お隣からの申し出

※1 相見積あいみつもり 数社から見積を取る事。


***


【大学1年2月~】


 2月初旬に、司法試験の願書を提出した。試験は5月に行われる。今度が本番だ。


 正月にエリさんと顔合わせをしてから、数回、母が泊まりがけでウチに来た。


「あなたのマンションに泊まりがけで行ってもいい?」


 1月初旬、母に電話でそう聞かれた。


「来客用布団もあるし、いつでも来ていいよ。東京に何か用事?」


「母親が息子の元気な顔を見に行くのに理由はいらないでしょ?」


 今まで顔を見に来た事もないのに?


「本当言うと、それは口実でね、エリさんの事なの。小さな子がいると自由に出かけられないでしょ。たまには友達と夜に食事に行ったり、飲みに行ったりして息抜きしないとつぶれちゃうからね」


 なるほど。そういう事は考えていなかった。俺も何かあったら、いつでもマリちゃんを預かるとエリさんには言ってあるが、さすがに雇用主にお願いするのは気が引けるか。


「私もマリちゃんに会うのは、孫が出来たみたいでうれしいのよ」


 イギリス留学の時に分かったが、母は、かわいい女の子が好きらしい。家のリビングには東欧女児の写真が飾ってある。今でも、たまに日本のお菓子を送っているそうだ。向こうから「日本のお母さんへ」と、お礼の手紙が届いた時には、ものすごく喜んでいた。


 エリさんが友人と食事に出かけた時、マリちゃんが大泣きしたそうだ。でも、2人の子供を育てた経験のある母がなんとかあやしたと言っていた。確かに俺じゃ無理だな。


 今まで保育所や一時保育の時に、マリちゃんが泣く事はなかったそうだが、夜は母親がいないと不安になるらしい。


***


 1月下旬からスタートした大学の後期の試験は、2月初旬で終了し春休みに入った。試験結果は言うまでもない。


 夏休みにはいろいろあったが、司法試験が5月にあるので、春休みは、大人しく試験勉強に時間を使う予定だ。自宅にいると、エリさんが家事をやりにくいだろうと思ったので、日中は、ワンルーム行って勉強している。


 とても冷え込んだある日、マンションの隣の旦那さんがウチに訪ねてきた。旦那さんとは、廊下ろうかで何度か顔を合わせて挨拶あいさつした事もある。50代くらいの方だ。


 用件は隣の部屋を買いませんか、という事だった。事情はわからないが3月末に引越しするらしい。うちと同じ3LDKだ。


 以前、父から聞いた事があるが、住宅地だと、家を売る前に両隣に声を掛けるそうだ。隣の人が買うケースが実際によくあり、不動産屋に売るより、高く買ってくれるというメリットがある。勿論もちろん、礼儀として一応、声を掛けるという意味もある。後で、家を売る事を何で言ってくれなかった。それならウチが買ったのにと文句を言われる事もあるとか。


 マンションでもそういう事があるんだ、と俺はちょっと驚いた。


「父に相談してみます」と、即答はけた。


 隣の部屋を買い取るメリットは、部屋壁を貫通して通路を作り、実質上、2戸を1戸にする事だ。玄関や水回りが2つになるので、入口は別だが、中でつながっている不完全な2世帯住宅のような感じにできる。


 作者不明のネット小説で、奥さんが義母と旦那さんにだまされて、完全分離の2世帯住宅だと思って引っ越したら、実は中がつながっていたという話があるが、まるでそれだ。


 ただ、一世帯ひとせたいだけで住むなら6L2DKとなり、子供が多くても大丈夫だ。贅沢ぜいたくだが、ゲストルームとしても使える。


 俺は懇意こんいにしている不動産屋さんに電話で聞いてみた。


「実は、マンションの隣の人が引っ越すそうで、買ってほしいと言っているんです。これってニコイチに出来るものですか」


「ああ、壁をぶち抜いて2つを1つにするってやつですね。物理的には可能ですが現実問題、難しいですね。まず、建築士の先生に頼んで、壁をぶち抜いても強度に問題がないか、構造計算をしてもらう必要があります。これ、結構、費用がかかるんですよ。それでOKという事になっても、壁は共有部分として見做みなされる事がほとんどですから、管理組合に話を通して、マンション全部の所有者に事情を説明して、3/4の合意をとる必要があります。これはやってみないと分からないんですよね」


 なるほどね。建物の区分所有に関する法律、通称、区分所有法のからみか。


「ベランダが隣と横並びの所がありますよね。緊急時には、簡単に割れる板で仕切ってありますが、あれを取り外す事なら、管理組合に言えば、許可は出ると思うんです。避難する時には、むしろ、仕切りがない方がいいですからね。それで、隣同士の出入りはベランダを使うという方法もあります」


「残念ながらベランダは、くっついてないですね」


「あー、それだったら、完全分離の2世帯住宅のように考えて、割り切って使う以外はおすすめ出来ませんね」


 よくよく考えてみれば、妹が進学で上京するかさえ、分からないのだから、今は必要ないものだ。もし、2戸を1戸に出来るなら、俺が結婚した後の事も考えて、価格が安ければ、買ってもいいと思う。この近所の環境を俺は気に入っている。


 ただ、子供部屋も含めた広い自宅が必要なら、一戸建てや建築前の分譲マンションの設計を見直してもらった方が早い。また、大金が必要だが、マンションを棟(建物)ごと買って、俺がオーナーなら所有者は俺だけだから、壁に穴をあけようが何をしようが俺の勝手だ。


「いろいろ、教えていただいてありがとうございます。今回は断る事にします」


「もし、大きな家が必要でしたらお声掛けください。いい物件があるんですよ」


「ははは」


「それで、○○おれさん、もしよろしければ、お隣さんを紹介してもらえませんか。あそこは、ちょっと古いけど、いい場所ですからうちも買い取りに手を上げたいんですよ。向こうも相見積あいみつもり(※1)を取ると思うので、業者は何件かあっても問題ないでしょ」


「それでしたら、購入をお断りする際に、お隣さんに聞いてみますね」


「ダメダメ。ダメですよ。聞いてみるじゃなくて、○○おれさんが行かれる時に私も一緒に連れて行って下さい。紹介さえしてくれれば、後はこっちでやりますから」


 商売熱心な事でなによりだ。俺も小さな恩を売れる。


「わかりました。じゃあ、明日の夜はどうですか。夜にお隣さんの電気がついていなければ、延期の電話をします」


「いやぁー、助かります」


***


 2月14日に、エリさんとマリちゃんから、チョコレートをいただいた。母と妹以外の女性からもらったのは初めてなので、素直にうれしい。もうすぐ21歳だし、彼女いない歴=年齢だから、ちょっとは考えた方がいいのかと、ふと思った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る