつけたがな」
ミクマリが言った。
「うっ……勇者、様……」
「ぐ……ううっ……姫様……っ」
言葉どおり、ソラとラシャは生きていた。苦しげに呻いてはいるが、意識はあるようだ。
「我に水の理を及ばせた人間は二人目だ。何者なのだ? あの娘は」
これまで無表情だったミクマリが、怪訝な目をソラに向けた。
驚いているのはデインも同じだった。
水の精霊王に水の魔法を効かせたもう一人の人間を、デインは知っていた。サクラだ。
ソラの魔法の才能はサクラにも匹敵するということになる。
ソラはフェリナの娘でありアズール王国の王女だ。だが、それはミクマリが求めている答えではない。
ミクマリの疑問は、そのままデインの疑問でもあった。
フェリナの娘でありアズールの王女であり、天眼の持ち主でもある。さらにサクラに匹敵する魔法の才まで備えているソラは、一体何者なのか。
ミクマリが視線をデインに戻し、水月の切っ先をも向けてきた。
「まあいい。おまえの処刑を続行しよう」
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