第6話 勇者が世界を救うなら

「俺は、神様じゃねぇんだよ……」


 デインは震えた声を出した。


「俺は、ただの人間だ。剣の腕が立つってだけの、ただの人間なんだ。誰も彼も救うなんて、できやしねぇんだよ」


 握りしめた拳も震えた。


「なんで俺がこんな山奥に引きこもったのかって? 教えてやるよ。俺はな、傷ついてたんだよ!」


 ソラが言っていた、自分が争乱の原因にならないために世を捨てたというのも、間違いではない。

 魔王との戦いの後、アズール王国に滞在し、身体の回復に努めていたデインは、自分が勇者として重んじられる一方で、腫れ物として扱われていることを感じた。


「勇者殿は、この先も我が国におられるのだろうか」

「正直、恐ろしいよ。魔王を倒したということは、あれは魔王以上の化け物ということではないか」

「まったく。一刻も早く、出ていっていただきたいですな」

「今や勇者殿は世界最高の戦力だ。逃がすわけにはいくまいよ」

「しかし、勇者殿は将軍の地位を固辞したとか」

「王はフェリナ姫との婚姻を考えておられるようだが」

「将軍では足らず、王の地位を望むか。なかなかに欲深い」

「だが、勇者殿が王となれば、我が国は安泰だ」

「勇者が敵に回るような事態だけは避けねばならない」

「化け物を御せますでしょうか」

「勇者殿も男。金と女を与えておけば、それなりに機嫌はとれましょう」

「なるほど。そこで、フェリナ姫と」

「アズールの至宝ともうたわれるフェリナ姫を与えれば、勇者といえど我らの傀儡かいらいに」


 文官たちのそんなやりとりを、一度ならず耳にした。

 権力を望んだことも名誉を望んだこともない。化け物になったつもりもない。

 だが、世の中はもう、自分をただの人としては見なしてくれないということを痛感した。

 アズール王国を出たとしても、それは変わらない。

 どこへ行っても、自分はこの世界の腫れ物なのだ。

 この世界のどこにも居場所がないのであれば、もう消えるしかない。

 だが、それは、デインが世を捨てた理由の半分だ。


「あの頃の俺は、ボロボロだったんだ。戦って戦って戦って、傷ついて傷ついて傷ついて。癒やしの魔法で怪我は治せても痛みは蓄積していった。今だって、雨が降るとあっちこっち痛くなるんだよ」

 それになあ! とデインは声を荒げた。

「毎日毎日毎日毎日、人を死を目の当たりにしてりゃあなぁ、心だって削れていくんだよ!」


 多くの人が、本当に多くの人が、デインの目の前で死んでいった。

 その死に様と死に顔の一つ一つが、デインの心に傷として刻み込まれている。

 一番深く大きな傷は、サクラだ。

 最良の相棒であり、最愛の人でもあったサクラ。

 そのサクラを失った心の傷は、今も血を流し続けている。


「本当に、ボロボロだったんだ。ボロボロだったんだよ、俺は。身体も心も。だから、俺は……俺は……」


 声を震わせるデインの鼻孔を、果実のような甘い匂いがくすぐった。

 それは、ソラの髪の香りだった。


「勇者様」


 細い腕をデインの背中に回し、精一杯に身を寄せて、ソラは言った。


「わたしが、勇者様を幸せにします」

「……!?」

「わたしがここにきたのは、勇者様に再起していただくためだけではありません。わたしは、勇者様に幸せになっていただきたいのです」


 デインは奥歯を噛みしめた。


「また、わけのわからないことを……!」


 デインはソラの両肩をつかんで、押した。だが、ソラはビクともしなかった。

 デインを見上げ、ソラはその大きな目を見開いて、問いかけてきた。


「勇者様は、今、幸せですか?」


 デインは呻いた。


「俺が幸せかどうかなんて、あんたに関係ないだろうが!」

「関係あります!」

「なんでだよ!?」

「わたしが、勇者様をお慕いしているからです! まだ信じていただけないのですか?」

「……っ」


「もう一度、お訊ねします。勇者様は今、幸せですか?」

「それ、は……」


 嘘をつけばいい。俺は幸せだ、余計なお世話だと言い切って、ソラを突き放す。

 デインにはそれができなかった。


 山奥に引きこもって二十年。ずっと一人だった。

 元々、人と関わるのは好きじゃなかった。群れるぐらいなら一人のほうが気楽な性質たちだった。世を捨てて孤独に暮らすのも悪くないと思っていた。


 実際はどうだったか。

 誰とも言葉を交わすことなく、一人、身体と心の痛みに苛まれる日々は、地獄だった。

 この地獄のような日々から抜け出したい、抜け出そうかと何度も思ったが、山を下りたところで、居場所などどこにもありはしないのだ。

 どこへいっても地獄なら、もう、このままでいい。

 何もかも捨てて、諦めて、空っぽになった自分。


 そんな自分が幸せだったと言えるのか。言えるわけがない。嘘でも言えない。


「……幸せ、な、わけ、ないだろ……」

 デインは声を搾り出した。


「勇者様」

 ソラがデインの手を取って、言った。

「勇者様は、幸せになるべき人です」

「……?」

「世界を救うために戦い続けた人が、不幸せであっていいはずがありません。がんばった人が報われない世界は悲しすぎます」

「……ガキみてえなこと言ってんじゃねぇよ」

「たしかに、わたしは勇者様から見れば子供かもしれません。ですが、あなたをここから連れ出すことはできます」


 デインの手に重ねられたソラの小さな手に、力がこもった。


「勇者様の望む幸せを、教えてください」

「俺の望む、幸せ……」


 その問いを反芻はんすうし、思い浮かんだのはサクラの顔だった。

 サクラに会いたい。だが、それは決して叶わない願いだ。

 なら、他には? 他に望むものは何もないのか。


「わからない……」


 考えれば考えるほど、頭の中は真っ白になっていった。


(俺は、こんなにも空っぽの人間だったのか……)


 改めて、デインは己に絶望した。

 すべてを捨て、何も望まず生きてきた歳月が長すぎたのだ。


「俺は、もう駄目だ……俺にはもう、何も残っちゃいねぇんだ。何もかも、もう手遅れなんだよ……」


 デインはがっくりと項垂れた。

 わかっていたことだ。自分の人生には、もう何もない。ただ、無為に時を過ごし、死を待つだけの存在。


「ふざけるな」


 ソラとは別の声がデインにぶつけられた。

 覇気なく顔を上げたデインの目に映ったのは、立ち上がったラシャだ。


「何もないだと? 貴様には力があるだろうが! 世界を救うほどの力が! 傷ついていた? それがどうした!? こんな山奥で、ただ腐って死んでいくぐらいなら、世界のために戦って死ね! それが力を持つ者の責任だ!」


 ラシャのその言葉に、「ああ……」、デインの口からため息に似た声が洩れた。

 力を持つ者には、相応の責任が伴う。

 二十年前、同じような言葉を何度となく聞いた。


 望んで勇者になったわけではなかったが、勇者と呼ばれるようになったからには責任がつきまとう。

 勇者としての責任を負って、デインは戦い続けた。その果てに身体も心もボロボロに傷ついたというのに、まだこれ以上、背負えというのか。


「勇者様は、もう十分に責任を果たされました」

 ソラが言った。デインの手に、まるで祈りを込めるように額を重ねて。

「これからは、どうか、ご自身の幸せのためだけに生きてください」


「何言ってんだ。あんたは、俺にシュナイデルって奴を倒させたいんじゃないのか? そのために、こんな山奥くんだりまできたんだろうが」

「それは、わたしの目的の一つではありますが、おまけのようなものです」

「おまけ……? 世界を救うのが、おまけだってのか?」


 ソラは屈託なく微笑んで、

「はい」

 と頷いた。


「わたしが何よりも誰よりもお救いしたいのは、勇者様ですから」

「姫様!」


 ラシャが抗議の声をあげたが、ソラは振り向くことなく大きな瞳をまっすぐデインに向けた。


「わたしは、ずっと疑問に思っていました。世界を救うのが勇者様であるのなら、勇者様をお救いするのは誰なのだろうと」

「…………」

「勇者様が幸せでないのなら。救われていないのなら。わたしはなりたいのです。勇者様を救う人に」

「勇者を、救う……?」


 ソラのその言葉に、デインは軽く混乱した。

 世界を、そこに住まう人々を救いたい一心でかつてのデインは剣を振るい続けたが、救う対象に、デイン自身は含まれてはいなかった。

 自分を救うことなんて、考えもしなかった。


「さあ、勇者様」


 ソラはデインからわずかに身を離すと、改めてデインに手を差し延べた。そして、言った。


「旅に出ましょう。今度は、あなた自身を救う旅に!」

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