第4話 千客万来
「勇者様は、わたしの初恋の人なのです」
「……は?」
「わたしは、勇者様をお慕いしています」
「待て」
デインは空色の髪の少女に片手を突きつけた。
「待て待て待て待て待て! 自分が何を言ってるのか、わかってるのか姫さん」
「もちろん、わかっています。勇者様のことを語る母は、とてもとても幸せそうな顔をしていました。そんな母を見ているうちに、わたしも勇者様への想いを募らせていったのです」
「おかしいだろうが! 話に聞いただけで会ったこともない男に、しかも親みてぇな年のおっさんに、恋心なんて抱くんじゃねぇよ!」
ソラは愛らしい顔を「む」としかめた。
「勇者様。人が人を愛することに、規範も制限もありません」
「いや、あるだろ! そもそも、おかしいんだよ! あんたが母親から聞かされたのは、世界を救った勇者の英雄譚だ。英雄譚の主人公に恋心を抱くってのは、まあわからんでもない。だがな、今、あんたの目の前にいる俺は、当時の面影なんてありゃしない。幻滅するのが普通だろうが!」
「幻滅? なぜ、わたしが勇者様に幻滅するのでしょう」
「なぜはこっちの台詞だ! あんたは若い娘で、しかもお姫様だ。まわりにゃ、若くてツラも家柄もいい男がいくらでもいるだろ!? 恋をしたけりゃ、そういう奴等を選べよ! げほっ!」
デインはむせた。大きな声を出すことに、身体がついていかない。
「姫様。この男に同意したくはありませんが、私も解せません。元勇者とはいえ、姫様が好意を抱く相手としては、この男はみすぼらしすぎます」
腹は立たなかった。まったくもってラシャの言うとおりだと思うデインだが、ソラは違った。
「わかりました。勇者様もラシャも、わたしの恋心を信じないというのであれば、考えがあります」
ソラが歩き出した。まなざしと足先は、まっすぐデインに向けられている。
「な、なんだよ、おい」
ソラはデインの目の前までやってきた。その背丈は、デインの腹までしかない。
デインが長身であるとはいえ、まるっきり大人と子供だ。
ソラはデインを見上げ、言った。
「勇者様、少し屈んでいただけますか」
「あ?」
デインはここで失敗を犯す。ソラの意図がわからないまま、言われたとおりに身を屈めてしまったのだ。
小さく、そして雪のように白い手が、剃り残したひげでざらつくデインの顔に触れた。
「お、おいっ」
汚ねぇ顔に触るんじゃねぇよ、と続けようとしたデインの口を、ソラの口が塞いだ。
(は!?)
デインの唇に、ソラの唇が押し当てられている。
アズール王国の王女に、若かりし頃のフェリナを彷彿とさせる可憐な少女に、口づけされている。
「姫様! なんということを!」
ラシャの裏返った声が響く。
デインは、驚きのあまり頭が真っ白になって、何もできなかった。
ソラの口づけを、彼女が身を離すまで、ただただ受け続けてしまった。
「信じていただけましたか? わたしの恋心」
「な……な……」
デインは自らの口を手で塞いで、全身をわななかせた。
「恋は受け身になったら負け、と母に教わりましたので」
「ぐ……」
デインは思い知る。ソラは、ただ可憐なだけの少女ではない。恐ろしく太い肝っ玉の持ち主だ。
(フェ、フェリナ姫!)
デインは、もう二十年会っていない元王女の現王妃に、心の中で非難の声をぶつけた。
(娘の教育、間違えてますよ!)
「き、貴様! そこに直れ! 成敗してくれる!」
デインの心の叫びに重なるように、ラシャの怒号が飛んだ。
大太刀がすらりと引き抜かれ、長大な刃が剣呑な輝きを放つ。
「俺が悪いのかよ!」
「悪い! 元とはいえ勇者だというのなら、身をかわすことは造作もなかったはず! そうしなかったのは、貴様に邪な気持ちがあったからだ! この淫獣め! 姫様を汚した罪、万死に値する!」
「無茶苦茶言うな! あと淫獣ってなんだよ!?」
「黙れ下郎!」
ラシャの目は、今にも本当に切りかかってきそうなほどに血走っている。
「落ち着いて、ラシャ! 勇者様は何も悪くありません」
「どいてください、姫様! 私はその男を斬らねばなりません! 姫様を……私の大切な姫様を、よくも!」
ソラがデインを庇うように立ちはだかってくれたが、ラシャの形相は怒りに歪んだまま。喉の奥から唸り声さえ漏れ出ているその様は、まるっきり獣だ。
(勘弁してくれよ……)
頭を抱えたデインは、自分がもう一つ、重大な失敗を犯していることに気づいた。
デインの正面方向。ソラとラシャにとっては後方。木々の狭間で灰色の影が動いた。
今まさにデインに斬りかかろうとしていたラシャが息を呑んで足を止め、振り返った。そして、鋭い誰何の声をあげた。
「何者だ!」
ずしゃり、と腐葉土を踏みしめて現れたのは、曇天のような濃い灰色の体毛に覆われた獣だ。
狼に似てはいるが、狼ではありえない。大きさは馬ほどもあり、全身の筋肉が異様に発達しているのが体毛越しにもはっきりとわかる。
「狼? いや、これは……」
「ガルムだよ」
デインが口にした名称に、ラシャが歯噛みする。
「魔獣か……!」
魔獣はこの世界の生き物ではない。繰り返されてきた魔王軍侵攻の度に、敵側の主戦力として連れ込まれた魔界の獣たちだ。
デインは舌打ちする。
「
なぜ、ここに魔獣が。
魔獣は人を襲う。食うためではなく殺すために。それが魔王の命令なのか、彼らの本能であるのか、デインは知らない。あるいは両方なのかもしれないが、とにかく、魔獣は一人でも多くの人間を殺すために人里に現れる。それ自体は珍しいことではない。
だが、こんな人気のない山中に。しかも、アズール王国の姫君が訪問している最中に。ただの偶然とは考えにくい。
「シュナイデルの刺客でしょう」
ソラが言った。
「その、シュナイデルって奴は魔獣を操れるのか」
「はい。具体的な方法はわかりません。しかし、シュナイデルは魔獣を使役できるようです」
「……昔もいたよ。そういう奴等がな」
魔獣を使役する人間と戦った経験が、デインにはあった。彼らはかつての魔王軍との戦いに
「姫様、お下がりください」
ラシャがソラを手で制しつつ、大柄な体躯に力を漲らせた。
ほう、とデインは感心する。
(なかなかいい闘気だ。よく練られている)
ラシャが強いということは一目でわかっていたが、思っていた以上かもしれない。
だが、
「気をつけろよ。敵は一匹じゃない」
正面に見えるガルムは一匹だが、左手方向の茂みの向こうに、もう二匹いる。気配でわかる。
「把握している。貴様は黙って見ていろ」
「ここはラシャにお任せください」
ソラがデインを見上げ、言った。その顔に不安の色はない。
(ずいぶん信頼しているようだな。なら、まあ、お手並み拝見といくか)
「いくぞ、魔獣ども!」
仕掛けたのは、ラシャのほうだった。
声を張りつつ大太刀を振りかぶり、正面のガルムに迫る。
(バカ! 敵は複数だぞ!)
デインは心の中で叫んだ。
案の定、茂みから飛び出した二匹のガルムに背後を取られてしまう。
ラシャが繰り出したのは、全身を投げ出すような超大振りの斬撃。当たれば岩をも両断しそうな破壊力をうかがわせてはいるが、そんな見え見えの攻撃が当たるはずもない。
魔獣はただの獣よりも頭がいい。ガルムは群れでの戦闘を得意としている。
この場合、ラシャが正面の一匹に仕掛ければ背後から二匹が、茂みに隠れていた二匹に斬りかかれば正面の一匹が背後を突いてくることは明白だった。
正面のガルムは、笑むように口の端を歪めつつ、ラシャの剛刃を軽々とかわした。
どんな強力な攻撃も当たらなければ意味はない。
大太刀を振り抜いたラシャは大きく体勢を崩している。そこに、背後から二匹のガルムが金属鎧すら切り裂く爪と牙を剥いて迫る。
これは、かわせない。――かと思われた。
ラシャが顔だけを振り向かせた。その顔は笑っていた。犬歯を剥き出しにした、獰猛な獣のような笑みだ。
デインは悟る。誘っていたのは、ラシャのほうだったのだ。
「おおおおおっ!」
ラシャの喉からほとばしった咆吼が山の空気を震わせた。
身体を傾けたまま、辛うじてついた片足を軸に、赤髪の女剣士は大きく上体を撚る。
振り抜かれた大太刀が、唸りをあげて背後から迫っていた二匹の魔狼をまとめて薙ぎ払った。
一匹は首を、もう一匹は胴を断ち切られて、赤黒い血をぶちまける。
ラシャの動きは止まらない。大太刀を振り抜いた勢いのままに一回転、文字どおり、返す刀で残る一匹の頭をかち割る。
(やるねぇ)
あえて体勢を崩すことで敵を誘い、一息に三匹のガルムを仕留めてみせた。
並外れた筋力。そして、胆力がなければ成せない所業だ。
「ふん。魔獣といえどこの程度か」
ラシャは大太刀を軽く払って
その目に宿している感情は、怒り。
(なんで俺に怒るんだよ……)
デインは内心で愚痴りつつ、口許を手で覆った。
「勇者様?」
ソラが心配そうな顔でデインを見上げる。
「お加減が優れないのですか?」
「…………」
久しぶりの血の臭いに気持ち悪くなった、とは言えないデインだった。
二十年前には嫌というほどにかいだ臭いだ。
血の臭いをかがない日はなかった。毎日毎日、血を浴びた。敵だけでなく味方の血にもまみれた。
身体に染みついた血の臭いは、デインの心を苛んだ。
いつでもどこでも何をしていても、絶えず血の臭いがした。最悪だったのは食事の時だ。何を食べても血の味しかしない。吐き出したかったが、魔王軍との激戦で物資が不足する中、貴重な食糧を無駄にするわけにはいかず、無理やり呑み込んだ。
魔王を倒し、世を捨ててから数年間も、その状態は続いた。
「……あんたは、平気なのか?」
「?」
デインの問いに、ソラは小首を傾げた。
魔獣に襲われたというのに、ソラには慌てた様子も怖がっている様子もない。
護衛役であるラシャを信頼しているのだろうが、それだけではないだろう。
この娘は、こうした状況に慣れているのだ。
魔獣を前にしても怯まずにいられる程度には、死線をくぐっているのだ。
(ただ、可愛いだけのお姫様じゃないってことか)
「姫様から離れろ、下郎!」
ラシャから攻撃的な声が飛んできた。
「そいつはお姫様に言ってくれ。俺から寄っていったわけじゃないんだからな。……あと、まだ終わっちゃいねぇぞ」
つくづく、来客の多い日だった。
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