来る

1

 九月三日 七時半


 西村は疲れていた。


「今日は学校行く?」

「行かない」


 母の質問に、西村はベッドの上でタオルケットに包まり答えた。


 夏休みが終わってから一度も登校していない。学校には事情を話しておらず、体調不良ということになっている。誰かに話せば噂が広まりそうで、過去に飯塚をイジメていたことまでバレては敵わない。


 母には写真のことだけ伝えており、不安がる娘のことを思って、不登校については目を瞑ってくれている。受験を控えているため、学校には行かせたいという本音があるはずだが、優しい親で西村は安堵した。


『やめて』


「もう!」


 またあの声だ。


 この一週間程、西村は幻聴に悩まされていた。声の主は分かっている。一年振りに聞いたが間違いない。飯塚だ。


 飯塚がこの部屋にいないことは理解している。とっくの昔に死んだのだ。あの時逃げたので、最終的にどのような最期を迎えたのかは分からない。しかし、彼女は死んだのだ。


 罪悪感からではない。そもそも、西村にはイジメていた自覚すらなかった。なのに何故、自分が呪われなければならないのか。西村は怒りに似た恐怖を覚えていた。


「なんで。透ならもう死んだじゃん。誰が送ってきたのかな、趣味悪い」


 写真だって処分した。今頃警察が調べ回っているのだろう。だから、この声は気のせいなのだ。周りで物騒なことが起きたものだから、体が悲鳴を上げているだけ。


 カタカタ。


 風で窓が鳴いた。西村は大急ぎで身支度をした。部屋に籠っているから、こんな妄想に憑りつかれるのだ。そっと廊下に出て、リビングのドアを開ける。


「お母さん」


 すでにパートへ出かけたらしい。小さな声で囁いて、西村は玄関を飛び出した。「いってきます」


 さて、外に出たはいいが、どうしようか。後ろから誰かがついてくるのが分かる。下手な尾行だ。警備のためだから下手で構わないのだが、西村にはそれも苦痛だった。幻聴に加え、始終誰かに見張られているストレス。早く自由になりたかった。


 走って逃げてしまおうか。しかし、一人きりになるのは危険だ。犯人が生きているのかいないのか、どちらにせよ自分を守ってくれる人間がいないと困る。


 友人を呼び出そうと思ったところで、学校をサボったことに気が付いた。


「どうせなら、学校行った方がよかったかな」


 大勢の中に紛れ込んでいる方が安全かもしれない。明日は登校しようと西村は思った。


 透なら大学生だから、会いたいと言えば、たいてい時間を作ってくれたのに。彼はいなくなってしまった。自分は生きるけれども。


「後を追うとかダサいし」


──透のことはまあ、好きだったけど、それだけだし。いなくなったら、また新しい人を見つけるだけ。


 そうだ。どうせ暇なら、新しい彼氏になってくれそうな人を探そう。西村は出来る限り人通りの多い場所を選んで歩いた。


──なんだ。全然平気じゃん。


 人前にいれば悪夢もいなくなるのか。安心していたところに、また例の声がした。


『次は貴方』


「ひぃッ」


 耳元で言われたかと思った。


 右を見る。左を見る。通行人はいても、西村の隣には当然誰もいない。気のせいだと思っても、彼女の声はどんどん西村を蝕んでいった。


 もう誰でもいい。西村はスマートフォンをタップし、上から順に確認して、平日でも暇そうな人間に連絡を取った。予想通り相手は寝ていたらしく、今から行くことを伝えた。


 歩いていた足を止め、方向を駅に変える。耳にはワイヤレスイヤホンを差した。スマートフォンを操作して、なるべき激しい曲を流す。これでしばらく平穏な時間が流れるだろう。


 駅に着き、改札を通りホームに立つ。とうに通勤時間は過ぎているというのに、ホームにはスーツを着た大人や若者がちらほら並んでいた。私服ばかりなので、学校や休みか大学生あたりか。誰もいないよりは紛れていい。


 ぼんやり線路の向こうを眺める。まだ田舎の雰囲気が残るここは高架ではなく、線路の横には柵があり、道を行く通行人も見える。音楽が騒いで周りの雑音が聴こえないが、そろそろ電車も来る頃だ。


 ちらり、後ろを窺う。列から離れたところに一人立っている男。きっとあれが警察に違いない。


「つまんなぁい」


 呟いてから、ここが外だということを思い出した。右手を口元に当てる。イヤホンが外界から遮断してくれているので、思いがけずリラックスしていた。幻聴が想像以上のストレスを与えているらしい。


──電車、早く来ないかな。


 少し上半身を前にして、線路を覗く。遠くの方に影が見えた。


──あれ?


 視界の端に何かが見えた気がした。目線をずらし、それを探す。何だろう、見覚えがあるような。


 白い車が停まっていた。何の変哲もない、よく見かける形のそれ。道路を眺めていた時はあっただろうか。西村が首を傾げる。そのまま彼女は固まった。


──写真!


 車の窓に、写真が貼り付けられている。しかも、西村のよく知る、彼女に送られてきた例の写真だ。おかしい。あれは村木を通して警察に届けた。コピーもしていない。相園のように、面白がってネットにも上げていない。それならば、あれはなんだ。幻聴を通り越して、幻覚まで現れたとでも言うのか。西村は動揺を隠せず、あの写真を今すぐ破り捨てたくなった。


 あれを送られてから全てが変わった。相園が殺され、笹沼が殺された。次はきっと自分の番だ。山田にも送られているかもしれない。理由は分かっている。しかし、殺される理由にはならないと思っていた。


 もしも、またあの写真を手にしたら、今度こそ殺される。早く処分しなくてはいけない。改札を出て、貼り付けられた写真を取りに行こうか。しかし、あれに触れることすら今は怖い。見失うのも嫌で、結局西村はそれを凝視し続けた。


「あ」


 風が吹いた。


 ぺらぺらの写真はあっという間に飛んでいってしまった。


 見失いたくないのに。


 西村は無意識に右手を伸ばし、届くはずなのない写真を宙で捕まえようとした。


 キィィィィィィッッッ!


 急に、耳を劈く機械音が西村を襲った。イヤホンをしていても五月蠅く感じる程だ。


 途端、西村の耳に、次々と雑音が紛れ込んできた。


 おかしい。自分はイヤホンをしていて、ずっと快適な空気を吸えていたのに。


 そういえば、いつの間にか軽快な音楽が消えていた。目の前も暗い。西村には何が起きたのかさっぱり分からなかった。


「女の子が電車とぶつかったぞ!」

「うわ……ッダメだろ、これじゃ……」

「ねぇ、あの子の手、無くない……?」


 がやがやと流れ込む音が西村を苛々させた。もういっそ眠りたくて目を瞑る。

 ふいに、音が止んだ。


──あれ、静かになった。


「至急応援願います! 西村さんが電車と接触しました!」


 警察官が慌てて近寄り、動かない西村に呼びかけた。


「西村さん! すぐ救急車が来る! それまで頑張るんだ!」

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