法の穴

※1 遠縁とおえん 血縁けつえんが遠い親戚しんせき


※2 源泉徴収げんせんちょうしゅう 給料から税金分を差し引く


 現在の日本の法律では、個人雇用の家政婦さんは、事実上、労働者ではないというような扱いです。普通の人の半分以下しか法で守られていません。


 家政婦好きの作者としては、いつか法改正される事を望んでいます。(会社から派遣されている家政婦さんは別です)


 メイドさんが登場する物語がちまたでは多いようですが、現実でも労働環境はよくありません。


***


俺     主人公

エリさん  家政婦さん(予定)

マリちゃん エリさんの娘 1歳半


***


【大学1年10月初旬】


 長い夏休みも終わり、大学の後期がスタートした。


 エリさんとの雇用契約について、息子司法書士先生に雇用契約書、鍵の預かりに関する契約、機密保持契約のひな型をワープロソフトで作ってもらった。無論、別料金だ。


 司法書士さんとのやり取りはメール。代金もネット銀行から振り込みだ。夏休み中に顧問契約をしたので、平日に事務所に行かなくても仕事の依頼を出来るのが一番助かる。


「雇用契約書に鍵の預かり契約と機密保持契約もまとめて入れたら?」


 先生にそう指摘されたが、今後、別件で使う可能性も考慮して分割してもらった。今回、エリさんとの契約に契約書類を準備したのは、おれの勉強のためでもある。簡単なものなら俺もひな型を見れば書けるが、プロの文書がどういうものか見たかった。


 一般に個人で家政婦個人を雇用する場合、わざわざ契約書まで用意している家庭は少ないのではないかと思う。名家や資産家ならば別だが。俺の場合は契約をキッチリしておいた方がエリさんも安心だろうという思いもあった。


「身元保証人は?」とも聞かれたが、遠縁とおえん(※1)だからいらないという事にした。


 以前、マンション購入時に住民調査をお願いした事のある、女性調査員の多い興信所に、電話でエリさんの身辺調査をお願いした。


「何度か取引があるから、先払いなら、わざわざ事務所に来なくてもいいよ」と言われたので助かった。


 エリさんの履歴書りれきしょのコピーを郵送して調査費は振り込んだ。1週間後に調査報告書が届いた。エリさんの身辺に問題はなかった。


***


 週末の土曜日、約束通りエリさんと大型家電量販店へ行った。この時に初めてエリさんの娘さん、マリちゃんに会った。本名は「マリ○」の3文字だそうだが、エリさんがマリちゃん、マリちゃんと呼んでいたので俺もそれにならった。


 小さな子供の事はよくわからないけど、1歳半だと歩けるらしい。


「俺おじ・・・、俺おにいちゃんだよー」とエリさんが紹介してくれたが、1歳半で言葉って分かるのかな?


 マリちゃんは、人見知りをしない子で、俺が抱っこしても嫌がらなかった。時々、「ニコっ」と笑うのを見て、女の子はかわいいなぁと思った。(決して変な意味ではない)


 エリさんは、俺の予算を聞いてきた。


「一応、現金で200万持って来たけど・・・」と言うと


「ほほう」と、エリさんはニヤっと笑った。


 最初に、冷蔵庫コーナーへ行き、俺が独身用の冷蔵庫を見ていたらダメ出しされた。


「3LDKで、こんな小さな冷蔵庫はありえない」


「いや、自炊じすいしないし、こんな大きいのいらないでしょ」


「将来、彼女が出来たら、いるかもしれないでしょ」


 俺には、その将来が全く見えないのだが。エリさんに反論すると時間がかかる気がしたので、ここで俺はあきめる事にした。


「わかりました。コーディネイトをお願いしたのでエリさんにお任せします」


「よしっ」とエリさんは喜んでいた。


 大きな冷蔵庫。温水式乾燥付洗濯機(タオルがくさくならないと力説された)、オーブレンジ(9800円の普通のレンジでよかったのに)、レンジ台、炊飯ジャー(いらんのに)などをエリさんが選択。


 途中から俺はマリちゃんとテレビ売り場でアニメを見ていた。


 テレビだけは、絶対にいらないと主張したのだが、


「リビングにテレビがないなんてありない」


「いや、そもそも客を招く予定はないから」


 などと、言い合っていたのだが、


「マリちゃんが、ぐずった時にアニメを見せると笑顔になるんだけどな」


 と、説得の方向性を変えてきたので、これには俺も陥落かんらくしてしまった。


 大型テレビ、テレビ台、ディスクプレイヤーが追加された。


 エリさんが選んでいる間、マリちゃんを連れてソフト売り場へ行き、アニメや子供向けの知育ビデオをいくつか買った。これは持ち帰る。


 家政婦用2LDKに必要な家電があれば、一緒に買うとエリさんに言ったが、今のアパートにある家電を使うからと固辞こじされた。


 最後に、エリさんを連れてパソコン売り場へ。


「通販で買い物をしてもらったりすると思うから、エリさん(家政婦さん)専用のノートパソコンを買う」と言ったら、今まで以上に真剣に選んでいた。高いのを選ぶのかなと思っていたら、自分のものは価格を抑えたものにしていた。色は赤だった。


 一通り選び終わると、エリさんは、年配のえらそうな店員に声をかけ、メモを見せながら「これだけ買うから」と値引き交渉をしていた。そういう買い方もあるのかと俺はだまって見ていた。


 エリさんがポイントカードがどうこう言っていて、その場で作らされた。ちなみに、総額でも100万は行かなかった。家電は、次の週末に配達してもらう予定だ。


 ドライヤーなどの小物家電は、持ち帰ると荷物になるので通販で買う事にした。今回、貰った買い物ポイントは通販でも使えるそうだ。


「買い物が楽しくなってしまい、一番大事な俺君の意見を聞かず、ごめんなさい」


 会計後にエリさんは、そう謝ってきた。そんな事、気にしなくていいのに。


 聞けば、結婚した時はすでに妊娠していたので、家具家電は元旦那さんが勝手に選んだそうだ。今回、選ぶのはとても楽しかったとうれしそうだった。


 結局、3時間ちょっとだったかな。その後、遅くなったけど、軽く昼食を食べて、家具の量販店へ行った。


「今日は見るだけ。買わない」と、エリさんは言った。


 え、明日も来るの?


 なんでも、このチェーン店は店舗で売っている商品と、通販で売っているものが同じなので、カーテンやマットとか、柄や大きさを売り場で見て通販で買うそうだ。写真だけだと、わからない事もあるらしい。


 俺の自宅だけではなく、2LDKの方のカーテンも選んでもらった。


 時間がかかるようなので、俺とマリちゃんはキッズコーナーで遊んでいた。時々、マリちゃんがぐずったら、エリさんを携帯で呼んだ。トレーニングパンツの交換を俺がするのははばられたからだ。


***


 エリさんの実況見分じっきょうけんぶんは、夕方までかかった。帰りがラッシュ時間になるのをけるため、3人で夕食を食べる事にした。


 俺はエリさんに雇用契約書、鍵の預かりに関する契約書、機密保持契約を渡した。それぞれ同じものが2枚ある。雇用者用、被用ひよう者用だ。内容に問題になければ、片方に署名捺印しょめいなついんして、次に会った時に渡してくれとお願いした。俺の署名捺印はんでいる。


「大事なことなので伝えておきますが、家政婦さんというのは、法的には家事使用人かじしようにんという名称になります。雇用者側、つまり、俺の方から見た場合、エリさんを雇うのは、人を雇って利益を出す「事業」のためでなく、「家事」をしてもらう個人的な雇用になります。


 ですから、俺は源泉徴収げんせんちょうしゅう(※2)したり、エリさんにマイナンバーカードの提出を求めたり、労働保険(労災保険)に加入したりする必要がありません。ここまではOKですか?」


「よくわかりません」


「まぁ、取りえず聞いてください。次にエリさんの方から見た場合ですが家事使用人(家政婦さん)は労働基準法など一部の法律の適用外となります。年金、健康保険は自分で加入する事になります。雇用保険にも加入は出来ません。そして確定申告する必要があります」


「えーと、簡単に言うと?」


「失業しても補償ほしょうがありません。仕事中に怪我けがをして働けなくなっても労災ろうさいも出ません。ただ、このあたりはエリさんが困らないように雇用契約書に盛り込んでいます。わずかですが、勤務月数に応じて退職金も出します」


「後で契約書を確認してみます」


「国民健康保険と国民年金は、今まで通りで変わりないと思います。ただ、確定申告は自分でしなくてはならないのですが、今年は12月まで賃金が100万円にもならないので、しなくていいと思います」


「そうなんですか」


「まぁ、してもしなくても税金は払わなくてもいいですね。嫌な事を思い出させるようで申し訳ありませんが、あのお仕事の時にマイナンバーカードを経営者にコピーさせたりしていますか?」


「いえ、していません」


「だったら、そっちも大丈夫ですね。ちなみに今年の1月から8月まで、何か収入はありましたか?」


「ありません」


「大人のお店には、業務委託ぎょうむいたく契約の源泉徴収義務がありません。こういうお店で働く女性への国の温情措置だと俺は思っています。ですので、税務署には、エリさんの支払調書は行っていないはずです。仮に税務署に報告されていたとしても、家政婦の賃金としても今年は非課税です。えて、来年3月に確定申告はしなくていいです」


「よく分かりませんが、そういうものだと思っておきます」


「税務署への確定申告は必要ありませんが、こちらに引っ越して来られると思いますので、来年の3月末以降に区役所の税務課へ行って、昨年の年収はゼロ・・だったと申告してください。次に国保資格係へ行けば、来年の夏以降の国民健康保険料の減免が受けられます」


「え、でもあのお店のお金と、これから俺君からもらうお給料があるから、今年の収入はゼロ・・じゃないよね」


「ええそうです。俺は今、エリさんに良くない行為をすすめています。さっきも言いましたが、家政婦の賃金支払いは、報告の義務が法的にありません。これは、のようなものです。俺はエリさんに現金でお給料を支払います。そうするとエリさんが賃金を貰ったという記録はどこにも残りません。何を言いたいかというと、来年、円で申告しても絶対にバレないということです」


「ええっ。そんな事したらダメでしょ。バレたらどうするのよ」


「エリさんが自分で言わない限りバレませんが、万が一の時は、俺とエリさんは内縁ないえん関係にあり、マンションにかこわれている。貰ったお金は生活費だと言えば、区役所も文句は言えません」


「そんなウソはすぐにバレるでしょ?」


「内縁関係が嘘だと、どうやって証明するんですか。まさか、週に何回、俺さんと関係がありますか? と、区の税務課の人はエリさんに聞けないでしょ。そんなこと聞いたら別の意味で問題ですよ」


「確かにそうだけど・・・」


「それから、大人のお店って、きちんと税金を払っていない所が多いですから、エリさんもわざわざ恥ずかしい思いをしてまで申告する必要はないでしょう。税務署もあの手の店には、基本、税務調査に入りませんからね」


「それって、怖いバックがいるから?」


「税務署相手に怖いお兄さんは出てきませんよ。調査しても帳簿はつけてないし、現金でのやり取りだから証拠がないんです。税務署にタレコミがあれば調べなければならないので別ですけどね」


「へー」


「話を戻しますが、エリさんって貯金が幾らあるか知りませんが、貯金がなければ生活保護を受けれるレベルです。でも、受けていないのですから、国民健康保険料を少し安くしてもらったり、国民年金を免除してもらうくらい、俺はいいと思うんですけどね。まぁ、最終的には、来年の3月までにエリさんが決めて下さい」


「悪い事をすすめておいて自分は逃げるのね?」エリさんは笑った。


「そりゃあ、俺も弁護士を目指しているので犯罪歴は付けたくないですよ。申告額が違ったくらいでつかまりませんけどね」


「ひどい!」


「まぁ、エリさんの考え次第しだいですよ」


 夕食後、マリちゃんが眠そうにしていたので、その日は、2万円渡してタクシーで帰ってもらった。


「マリちゃんが疲れているみたいだから」と言うとエリさんも素直にタクシー代を受け取ってくれた。


***


 翌日、家具店で、ベッド、ソファーセット、食卓テーブルなどを購入した。もう、エリさんの選択に口をはさむ事はしなかったので今日は早かった。


 家具は、家電より高くついた。エリさんが「いいものの方が長持ちする。長い目で見れば、その方が経済的。最悪、売れるし」と言ったからだ。


 配達は無料だったが、2週間後でないと無理と言われ、来週の週末には間に合わない。


「有料でもかまわないから、なんとかなりませんか」と店員に言ったところ、割高になったが、別の配送業者を手配してくれた。


 配達料を払う事に、エリさんは難しい顔をしていたがこれは俺がゆずらなかった。


 この日の買い物は、割と早く終わったので、昼食後に別れた。


 エリさんにはスマホからカーテンなどを注文してもらい、その代金は俺がコンビニから支払う事にした。支払い番号はメールで教えてもらった。


 俺は、大学在学中に司法試験を受けるようと思っている。そのために必要な資格を得るために、現在、司法試験予備試験にチャレンジしている。この試験は、短答式試験、論文式試験、口述試験の計3回あり、俺は、5月に受けた短答式試験に合格している。


 そして、7月に受けた論文式試験にも合格した。エリさんに報告しようかと思ったが、予備試験についての説明が面倒なので、言わない事にした。次の口述試験は10月下旬にある。長期間の試験だ。



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