第9話 お姫様の料理の味は?


 ゆっくりと深く息を吸う。深く深く、肺を空気で満たすように。

 限界まで肺を膨らませたところで少しの間、呼吸を止め、今度は細く長く息を吐く。肺に溜まった空気を、吸い込む時の倍の時間をかけて吐ききる。これを無心で繰り返す。


「何をしている」


 背中にかけられた声に、デインは息を吐ききってから振り返った。


「肺を鍛えてたんだよ。すっかりしぼんじまってるからな」


 声の主――ラシャに、デインは答える。

 ふん、と鼻を鳴らしたラシャは、傍らの木に腕を組んで背をもたれた。


「姫さんのほうはどうだい?」

「食事の準備を進めておられる」


 日はすでに沈み、デインたちは街道から少し逸れた森の中で夜営に入っていた。

 これまで食事の準備はラシャがしていたのだが、ソラが自分にもやらせてほしいと言い出したのだ。


(こうして旅をしている間は、わたしたちは旅の仲間です。こういったことは、身分に関係なく分担するべきではないでしょうか!)

 目を輝かせて、そんなふうに言っていた。


「今更だが、変わった姫さんだよな。食事の準備なんて、従者のあんたに任せちまえばいいのに」

「まったくだ」

 デインの言葉に、ラシャが珍しく同意した。


「姫様はこの旅を楽しんでおられるようだ」

「城の外が色々と物珍しいのかねぇ」

「それもあるだろうが、姫様は冒険者になりたいと常々おっしゃっていた。それもこれも、おまえのせいだ」

「なんでだよ」

「姫様は、おまえの冒険譚を王妃様から繰り返し聞かされたと言ったろう」

「ああ、言ってたな、そんなこと……」


 だとすれば、それは自分ではなくフェリナのせいなんじゃないか思ったデインだが、言葉にはしなかった。


「……で、あんたはここに何しにきたんだ。俺が逃げ出さないか見張ってるのか?」

「逃げ出すつもりなのか」

「……逃げやしないさ」


 もう一度だけがんばってみるとサクラに誓ったのだ。

 デインの答えに、ラシャは「ふん」と鼻を鳴らしたきり黙り込んだ。


(……結局、なんで俺のところにきたんだ?)

 その疑問を口にしても答えてはもらえないだろう。デインは別の話題を振った。


「あんたは鬼人の血が入ってるよな?」


 訊ねてから、デインは後悔した。

 生まれの話は話題としては繊細だ。デインを嫌っている……というより恨んでいるラシャに、していい質問ではなかった。


「ああ。どの程度の割合かは、私自身も知らないがな」

 意外なことに、ラシャは激昂することなく答えた。

「私の故郷は、アズール王国領の南……地図にも載っていない森にあった。人と鬼人の血が混じった者たちが寄り集まってできた、小さな集落だ」


 この世界には、人に近しい姿と文化を持ちながら、人とは異なる種族が複数存在する。

 彼らは総じて亜人と呼ばれており、鬼人もその一種だった。

 人と亜人の関係は、必ずしも良好なものとはいえない。

 過去に繰り返されてきた魔界の侵攻に対しては共に立ち向かう味方ではあったが、それは歴史の一面にすぎない。

 敵意、嫌悪、差別……人と亜人の間には、様々な負の感情が横たわっている。


 亜人の種の多くは人との間に子を成せるが、人と亜人の混血児――混血亜人は、各々の亜人の社会でも人の社会でも、疎まれてしまうことが多い。

 人と鬼人の血が混じった者たちの集落ということは、つまり、そういうことなのだろう。


「魔王軍の残党に滅ぼされたって言ってたな」

「……八年前にな。石仮面を被った魔人だ。そいつが魔獣を率いて私の故郷を襲った。父も母も弟も殺された。……生き残ったのは、私だけだった」

(石仮面の魔人……か)


 二十年前には多くの魔人と戦ったデインだが、石仮面を被った魔人には覚えがなかった。


「どうにか逃げ延びはしたが、私も傷を負っていた。助けを求めて街道に出たところで、一台の馬車が通りかかった。その馬車に乗っていたのが、王妃様と姫様だ」

「フェリナ様が」

「ああ。姫様を伴っての公務の帰りに、王妃様は街道の脇に倒れていた私を見つけてくださった。そして、私は王妃様の癒しの魔法で一命を取り留めたのだ」

「フェリナ様が命の恩人ってわけか」

 ラシャは深く頷いた。

「王妃様は治療した私を城に連れ帰り、下女として召し抱えてくださった。私はフェリナ様に二度命を救われている」

「…………」


 さすがはフェリナだ、とデインは感心した。

 親も故郷も失った混血亜人の子供が一人で生きていくのは難しい。怪我を治したからといって、そこで放り出してしまえば、ラシャはどうなっていたか。


「……だが、城での暮らしも、あんたにとってはしんどいものだったんじゃないのか」

 デインの問いに、ラシャは目を閉じた。

「混血亜人が人と同じように扱われることはない。王城のような、人を生まれと肩書きだけで判断する場所であれば尚更だ。……だが、私は不幸ではなかった。王妃様と……なにより、姫様のおかげでな。おふたりだけは、私を混血亜人としてではなく、一個の人格として尊重してくださった」

「……そうか」


 デインは驚かなかった。

 フェリナはそういう人だ。そして、ソラも。デインにとってソラはまだまだ未知の少女だが、彼女がラシャに対し蔑むような態度を見せたことはない。


 従者であるはずのラシャに、ソラはまるで友人のように接している。王族として、その貴賤きせんのない振る舞いは必ずしも褒められたものではないのかもしれないが、デインは好ましく思う。


「あんたが剣の腕を磨いたのは――」

「姫様と王妃様をお守りするためだ」

「それだけか?」


 ラシャは目を開け、眦を吊り上げた。


「無論、あの石仮面の魔人を許しはしない。いずれ必ず見つけ出し、この手で殺す」

「復讐、か……」

「よもや、復讐は何も生まないからやめろ、などと言うつもりではないだろうな」

「言わねぇよ。復讐でもなんでも、生きる目的があるってのは悪いこっちゃないさ」

「ふん……そういえば、おまえに一つ、聞きたいことがある」

 ラシャが話題を変えた。


「なんだ?」

「ベロスとの戦いでおまえが見せた、あの、とてつもない疾さについて聞きたい。人間の身のこなしを逸脱しているように見えた」

「ああ……」

 なるほど、それが聞きたくてここにきたのか、とデインは納得した。


「あれは、氣炎きえんの法だよ」

「きえんのほう……?」

「命を燃やすんだ」

「??? それは、どういう――」

「勇者様! ラシャ!」


 ソラの声がラシャの言葉を遮った。


「食事の用意ができました!」



※※※



「お口に合うといいのですが」


 ソラが用意してくれた食事は、湯で戻した干しいいと焼いた干し肉にそれぞれ調味料で味を足したもの。それに、粉乳を湯で溶いてそこに乾燥させた果実と木の実を加えたものの三品だった。


「美味です、姫様! あの味気ない携帯食料が、城の料理にも勝る至高の逸品に!」

「大袈裟ですよ、ラシャ。勇者様は、いかがですか?」

「あ、ああ……」


 味の感想を訊かれて、デインは困った。


「す、すまん。正直に言うと、よくわからん」

 それが、デインの偽りのない感想だった。


「貴様! 姫様が調理してくださった食事に対し、よくわからんとは何事だ!」

 ラシャが投げつけんばかりの勢いでさじを向けてきた。


「しょうがねぇだろ! 味がわかんねぇんだよ、俺は……」


 デインの言葉に、ソラが「あ」という顔をした。

 デインは二十年前の戦争時に、何を食べても血の味しかしなくなったことを話した。


「今はもう、血の味しかしねぇってことはなくなったけどよ、漠然と甘いとかしょっぱいとか、その程度しかわかんねぇんだ。すまないな……」

「む……」


 ラシャは呻いて、デインに向けていた匙を下ろした。


「勇者様、どうかお気になさらず。無神経なわたしをお許しください」

「悪いのは俺だ。謝らないでくれ」


 デインは手にしているわんに視線を落とした。


「味はわからねぇけど、でもさ、こういうのも悪くないって思うよ」


 春先とはいえ、まだまだ日が沈めば寒い。夜風に冷えた手に、椀の温かさがしみる。


「誰かと一緒に飯を食うのも、悪くない」

「勇者様」


 顔を上げたデインの隣に、椀を手に駆け寄ってきたソラがぺたんと座った。そして、ぴったりと身を寄せてきた。


「な、なんだよ」

「一緒の食事は楽しいって、わたしも思います」

「だからって、くっつきすぎだろうが」

「二十年の間、誰かと食事を共にされたことは?」

「……ないよ」

「なら、その分をいっぱい埋めないと」


 デインを見上げて、ソラは微笑む。


「勇者様が楽しいと思うことを、積み重ねていきましょう」

「……」


 デインは思い出す。

 サクラも食事の時はデインの向かいではなく隣に座っていた。


(だって、向かい合うより、こうして隣にいるほうが、仲良しって感じがするじゃない。食べた後、デインの肩を枕にできるしね)


「俺の肩を枕にするのはやめてくれよ」


 サクラの言葉を思い出して、デインは言った。


「はっ! その発想はありませんでした。お腹を満たして、そのまま勇者様の肩で眠る……なんて素敵なんでしょう」

「するなって言ってるんだ」

「勇者様がお嫌なのでしたら、いたしません。でも、勇者様がわたしを枕にしたくなったら、いつでも言ってくださいね」

「ならねーし、言わねーよ」


 言って、デインがため息をついた直後、夜風が不穏な音を運んできた。


「なんだ!?」

 ラシャが傍らに置いていた大太刀を手に立ち上がった。


「勇者様、今の音……いえ、声は……」

 ソラにも聞こえたらしい。


「……悲鳴、だな」

 デインは音が聞こえてきた方角に視線を向ける。


「それも、一人じゃない」


 夜風が、今度は別の音を運んできた。人ならざるものの、奇怪な声を。


「たしか、近くに村があったな」

「はい。ルーベという名前の村が地図に載っていました。……勇者様、もしや、これは……」

「魔獣、だな」

 

 デインが言うや否や、ラシャが駆け出した。


「ラシャ!? 待って!」

 ソラが上げた制止の声にも従わず、ラシャは行ってしまった。


「……追うぞ」

 デインは椀を置き、代わりに剣を手に取った。


「はいっ。……あの、勇者様」

 立ち上がったソラが、デインの腕に触れた。


「ラシャは、とても足が速いです」

「ん? ああ、そうだな」


 ラシャの姿は、瞬く間に見えなくなっている。


「わたしの足では、追いつくのにとても時間がかかってしまいます」

「だろうな」

「ですが、勇者様の足なら、すぐに追いつけるのではないでしょうか」


 ソラの言わんとしていることを理解して、デインはぼりぼりと頭を掻いた。


「わーったよ」


 身を屈め、ソラの足に腕を回して抱え上げる。


「……重いな」

「ええっ!? わたし、同世代の女の子と比べても、重いほうではないと思うのですがっ」


 たしかに、ソラは小柄なほうだろう。肉付きも薄く、十五歳にしては幼く見える。


「おっさんには、匙より重いモンは全部重いんだよ」


 それが、フェリナの娘となれば尚更だ。

 村が魔獣に襲われているのだとして、果たしてそこにソラを連れていってよいものかという迷いはある。だが、


(……まあ、守るしかねぇよな)


 二十年の空白期間ですっかり錆びついた今の自分でも、並の魔獣が相手であればどうにかなる。

 問題は……。


(敵が魔人の場合、だな)


 デインは軽く頭を振った。

 考えても仕方がない。どのみち、ラシャを追わないわけにはいかないのだ。


「……走るぞ」

「はいっ!」


 ソラの重みを腕に感じつつ、デインは走り出した。

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