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 八月二十七日 午前十時


 西村彩香は逃げていた。追われているわけではないが、きっと間もなく追われることになるはずだ。まだ間に合うかもしれない。その一縷の望みにかけて走っていた。解決策は思い付かない。警察に行ったところで笑われるか、もしくはまるで関係者の如く高圧的にあること無いことを聞かれて絞られたボロ雑巾になるのがオチだろう。恥を掻くだけ掻かされてぽいと捨てられる。そんなことは望んでいなかった。自分は生きていたい。生きて、明日を迎えたかった。


「透……!」


 今頼れるのは一人だけ。西村の事情を知っている笹沼だった。


 彼とは数日連絡が取れていないが、バイトをサボることはあったし、きっと今も自宅にいるはず。笹沼の家は彼女には知られていないから、そこでしばらく匿ってもらおう。


「なんで今更……あいつは、あいつは」


 理由などどうでもいい、考えたくもなかった。走り続けて十分、普段であれば自転車で十分の距離を同じ時間で辿り着いてしまった。しかし、こうまでしてやってきたのに、笹沼のアパートに入ることは叶わなかった。張られた黄色いテープぎりぎりまで体を進めて中の様子を探る。中の住人の誰かが事件にでも巻き込まれたか。こんな非常時に運の悪い。西村は横にいた黒髪の男に話しかけた。


「あの、ここって何か事件遭ったんですか? 私、友だちの家がここで中に入りたいんですけど」

「もしかして君……笹沼君の」


 そこまで言いかけて、声をかけられた男、村木は西村の手を取った。「外では話しづらいから、近くの喫茶店まで一緒に来てもらってもいいかな?」


 小さく頷くのを確認して手を離し、村木と岡崎が挟む形で喫茶店まで歩く。個人がやっている店の中は静かな音楽が流れるだけで、二組いる客も席が遠く声は聞こえてこない。窓際にある四人テーブルに腰を掛け、メニュー表を西村の前に差し出した。指差しだけで示されたメニューを確認して店員に呼びかける。テーブルに三人分の飲み物が置かれるまで、西村は顔を上げなかった。


「どうぞ、他にも食べたいのあったら好きなの頼んでいいから。支払いは気にしないで」

「……いただきます」


 やっとカップに口を付けたが、どうにも居心地悪そうに視線を彷徨わせている。彼女側から話しかけたというのに、一刻も早くここから去りたいといった雰囲気だ。


「さて」村木は息を吐いて西村の顔を覗き込んだ。


「君は笹沼君のお友だち、でいいのかな」


「はい、バイト仲間で西村っていいます。あなたたちはその、透……笹沼君の知り合いですか? ちょっと年齢が違うみたい」


「いや、知り合いではないよ。ただ事情を知っているだけで」


「事情?」西村の顔が強張った。


 先ほどの様子から、西村は笹沼の現状を知らないわけで、見ず知らずの他人から教えていいものか戸惑われる。しかし、ここで知らずに別れたとしても、早ければ今日中にはテレビかインターネット、もしくは友人たちから情報は入ってくるだろう。早いか遅いかの違いであれば、今この場で言った方が西村の考える時間が出来ていいと思えた。


「さっき警察が着ていたことだけどね。驚くなと言う方が無理だけど、笹沼君、殺されたんだ」


「そんな」


 口もとは可哀想なくらい震え、一言漏らすのがやっとの西村を見て村木は首を傾げた。親しい友人が突然殺されたのだ、哀しみに触れることは容易いだろう。しかし、今の西村は意外な事実より殺された事実に怯えているようだった。気になる態度であるが、理由を問える程近しい存在でもない。この後どう対応しようか悩んでいると、西村の方から動きを示してきた。小さなショルダーバッグから封筒が取り出され、テーブルの上に差し出される。村木は黙って封の切られている封筒の中身を開けた。


「……なッ!」

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