第8話 遠い幸せ
「ぜー……はー……ぜー……はー……」
デインは息を切らしていた。
特段、何かをしたわけではない。ただ、歩いているだけだ。
運動不足が極まった身体は、歩くだけで容赦なく体力が減っていく。
額に滲む汗を掌で拭って、デインはうつむいていた顔を上げた。
前を歩いていたふたりが振り返る。
「まったく情けない男だな。歩き出してまだ一刻も経っていないだろうに」
辛辣な言葉を口にしたのは、赤髪の大女、ラシャだ。
「うるせぇ。おっさんの体力のなさをなめるな」
「偉そうに言うことか。山を下りてもう五日だ。いい加減、旅に慣れてもらいたいところだな」
「年を取るとな、疲労ってのは蓄積されてく一方になるんだよ」
「勇者様、少し休憩されますか?」
ソラが心配そうな顔を覗かせた。
頭巾に隠されて青空色の髪は見て取れない。
ここはアズール王国の隣国、リヴェールの領内だ。
アズールとリヴェールの関係は良好とはいえず、二十年前の魔王戦争時にこそ共闘したものの、その後は睨み合う状態に戻っている。
特にここ数年は、魔獣討伐の名目で国境の軍備が両国ともに増強されており、緊張が高まっているという。
そんな、アズールからすればいわば敵国内でソラの身分が明るみにならないよう、頭巾で顔を隠しているのだった。
「姫様、甘やかしてはいけません。おい、勇者。身体というのは己をいじめればいじめるほど鍛えられるんだ。せいぜい、死に物狂いで歩け」
「くっ……」
デインに対するラシャの態度が刺々しいのは相変わらずだった。
(やっぱ、やめときゃよかったか……)
山を下りたことを、デインは早くも後悔していた。
歩くのもしんどいが、なにより辛いのが街だ。昨日、デインたちはリヴェールで二番目に大きな街・ネージュで過ごしたが、人の多さにデインはすっかり酔ってしまった。今もまだ気持ち悪い。
「勇者様、どうか無理はなさらず」
「だ、大丈夫だ……」
デインの隣に、ソラがたたっと駆け寄ってきた。
「辛くなったら、どうぞわたしを支えにしてくださいませ」
デインを見上げ、ソラはにっこりと笑う。
「できるわけねぇだろ!」
ソラの背丈はデインの胸のあたりまでしかない。そんな少女に寄りかかるのは物理的に無理があるし、なにより男としてのメンツが死んでしまう。
「歩く! 歩くよっ!」
デインは背筋を伸ばし、しゃきしゃきと歩き出した。
ソラはデインの隣にぴったりとついて歩く。
デインとソラとでは歩幅が倍も違うが、ソラはまったく息を乱していない。
まったくたいした体力だとデインは感心する。若い、というのもあるだろうが、それだけではない。
(それにしても……)
デインが横目でソラを見ると、目が合った。
ずっとこうだ。デインがソラを見ると、必ずといっていいほどに目が合う。そして、その度に青空色の髪の少女は嬉しそうに微笑む。
(こんなおっさんと並んで歩くのの、何がそんなに楽しいんだか……)
デインにはソラがさっぱりわからない。
「姫様。前方から馬車が」
前を歩いていたラシャが言った。
ガラガラと車輪の音が聞こえてきた。
三人が進んでいるのは街道だ。馬車も含め、人の往来は多い。
一応、デインは神経を尖らせる。ここがアズールの姫にとって敵国の領内というのもあるが、ソラはシュナイデルに命を狙われているのだ。
ほどなくして、荷台に小麦袋を積んだ一台の馬車とすれ違った。ネージュに小麦を売りにいく農家だろう。
「ばいばーい!」
小麦袋の上に乗っていた、五、六歳の男の子と女の子に満面の笑顔で手を振られた。
「ばいばーい」
ソラが応じて、手を振り返す。
(子供か……)
デインの耳の奥に、愛しい声が甦った。
『ねぇ、デイン。魔王をやっつけて世界が平和になったら、子供、いーっぱい作ろうねっ!』
魔王軍との戦いが続く殺伐とした日々の中で、サクラがよくそんなことを言っていた。
孤児院育ちのサクラは、子供に囲まれた暮らしを愛し、望んでいた。
「勇者様は、子供がお好きなのですか?」
ソラに問われ、デインは「へ?」と間抜けな声を返した。
「あの子たちを、とても優しい目で見ていらしたので」
「べ、別にそんなんじゃねぇよ」
サクラのことを思い出していただけで、デイン自身、子供が好きなわけではない。子供なんて、どう接すればいいのかもわからないというのに。
「子供が欲しくなったら、わたしに言ってくださいね」
「あ?」
「わたしが勇者様の子供を生みます。それはもう、何人でも!」
「バカかおまえは!」
デインが大きな声を出すと、すかさずラシャが反応した。
「なっ、貴様! 姫様になんたる暴言! 斬り捨ててくれる!」
大太刀が抜刀され、刃がぎらりと光る。
「めんどくせぇ!」
「ラシャ、やめてください」
ソラにたしなめられたラシャは、デインを睨みつつも刀を収めた。
「姫様も姫様です。このような男と、こっ、子供を作るなどと! ご自分の立場をお考えください!」
「言ったはずですよ、ラシャ。愛に立場は関係ありません。それに、立場でいうなら、一国の姫にすぎないわたしより、世界を救った勇者様のほうがずっと上です」
ソラに笑顔を向けられ、デインは呻く。
「なので、勇者様。どうか遠慮なく、わたしと子作りを――」
「あーあーあー! 聞こえな-い!」
デインは耳を塞いで歩き出した。
妻を
だが、そんな生き方は自分には早すぎるように思えてしまう。年齢を考えれば、むしろ遅すぎるのだが。
(いや、早い遅いじゃねぇ。遠いんだ)
そう、遠く感じてしまうのだ。
子を成し育む自分の姿が、微塵も想像できない。
デインの手は、これまで倒してきた魔人と魔獣、そして、救えなかった人々の血にまみれている。
この手で子供を抱くことが許されていいのだろうか。
サクラとなら、ありえたのかもしれない未来。永遠に失われてしまった未来。
デインは無理やり想像してみる。赤ん坊を抱いたソラと、その傍らに父親面をして立つ自分の姿を。
(ないないないないない! いろんな意味で、ないっ!)
耳を塞いだまま、デインはぶんぶんと頭を振った。
やはり、自分には人並みの幸せは遠いのだと思い知った。
「待ってください、勇者様っ」
「なんだ、歩けるではないか」
ソラに並ばれないよう、デインは歩みを速めた。
目的地はアズール王国の王都ヒンメル。道程は、まだ遠い。
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