☆若さゆえ

※ この話はカクヨム用に新たに執筆しっぴつしたものです。


※1 教唆きょうさ 犯罪行為を他者に具体的に指示してさせること


※2 文一ぶんいち 文科一類 T大の前期課程の科類の1つ。3年時に法学部に進む学生が多い


※3 法曹ほうそう 裁判官、検察官、弁護士


***


 朝起きたら、予想通り頬がれていた。鏡を見たら結構目立つ。それでも今日は休めない大学の講義が朝一あさいちにあるので行かなくてはならない。


 マナーモードにしていたから気がつかなかったが、サブスマホの方に奥さんから何件か着信履歴があった。まずは、父弁護士先生と相談しなければならないので、今は折り返さない事にした。


 大学へ行く準備をしていると、興信所の所長から電話があった。


「おはようございます。怪我けがの具合は、どうですか」


「朝になったられていました。でも、大丈夫です」


「それは何より。それで昨夜の件ですが、相手の旦那さんにどう対処されるにしても、間に弁護士先生をはさんだ方がいいと思います。確か○○先生(父弁護士)をご存じでしたよね?」


 この興信所は、父弁護士先生から紹介された2社のうちの1つだ。


「はい、そうです。今回の件もお願いしようと思っています」


「それでしたら話が早いですね。私もあの先生には世話になっているので、事情説明もありますし、一緒に行きましょう。○○さん、今日のご予定は?」


「今日は、歯医者に行く予定です」


「ああ、治療ですね。診断書も貰ってきてください。それじゃあ、私の方で夕方を目途めどに先生のご都合を聞いておきます。後で、時間をメールします」


「ありがとうございます」


「いえいえ、これも仕事のうちですから。もちろん、別料金ですよ」


 いい人なんだが一言多いんだよな。というか、料金の事しか言わない。


***


 大学の講義に行くと、周囲からじろじろ見られた。やはり、顔のれは目立つようだ。俺は後ろの方の席に座った。


 朝一の講義が終わってから、歯医者に電話をかけた。俺は、大学に入学してから一度も歯医者に行った事がないので、かかりつけの歯科医院がない。自宅の近所の歯医者に電話をかけたが、予約制で1週間後でないとダメらしい。2軒目にかけたが、ここも予約制でダメ。電話に出た女性が優しそうな感じだったので、弱弱しい声で頼んでみた。


「殴られて、奥歯が大変な事になっているんです。痛くて痛くて。なんとかなりませんか」


「それは大変ですね。ちょっと先生に聞いてみます。しばらくお待ち下さい」


 電話が保留となり、少し待つと、午後3時なら大丈夫との事で予約が取れた。


***


 予定時間に歯科医科へ行き、先生にて貰った。


「この親不知おやしらずは、抜きましょう。まだ、周囲が腫れているし、緊急性はないから、予約を取ってまた来てください」


「診断書をお願いしたいんですが」


「ああ、警察に出す奴かな。少し時間がかかるけど、受付で待っていて。全治一カ月で書いておくよ。もし、裁判になるなら別に1枚必要かもしれないから、その時はまた来て」


「こういう傷害がらみでの受診はよくある事なんですか」


「うーん、うちでも年に何件かあるね」


 受付で待って、次の予約と診断書を受け取った。診断書の料金は1万円だった。ボラれた? 交通事故と同じで傷害事件の場合も原則として健康保険が使えないので、治療費は全額自己負担だったが、診断書の料金は、元々、保険の対象外。病院によって値段は違う。


***


 所長からのメールで午後5時に父弁護士先生と約束が取れたそうだ。たぶん、時間外だと思うので、少し早めに弁護士事務所へ行った。


 事務員さんに案内されて部屋に入ると、既に興信所の所長が待っていた。


「いやぁ、見事にれているね」と所長に笑われた。


「笑い事じゃなくて、結構、痛いんですよ」


「お大事に。それで大まかな事は電話で先生には話してあるから。でも、先生、だよ」


 所長は、人差し指だけを立てた両手を頭の上に持って行き、鬼のポーズを取った。怒っているということか。


 しばらく待つと、先生が入って来た。いつもと違って笑顔がない。


「所長さん、○○おれ君、お待たせしたね」


 俺と所長は、立ち上がって挨拶おれした。先生は俺のほおをじっと見た。


「まぁ、大まかな話は所長さんから聞いているけど、財布を拾ったら、持ち主の人妻から食事に誘われて、帰りに旦那だんなさんが出てきて殴られたと」


「はい」


「ちなみにその女性は、旦那さんがいる人だとわかっていたの?」


「デパートでお子さんを見かけましたし、電話でも旦那さんの事を話してました」


「なるほど。まぁ、○○おれ君も若いから、女性に食事に誘われたら、ホイホイ行っちゃうのは仕方ないよね。でも○○おれ君、そろそろ彼女さんでも作ったら? 所長さん、あんた確か大学生の娘さんがいたよね。合コンでもセッティングしてやってもらえないかな」


「別料金でしたら」


「ははは、あんた、いつもそうだね。まぁ、合コンは置いといて、食事に行くときに美人局つつもたせを疑って、保険をかけて所長さんの所に依頼したのは、よかったと思うよ。勿論もちろん、一番いいのは行かない事だったけどね」


「はい」


「でも、それだけじゃないよな?」


 俺は、一瞬、どの事かと考えたが、犯罪行為があった場合の事かと思った。


「えーと、犯罪行為があったら捕まえるという事ですかね」


「それもあるけど、所長さんから聞いたよ。なんでも殴られてもサインを出すまで助けるなと言っていたそうだね」


「はい。そうです」


「ちょっと法律をかじった、ただの学生がいい気になってんじゃねぇ。今回はなぐられただけだったが、相手が刃物を持っていて刺されたらどうするつもりだ。死んでいたかもしれないんだぞ」


 急に声のトーンが変わって、俺は怒鳴どなられた。


「しかも、所長さんの所を使って、相手が犯罪者だったら捕まえようだって? どっかのヒーロー気取りか? 警察だっておとり捜査は違法なんだ。素人がそんな事したら、場合によっちゃ共犯、教唆(※1)と間違えられて送検されるケースもあるんだ。わかってんのか?」


 そういう事を俺は全く考えていなかった。


「それから、お前が鼻の下を伸ばして余計な事をしなければ、向こうの家庭も問題なかったんだぞ」


 それについては、本当に申し訳なく思う。


「なぁ所長さん、あんたもあんただ。○○おれ君はまだ大学生なんだ。あんたも仕事のためとはいえ、学生さんからそんな依頼を受けちゃいかんだろ」


「え? 大学生? ○○おれさんが? てっきり社会人かと」


「なんだ、言ってなかったのか」


「所長さん、黙っててすいません」


「いえ。料金さえいただければ」


「・・・」


○○おれ君に不動産購入前の住民調査のためと言われて、興信所を紹介した私にも責任があるかもしれないな」


「いえ、住民調査はちゃんと依頼しましたよ。ねぇ。所長さん」


「ええ、以前、受けています」


「まぁ、それはいいや。今後は事前に相談してほしい。そのための顧問弁護士なんだから」


「はい」


○○おれ君はさぁ、T大に入るために、高校時代は寝る間もしんで、ものすごく勉強したんだと思う。大学には入って、親戚しんせき遺産いさんでお金もあるから、そりゃ、今までの鬱憤うっぷんを晴らすように、いろいろ、やりたい事をやったり、ハメを外したいのもわかるよ。それも若さの特権だから」


 先生には、俺が金を持っている理由を親戚の遺産と言ってある。


「女性関係で問題を起こしたとか、○○おれ君がって暴れたとかなら、なんとでもするけど、危ない事はダメだよ。絶対ダメ。死んじゃ元も子もない。田舎のご両親も悲しむよ」


「はい。すいませんでした」


「俺に謝ってもらっても仕方ないんだけど、少しは反省しなよ。それで、今後の事なんだけど、○○おれ君はウチに依頼するって事でいいんだよね」


「はい、お願いします」


「君を殴った旦那さんはどうする? 被害届を出すの?」


「反省しているようなら、示談じだんにしたいと思います」


「うん、その方がいいね。いくら殴られたからといって、こっちが強気に出て、相手に逆恨さかうらみされると困るからね。相手にも生活がある事だし」


 確かにそうだと思う。


○○おれ君、君も文一ぶんいち(※2)だから言っておく。法律は、誰かを守るための防具のように思うかもしれないけど、使いようによっては、武器にもなるんだ。相手を社会的に抹殺まっさつする事だって出来る。弁護士バッジの真ん中にはかりがあるけど、俺達、弁護士はね、この秤で相手を殴るんだ。それも台座の方でガツンガツンと。素人は一溜ひとたまりもない。将来、法曹ほうそう(※3)になるなら、この事は覚えていてほしい」


「・・・はい」


 弁護士バッジのはかりは、公正と平等のシンボルだが、確かに民事だと依頼人のために徹底的にやる事がある。


「じゃあ、その方向で相手や警察と話を進めるよ。ただ、旦那さんに前科があったり、前科がなくても、度々たびたび、警察のご厄介やっかいになってるようだと、逆に警察から被害届を出すように婉曲えんきょくすすめられる事もあるから。それは理解しておいて」


「わかりました。それで、相手の奥さんから電話やメールがあるのですが、どうしたらいいですか。あ、電話には出てないですよ」


「おーい、所長さん。○○おれ君はまだ、人妻に興味があるらしいぞ。どうする?」


「早速、合コンをセッティングしましょう。いやぁ、○○さん、T大学の現役で、遺産をもらっているなんて知りませんでした。合コンなどと言わず、ウチの娘なんてどうですかね。追加料金はいりませんから」


 それって、娘さんと結婚したら追加料金が発生するんだよね?


「ははは、まぁ、冗談はともかく、○○おれ君、放置でいいよ。今は接触しない方がいい」


「わかりました」


 その後、所長は先に帰り、俺は父弁護士先生と事務的な打ち合わせをした。


 夜に素人のおとり捜査について調べてみたら、違法な物を扱う売人を、素人が客をよそおい捕まえて警察に通報したら、後で警察から事情聴取を受けて、書類送検されたという事件がネットに書いてあった。結局、不起訴ふきそになったようだが。


 たぶん、これは素人が余計な事をするなという、警告の意味での送検なのかもしれないと俺は思った。


***


 1週間後に先生から連絡があった。旦那さんには前科はなく、弁護士事務所で先生と話をしたが、十分に反省しており、こちらの要求をすべて飲むとまで言ったそうだ。


「それで、先方せんぽうは、○○おれ君に、どうしても謝りたいと言っているんだ。どうする?」


「先生はどう思われます?」


「向こうは白旗しろはた状態だし、俺もクンロク入れたから、再度、暴力を振るう事はないと思うよ。遺恨いこんを残さないためにも、謝罪くらいは受けてもいいと思う。○○おれ君、次第しだいだけどね」


「わかりました。それじゃあ、謝罪は受けます。後、治療費は仕方ないにしても慰謝いしゃ料は貰わない方向で調整できますか?」


○○おれ君もお人よしだな。まぁ、わかったよ。その方向で進める」


「それと、正式な示談書は、息子さんに言って公正証書にしてもらえますか。費用は全額、私も持ちで」


「あいつにも気を遣ってもらい、なんか申し訳ないね」


 息子司法書士先生は、独立して日が浅く、仕事がないとよくなげいている。


***


 弁護士事務所で謝罪の場を設ける事になった。万が一、旦那さんが暴れる事も想定して、息子司法書士先生にも来てもらった。


 旦那さんは、奥さんも同伴で弁護士事務所に来た。あの時は、よく覚えてなかったが、旦那さんは俺と同じ「いかつい顔の民族」で、ガタイもいいから、その手の人に見えなくもない。


 まずは、殴った事をご夫婦で謝罪された。


「行き違いもあったようですし、こちらも勘違いさせるような事をしたのですから、大事にせず、遺恨いこんのないように示談じだんで済ませましょう」


 旦那さんは俺への加害者だが、奥さんは道義的な問題はあるが、違法行為はしていない。示談の当事者でもないのに謝りに来たので、俺としても目を合わせにくい。


 今回は、旦那さんには、まず念書を書いてもらった。俺に後遺症の恐れがなくなり、治療費がすべて確定した段階で公正証書締結のための覚書を交わし、最終的に示談内容を公正証書にする。


 万が一、俺に後遺症こういしょうが出たら困るので、今回は示談しない。示談書を交わしてしまうと、後で後遺症が出ても請求できなくなるからだ。


 普通なら、示談書をわざわざ公正証書にする必要はない。息子司法書士先生を助けるという理由もあるが、示談内容で、慰謝料として金100万円を2年後に全額支払うという内容にしたため、えて公正証書とした。万が一、後遺症が出た場合の保険と言う理由だ。何もなければ、俺も払ってもらうつもりはない。脳に後遺症が出れば100万円では済まないが。


 俺でも、そんな契約は絶対に結ばないが、今回、旦那さんは弁護士をつけていないし、白旗状態なのでこちらの言い分がすべて通った。


 公正証書は、裁判の判決と同じ効果があるので、支払いがされない場合、裁判を飛ばして、裁判所に債権差押さいけんさしおさえ命令の申し立てが出来る。相手に不動産があれば、競売けいばいとなる場合もある。


 ただ、俺が何もしなければ、ただの紙切れと変わりはない。


 事務手続きが終わってから、帰るときに、旦那さんは何度も謝ってくれたし、奥さんは、被害届を出さなかった事のお礼を言ってくれた。


 弁護士事務所から出て、歩いていると、旦那さんが追いかけて来た。また、殴られるかと身構えたが、彼は名刺を渡し忘れたそうだ。


○○おれさん、実は、私、こういう稼業かぎょうをしておりまして、よろしければ、ぜひ一度、電話してください。今回のお礼も含めてサービスさせてもらいます」


 俺が警察に被害届を出さなかった事を、旦那さんが喜んでいた理由が分かったような気がした。



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