第7話 もう一度だけ

「……俺自身を、救う旅……」


 差し出されたソラの手を、デインはまじまじと見つめた。

 この手を取れば、この生き地獄のような暮らしから脱せるのだろうか。

 捨てたつもりだった、とうの昔に諦めていた第二の人生が、始まるのだろうか。

 この、小さな白い手が、自分を幸せへと導いてくれるのだろうか。


「姫様! それでは、シュナイデルの蛮行を一体誰が阻止するというのです!?」


 ラシャの悲鳴じみた声に、デインは息を呑んだ。


「大女の言うとおりだぜ、姫さん。シュナイデルって奴を止めないと、大変なことになるんだろうが」

「シュナイデルの力は強大です。勇者様を置いて、太刀打ちできる者はいないでしょう。ですが、それは些末さまつなことです。勇者様は、どうか心のままに」

「些末って……本気で言ってるのか?」

「わたしは、いつだって本気です」


 言葉どおり、ソラの目は本気だった。


「さあ、勇者様」

「……っ」


 デインは頭を抱え、髪を掻きむしった。


「わかった! わかったよ! 旅に出るよ! んで、もう一度世界を救えばいんだろ!」

「よろしいのですか?」

「いいも悪いもあるか。世界が平和じゃないのに、幸せになんてなれねぇだろ。……それにな、あれもこれも引き換えにして一度は守った世界がぶっ壊れちまうってのは、ぞっとしねぇよ」


 ソラは目をぱちくりさせ、そして、微笑んだ。


「勇者様は、やはり勇者様なのですね」

「どういう意味だよ」

「世の多くの人は、世界の安寧の前に、自分と家族が平穏に暮らせることを願います。ですが、勇者様はご自身の幸福よりも世界の平和を優先する。それは、まぎれもなく勇者の資質です」

「……そんな、たいそうなもんじゃねぇよ」


 答えつつ、デインはソラの頭越しにラシャを見た。

 デインが旅立ちを宣言しても、ラシャの攻撃的なまなざしに変わりはない。

 魔王軍の残党に故郷を滅ぼされたのだと、ソラが言っていた。

 もし、デインが世を捨てず魔王軍の残党とも戦い続けていたら、彼女は故郷を失わずにすんだのだろうか。

 それは、誰にもわからない。わかったところで意味はない。起きてしまったことはもう、変えられないのだから。


「なあ」


 デインはラシャに声をかけた。


「……すまなかったな。あんたの故郷、守ってやれなくて」

「……!」

「謝ったところで許されないのはわかってるさ。だから、許さなくていい。俺を斬りたけりゃ、斬ってくれ」

「私に殺される覚悟があるというのか」

「ああ。ただ、その前に時間をくれ。枯れ果てたおっさんの俺にも、まだやれることがあるってんなら、今度はちゃんとやり遂げたいんだ。最後まで、な」


 デインに向けられているラシャの眼光が、より険しく厳しくなった。

 見定めようとしているのだ。デインの言葉が、本心からのものであるのかを。

 ラシャのその目を、デインは真っ向から受け止める。

 手が震えてきた。長らく人と関わらない暮らしをしていたために、人の目をじっと見るのが怖いのだ。しかし、ここで目を逸らすわけにはいかない。

 ほどなくして、ラシャはデインから視線を外し、言った。


「貴様の強さだけは評価している。せいぜい、姫様の期待を裏切るな」


 ラシャの目の端に涙が滲んでいることに、デインは気づいていた。

 複雑な感情を噛み殺し、デインに機会をくれたのだ。

 デインは頷いて、ソラを見た。

 空色の髪の少女は、デインの視線を受けて、たおやかに微笑む。

 この少女は一体何者なのだろう、とデインは思う。

 フェリナの娘でアズール王国の王女。

 突然、デインの目の前に現れ、そして今、二十年間止まっていたデインの時間が動き出そうとしている。


「なあ、あんたは一体、何者なんだ?」


 デインが口にした問いに、ソラは小首を傾げる。

 当然だろう。言葉足らずの問いだった。


「いや、なんでもない。忘れてくれ」

「わたしは」


 それでも、ソラは答えてくれた。


「わたしはソラ=ニア=アズール。勇者様を慕い、信じる者です」


「信じる……」


 娘のような年の少女に「慕っている」と言われても実感がないが、「信じる」という言葉はデインの胸に重く響いた。


 世を捨て、枯れ果てた自分に、期待してくれる者がいる。

 デインを勇者と認め、その活躍を信じてくれる者がいる。

 俺の人生は、まだ終わっていなかった。

 新しい物語が、始まる。

 

 目に映るソラの姿が揺らいだ。

 こんないい年したおっさんが、若い娘に泣き顔を見られるわけにはいかない。

 デインはソラに背中を向けて、ぐずりと鼻を啜った。


 既に日は傾き始めていたが、すぐに旅立つことにした。

 今ここで一晩時間を置いてしまったら決心が鈍ると思ったのだ。

 準備に時間はかからなかった。買い出しのために山を下りようと、荷袋に最低限の荷物は詰めていたのだ。

 荷袋を肩に掛け、部屋の隅に転がっていた剣を手に取って埃を払う。それで、準備は完了だった。


「もう少しだけ、待ってくれ」


 家の外で待っていたソラとラシャにそう声をかけて、デインは家の裏に回った。

 鮮やかな薄紅色が目に飛び込んできた。


「ああ、もう咲いてたんだな……」


 デインは眩しげに目を細めた。

 それは、二十年前――デインがここでの暮らしを始めた際に植えた一本の木だった。

 その木の名を、桜という。

 デインの最良にして最愛の相棒と同じ名前だ。


(東の島国には、私とおんなじ名前の木があるんだって。見てみたいなぁ。どんな色の花を咲かせるんだろう)


 それは、いつかサクラと交わした他愛のない会話。その時のデインは「ふうん」と生返事をしただけだったが、サクラの死後、デインは知り合いの貿易商に頼んで桜の苗木を手に入れた。そして、山奥での暮らしを始めた際に、家の裏に植えたのだ。


 幸い、この地方の気候でも桜は育ち、毎年、この時期に花を咲かせるようになった。か細かった幹も枝も、すっかり立派になった。

 桜の花は、デインの唯一の楽しみになった。


 薄紅色の花は、デインにとってサクラの微笑みだった。

 春になると、サクラが花に姿を変えて会いにきてくれる。

 だが、ここ数年は、桜の花が、ただただ楽しみとは思えなくなっていた。

 老いて腐った自分をサクラに見られるのが、心苦しかったのだ。


「なあ、サクラ。俺、旅に出るよ」


 今年も美しく咲いた桜に、デインは声をかけた。


「もう一度だけ、勇者の真似事をやってみるよ。自信はないけど、まあ、がんばってみる」


(デインなら大丈夫だよ)


 声がした。懐かしい声が。

 デインは目を見開く。

 桜の木の下に、サクラがいた。

 デインの記憶にあるのと変わらない姿で、微笑んでいる。


「ああ、会いにきてくれたんだな」


 デインも微笑んだ。

 たとえ幻だとしても、サクラの顔を見るのは二十年ぶりだ。


(何言ってるの。私は、ずっとデインと一緒だったんだよ)


 そう言って、サクラはデインを――デインの胸を指さした。

 デインは己の胸に手を当てる。


(……そうか。そうだったんだな)


 サクラはずっと一緒だったのだ。デインの胸に生き続けていたのだ。


(デイン。私の勇者。あなたにできないことなんて何もない。精一杯、がんばってらっしゃい。そして――)


 そして、サクラはこう言った。


(幸せになってね)


 デインは背筋を伸ばし、深く頷いた。


「いってくる」

 踵を返し、歩き出す。


「待たせたな」


 家の前で待っていたふたりに声をかける。

 ソラは微笑み、その傍らに立つラシャは不機嫌そうに顔を背けた。


「よろしいのですか?」

「……ああ」


 デインは頷いた。

 恐怖もある。不安もある。二十年という時を無駄にした自分に、果たして何ができるのか。

 だが、ただ怖いだけではない。不安なだけではない。

 新しい人生への期待に血がたぎっていくのを、デインは感じていた。

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