2
家にそのまま帰るつもりはなかった。危ない証拠は今すぐ無くしてしまうに限る。山田は家とは逆方向の電車に乗り、東京を越えたところの適当な駅で降りた。
「えーと、あっちか」
電車から見えた景色を頼りに、見知らぬ道を進む。家の近所ではだめだ。なるべく接点の無い、地味な場所を目指す。
車の通れない幅の坂道を上りきると、こじんまりとした広場に到着した。周りが柵に覆われており、柵から下を見下ろすと、海が広がっていた。東京からあまり離れていないところに、こんな近くで海が見えるところがあるなんて。今は闇に包まれているが、夕焼けの時にまた来てみたいと思う。二度と来ないだろうが。
鞄を開け、袋ごと包丁をそっと取り出す。柄に付いた指紋は拭き取った。これから海の藻屑となってもらうので見つからない予定だが、念には念をだ。
呪いはここで断ち切り、明日から日常を取り戻す。相園と笹沼はいなくなったが、まだ西村は残っている。自分も残っている。まだ遅くない。呪いに打ち勝つのだ。
──あいつに負けてどうすんの。いつだって私たちのが上だった。
じゃり。
山田の動きが止まる。後ろから音がした。誰かが来たのか。慌てた手では包丁を仕舞えなくて、袋で覆うに留まった。ほんの少しだけ後ろへ顔を動かして、どんな人間がいるのか確認をした。
ちょうど坂を上り終えたところらしく、フードを目深に被った、全身黒づくめの女だった。女というのも体格から判断しただけなので、もしかしたら小柄な男であるかもしれない。
この辺りに住んでいる通行人だろう。近道なのかもしれない。こんな薄暗い、誰も通らないような道を選らなくてもいいものを。こちらを気にする素振りが無いうちに、一度仕切り直そう。袋をぎゅうと掴んで一歩歩き出された足は、フードの女によって止められた。
「あの、危ないですよ」
「……はい?」
一瞬、話しかけられていると理解出来なかった。山田は何をしているわけでもない、ただ、柵の近くに立っているだけだ。わざわざ初対面に話しかける酔狂な人間がいるとは。そしてやはり、女だった。
女に顔だけ向けると、彼女は山田の奥を指差して言った。
「そこ、柵低いんですよ。落ちたら一たまりもない。気を付けてください」
「……はあ」
柵の外が海なことは山田もよく知っている。だから、ここにいるのだ。注意されなくたって、落ちるような馬鹿な真似はしない。やはり少々おかしい人間らしい。さっさと退散するに限る。女がいなくなってから、またここに来ればいい。
彼女の言うことを聞いた振りをして、柵から離れてやる。しかし、女はそこから動かなかった。一度戻るにせよ、女の後ろにある坂を下らなければならない。通せんぼのつもりか。頭のおかしい部類か。とんでもない時に不幸に出会ってしまった。
無視をして隣を抜けようとすると、女が一歩山田の方に近づいた。
山田は大きく息を吐いた。女にも聞こえているはずなのに退いてはくれない。
「それも、危ないですよ」
どくん、心臓が跳ねた。
女は山田の袋を指差していた。
透明ではないから、中身が何かなど知るはずがない。それなのに、当然のような声色が山田の神経を逆撫でてくる。
「は? いい加減にして。帰るから、そこどいてよ」
「帰れますか」
「はぁ?」
成り立たない会話に、いよいよ山田の頭が沸騰した。少し脅した方がいいかもしれない。こちらが上であることを示さなければ。袋の中を見せてやろうか。あちらも怪しい言動をしたのだ。警察に駆けこむことはあるまい。しかし、女の行動の方が早かった。
女がこちらに歩き出した。数歩歩けばぶつかる距離なのに、迷わず向かってくる。何か持っている可能性もある。こちらがそうだから。問題事は増やしたくない。万が一大ごとになったら、夕方の件と紐付けられてしまうかもしれない。
「あっ」
後ろを向いた時、裏道のようなものが見えた。柵の左側奥、木に隠れて先ほどは分からなかった。どこに続いているのか想像出来ないが、女から逃げられるならそれでいい。刺激を与えないよう、早歩きでそちらに向かう。女は足を速めることなく、ただこちらに歩くばかりだった。
よかった。これなら一先ず安心だ。瞬間、今度はすぐ横から声がした。
「だから危ないって言ったのに」
「え、だッ」
反応する前に袋の中の包丁が誰かに抜かれ、それは山田の右目へと吸い込まれていった。
熱い。
何が起きたのか。
山田は結論を出そうと考える。しかし、その頭は宙に浮き、体が傾き、柵の外へと押しやられた。
「ちゃんと今までの人の殺され方研究してないでしょ。あれじゃ、模倣犯にもならない」
「あ、あ……」
柵を掴まなければ、暗い海の底に沈んでしまう。右手を伸ばす。指の感覚が無い。何故だ。届かない。その先に、黒いフードが見えた。女が見ている。山田を見ている。山田が落ちていくのを。黒に飲み込まれていくのを。
「あーあ」
感情を伴わない声がした、気がした。それを最後に、山田は孤独の冷たさに包まれた。
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