第2話 灰かぶり


 空になった食料かごを見つめ、男は暗澹あんたんたる気持ちになった。

 山を下りて街まで買い出しに行かなければならない。


「はー……」


 思わず、ため息が出た。

 街に行き、買い物をするということは、多少なりとも人と会話しなければならないということだ。何よりも、それが億劫だった。


「あー……」


 覇気のない声を出して、男はがっくりとうなだれた。ただでさえ丸まっていた背中が、いよいよ直角に近い角度にまで曲がった。

 なぜ、人は食事をしなければ生きていけないのか。男は人を創造した神を恨んだ。

 もういっそ飢えて死んでしまえばいいのでは? とも思うが、それはそれでしんどそうで嫌だった。


 仕方なく顔を上げたその視線の先に、壁にかけられた鏡があったのは偶然だった。

 普段、見ることもなければ手入れもしていない鏡はすっかりほこりにまみれていたが、それでも自分の酷い顔を確認することはできた。

 髪もひげもぼうぼうに伸びている。

 男の髪は、若い頃には「黒曜石のよう」と評されたこともあったが、いつの間にか増えた白髪のせいで見る影もない。黒曜石どころか、灰を頭からかぶったようだ。


(そもそも、俺は幾つになったんだ?)


 自分の年を数えなくなってから久しい。

 三十五は過ぎたはずだが、もう四十にはなっただろうか。


(まあ、どうでもいいがな)


 自分の年はどうでもよかったが、この見た目はさすがに酷すぎるか、と男は剃刀かみそりで数ヶ月ぶりに髭を剃った。

 鏡と同様、手入れされていなかった剃刀はすっかり錆びて、それで無理やり剃ったものだから、顎まわりが傷だらけになってしまった。


(外出なんて、ロクなもんじゃないな……)


 久しぶりに引っ張り出した外套がいとうはカビた臭いがしたが、かまわずまとう。

 金と最低限の荷物を袋に詰めて肩に掛ける。


(まあ、こんなものか)

 と思いながら、男は部屋の隅に目をやった。

 壁に、剣が一振り立て掛けられている。

 もう何年も、使うどころか触れてすらいないそれは、この家の中で一番、埃にまみれていた。


「…………」


 男は、やはり剣には触れず家の外に出た。

 日射しは眩しく、暖かかった。


(もう、春か……)


 男は逡巡する。家の裏手を見にいくか否か。

 男の家の裏には、一本の木が植わっていた。その木は、春先のごく短い間だけ花を咲かせる。

 この陽気なら、咲いていてもおかしくない。


「…………」


 家の裏まではほんの十数歩。ものぐさな男にとっても面倒な距離ではなかったが、男の足はそちらには向かなかった。

 理由は二つ。花が咲いていても咲いていなくても、気持ちが重く沈むだろうということ。そして、もう一つは。


「そこの木の陰で隠れてる奴ら、出てこ……っ……」


 久しぶりに喋ったせいで、声が上手く出ず、男は軽く咳き込んだ。

 男の正面、林の入り口の木の陰で、人の気配が動いた。


 現れたのは、大柄な女と――空色の髪の少女。

 大柄な女も存在感を放っていたが、男の目を引いたのは少女のほうだった。

 空色――つまりは青だが、少女の髪は澄み渡る空の色をしていた。


 似ている、と男は思った。

 少女と同じ髪色をした女性を、男は一人知っていた。その女性は蒼天のような髪を腰のあたりまで伸ばしていたが、少女の髪は短くはないものの肩には届いていない。

 髪色だけでなく、少女は見目そのものも『彼女』に似ていた。


 小さな顔に大きな瞳。瞳の色も髪と同じ、空の青。形の良い小鼻に、薄紅色の唇。すべてが可憐だ。手足の細さと相俟って、妖精めいた印象がある。

 年の頃は十四、五といったところだろうか。男が知る当時の『彼女』よりは、二つ三つ若く見える。

 身なりの良さも特筆すべきだろう。少女が身につけている白を基調とした旅装束は、明らかな高級品だ。一般の旅人が着るものではない。

 

 その隣に立つ大柄の女に目を向ける。

 男も長身のほうだが、女の上背は男とほぼ変わらない。

 燃え立つような赤い髪が印象的だ。かなりの長さがあるであろうそれを頭の後ろでまとめ上げているのは、激しく動いた際に髪が邪魔にならないためだろう。

 女は帯剣していた。正確には剣ではなく刀だ。東方の剣士たちが使う、独特の反りを持つ片刃の剣。


(刀……それも、大太刀だな)


 女の刀は、通常のものよりも刀身が長く、女はそれを腰に差すのではなく杖のように持っている。

 その大太刀がただの飾りではないことは明白だった。女は相当に鍛えられた戦士だ。身に纏った空気、そして、男に向けられている眼光の鋭さが、それを物語っている。


「失礼致しました。隠れるつもりはなかったのです」


 少女が口を開いた。隣に立つ女とは対照的な、やわらかな笑みを浮かべて。


「わたしは、ソラ=ニア=アズール」

「……!」


 少女が口にした名前に、男は動揺する。


「アズール王国の第一王女です」


 そして、少女は言葉を続けた。


「勇者デイン。あなたをお迎えにあがりました」

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