第3話 空色のソラ


 名前を呼ばれたのは何年ぶりだろうか。

 デイン。

 それはたしかに男の名だった。


「姫様。まだこの男が勇者デインだとはっきりしたわけではありません。名乗られるのは危険です」


 大柄な女が大太刀の柄に手をかけつつ言った。


「心配いりませんよ、ラシャ。彼は間違いなく、勇者デインです。わたしにはわかるのです」


 ソラと名乗った空色の髪の少女は、大柄な女――ラシャに微笑みかけ、デインに向き直った。


「俺は……」


 俺はデインじゃない。人違いだ。そう言おうとしたが、嘘をつくのは無意味なように思えた。

 どういうわけか、ソラは、このみすぼらしい中年男が、かつて勇者デインと呼ばれていた男と同一人物であることを確信している。


「私には信じられません。こんな死にかけの野良犬のような男が、勇者だなんて……」


 ラシャの言葉に、デインは特に腹が立ちもしなかった。

 今のデインに、かつての勇姿は見る影もない。

 痩せ細った身体。丸まった背中。白髪だらけの灰色の頭。古傷のせいで左目の視力が弱いというのに、最近は右目もひどくかすむ。

 死にかけ野良犬という表現は、まったくもって的確だった。


「ラシャ。勇者様への無礼は許しませんよ」

「ですが……」

「勇者様には母を救っていただきました。わたしがこうして生を受けることができたのは、勇者様のおかげなのです」


 やはり、とデインは思った。

 やはり、ソラは『彼女』の娘だったのだ。

 その女性の名はフェリナ。アズール王国のかつての第一王女であり、現・王妃だ。

 デインの記憶にあるフェリナは、空色の髪の可憐な少女だ。つまりは、ソラによく似ている。否、順番でいえば、ソラがフェリナに似ているのだ。

 だから、デインはソラがアズール王国の王女であることを疑わなかった。


「……フェリナ姫……いや、王妃様はご息災か」

 デインは言った。

 ぼそぼそとした声になってしまったが、ソラにはしっかり届いたらしく、


「はい。母は元気にしております」

 笑顔を添えた返答があった。


「そうか……それは、なによりだ」

「勇者様が会いにきてくださらないことを嘆いてはおりましたが」

「…………」


 会いになんていけるものか。デインは胸の内で返した。

 魔王との戦いの後、デインの後見人であったアズール国王ラウルは、デインにフェリナとの結婚を勧めた。

 フェリナはラウルの一人娘。フェリナとの結婚は、デインがアズール王国の国王となることを意味していた。

 デインは世界を救った勇者であり、フェリナはデインに好意を抱いていた。


(デインは女の子の気持ちに鈍感すぎるんだよ)


 サクラに何度となく言われた言葉だ。

 そんなデインにも、フェリナの好意はわかっていた。実際に、「お慕いしております」と言われたのだから、わかっているもなにもないのだが。


 フェリナはただ可憐なだけの王女ではなかった。聡明で、心の美しい女性だった。

 だが、デインはフェリナとの結婚を断った。理由あってのことだが、フェリナからすればそでにされた事実に変わりはない。

 袖にした女性にどんな顔をして会えというのか。それに、こんな、死にかけの野良犬のような風体で、一国の王妃の前に立てるはずもない。


(それにしても……)


 ソラの面差しは、母親のフェリナに本当によく似ていた。ソラのほうが小柄で、肉付きも薄く、幼くは見えるのだが、それは実際にまだ幼いからだろう。

 もう二、三年もすれば、あの頃のフェリナのような、完璧な美貌の女性になるのだろう。


 見ていると、目が合った。

 にっこり微笑まれたデインは、ばつの悪さに顔を伏せた。


「……で、アズールのお姫様が、俺に何の用だ」


「わたしが勇者様の許を訪れた理由は、二つあります」

 ソラが言う。

「一つは、世界を救っていただくためです」


 デインは顔を上げた。


「世界に危機が迫っています」

「……なんだ、そりゃ。またぞろ、魔王でも現れたってのか」


 ソラは首を横に振った。


「魔王ではありません。ですが、彼の者は、あるいは魔王に等しい存在にさえなりうるでしょう」

「…………」

「彼の者の名は、シュナイデル。我がアズール王国の将軍です」

「シュナイデル……?」


 ほのかに聞き覚えのある名前だった。

 デインは記憶を探り、それが数百年前に当時の魔王を打ち倒した勇者の名前であることを思い出した。

 数百年前の人物だ。本人であるはずもない。親が伝説の英雄にあやかって、子供に同じ名前をつけたといったところだろう。珍しいことではない。


「シュナイデルは、病に伏せた父に代わって王国の全権を掌握しつつあります。そして、大陸統一の名目を掲げ、近隣諸国に侵略戦争を仕掛けようとしているのです」

「…………」


 デインはボリボリと後頭部を掻いた。


(なるほど。なかなかに大事だな)


 ソラの父ということは、フェリナの夫であり、つまりはアズール王国の現国王ということになる。

 現国王について、デインは詳しくは知らない。これといって悪い噂も聞こえてこなかったから、暗君ではないのだろうと思っていたのだが。


「シュナイデル将軍の台頭は、ある意味でおまえのせいだ。勇者」


 ラシャから棘のある声が飛んできた。


「……俺の?」

「ラシャ!」

「言わせてください、姫様」


 ソラが諫めたが、ラシャは引き下がらなかった。


「二十年前、魔王グインベルムは倒されたが、魔王軍が完全壊滅したわけではない」


 二十年。


(あれから、二十年経ったのか……)


「生き残った魔人や魔獣による被害は、散発的にだが長く続いた。なのに、おまえは! 勇者は! 姿をくらまし、奴らを放置し続けた」


 デインに向けられるラシャの声と目には、怒りの色が濃く滲んでいた。


「ラシャ」

 ソラが、今度は声だけでなく手をもかざしてラシャを制した。

「非礼をお許しください、勇者様」


 ラシャは黙ったが、デインを睨むことをやめはしなかった。


「ラシャの言ったように、魔王軍の残党による被害は、我がアズール王国でも続きました。シュナイデルは、そうした魔王軍の残党を討伐するために雇われた傭兵の一人だったのです」


 シュナイデルはアズール王国領内を飛び回り、各地で魔王軍の残党を打ち倒したという。


「シュナイデルが民衆からどう呼ばれるようになったか教えてやる。勇者だ」

 ラシャが言った。

「今となっては、勇者といえばシュナイデルだ。おまえではない」


 デインはボリボリと首の後ろを掻いた。

 ラシャの口振りはあからさまな皮肉だったが、デインは痛くも痒くもなかった。

 魔界による侵攻は、千年の昔から繰り返されてきた。勇者とは、魔王軍との戦いにいて英雄的な活躍をした者に与えられる称号だ。

 勇者という称号に未練はない。そもそも、望んでそう呼ばれるようになったわけでもないのだ。


「シュナイデルは勇者ではありません」

 ソラが静かな口調で、しかしきっぱりと言った。

「勇者とは、不屈の闘志と無限の勇気を持ち、人々の希望となる存在。世に戦乱をたらそうとしているシュナイデルを、わたしは勇者とは認めません。勇者は世界にただ一人……デイン様だけです」


 デインはソラを見た。

 ソラの大きな瞳は、まっすぐにデインを映している。

 世辞ではなく、心からデインを勇者と認めているのだ。


「……俺には不屈の闘志も無限の勇気なんてモンもありゃしねえよ。人々の希望? 冗談じゃないね」


 デインは目を背けて言った。


「俺は、そういうのが嫌で逃げたんだよ」

「それは違います。勇者様、あなたはご自身が戦乱の原因になることを憂いて、世捨て人になったのです」


 ソラのその言葉に、デインは息を呑んだ。


「魔王を打ち倒すほどの強さ。それはまさに、世界最高の戦力です。魔王がいなくなった後の世界で、どの国がその戦力を手にするのか。世界中が勇者様の活躍を称える一方で、大陸中の権力者が勇者様の去就に注目していました」


 目を背けたまま、デインはソラの言葉を聞く。


「注目……より正確にいえば、警戒です。勇者様の後見人であった我がアズールの先王ラウルも例外ではありませんでした。先王……お祖父様が母フェリナとの結婚を持ちかけたのは、勇者様を正式にアズールの戦力として迎え入れるためです」

「…………」

「勇者様が王女の夫となり、王となれば、アズール王国は大陸一の強国となったでしょう」

「…………」

「強国によってもたらされる平和というものもありましょう。しかしそれは、力による支配と本質的には変わりません。表向きは平和であっても禍根は残る。そして、その禍根はやがて大きな戦乱の火種となったことでしょう」

「…………」

「勇者様はそれを憂い、世を捨てた。違いますか?」

「……この俺が。こんな灰かぶり頭の枯れ果てたおっさんが、あんたにはそんな立派な人間に見えるってのか?」


 ソラは微笑んで頷いた。


「はい、見えます」


 デインは「くっ」と歯噛みした。


「わからねぇ。なんだって、あんたは俺が勇者デインだって疑いもなく信じられるんだ?」

「わたしは、勇者様の活躍を、母から毎日のように聞かされて育ちました」


 ソラは胸の前で手を組み、言った。


「勇者様は、わたしの初恋の人なのです」


 初恋。

 言葉の意味としては知っているが、それが目の前の少女から自分に向けられたという事実が理解できず、デインは間抜けな声を出した。


「……は?」

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