第28話   夫婦

 ☆

 病院に警察が事情聴取にやって来て、わたしは思い出したことを話した。


 河合先輩と赤石さんは逃亡しているらしい。全国に指名手配されていると言われた。


 大地君のお兄さんもわたしの話を聞いて、大地の事を思い出せて良かったと安堵していた。みんなに心配させた。


 お母さんは、記憶を取り戻したわたしを見に来て、「良かったわ」と微笑むと、「やっと仕事に集中できるわ」と言って帰って行った。


 わたしの鞄は公園の池に捨ててあったらしい。お財布の中身は抜かれていた。キャッシュカードも銀行のカードも抜かれていたが、使われてはいなかった。免許証は鞄の内ポケットの中に入っていた。書類や水筒、お弁当箱は汚れていたので、大地君が捨てた。


 わたしが記憶を取り戻した翌日から、大地君は会社に出勤し始めた。わたしは頭の抜糸を受けるまで入院していた。


 大地君のお陰で、精神科の薬は飲まずに過ごせた。


 毎朝、弁当が届けられ、夕食も一緒に食べることができた。


 わたしだけが特別メニューで、大地君の手作りご飯を食べ続けた。


 退院の日に、大地君はお洒落な服を着て、車で迎えに来てくれた。清算は労災になるらしい。


 退院に着る服は、また大地君が選んで持って来てくれた。夏らしい水色のワンピースは、大学時代に着ていたものだ。



「花菜ちゃんって、あんまり洋服持ってないよな?俺より少ないんじゃないか?」


「どうかな?ほとんどが大学時代に着ていた物よ。洋服を買いに行く余裕なんてなかったもの」


「今度、花菜ちゃんの洋服を見立ててやるよ」



 わたしは、大地君を見て微笑んだ。



「3着1万円は嫌よ」


「もう、それ卒業したから」



 大地君が声をあげて笑う。



「スーツも1着駄目にしちゃったから、新調しないと」


「花菜ちゃん、そろそろ専業主婦になったら?営業、怖いんじゃない?」


「専業主婦はまだ早いよ。赤ちゃんができたわけでもないし、部署異動、お願いしようかな?」


「赤ちゃんができるまで働き続けるの?俺、社長だよ」


「見習いでしょ?」


「松永さんに、そろそろ椅子を譲ると言われたんだ」 


「この会社、大丈夫なの?」



 大地君が拗ねた。



「酷い、花菜ちゃん。俺だって頑張っているんだからな」


「大地君が本当に社長になれたら、考えるわ」



 大地君は、ニッと笑った。



「その言葉、忘れるな」


「でも、一人で家にいるのも寂しいわよ。大地君と出勤するのも楽しみなの」


「そうか。子供ね」



 そう言って、大地君は黙ってしまった。


 子供、嫌いなのかな?


 カーステレオのスイッチを押して、いつものラブソングを流して、ヤケクソのように歌い出した。歌は上手だから、歌っていてもいいけど、もっと話したかったな。



 ☆

 頭の開頭手術をして、麻痺が出なかったのは奇跡だと言われた。切開された場所は、髪が生えている境目で、一見見えない。


 頭を洗うと、傷は見える。タオルで拭って、櫛で梳かし傷をすぐに隠す。いつものように顔に化粧水をぬって、部屋に戻る。



「お先に。髪を乾かしてくるね」


「おう」



 大地君はご飯の支度をしている。


 今日は手巻き寿司だと言っていた。わたしが食べたがっていたから、準備をしておいたらしい。


 わたしは自分の部屋に戻り、今度は丁寧に顔に化粧水やクリームを塗ると、髪にオイルを塗り、ドライヤーで乾かす。


 久しぶりに綺麗になったような気がする。髪がサラサラになって気持ちがいい。


 ドライヤーを片付け、鏡も片付けると、わたしは大地君の手伝いに台所に行く。

 手を洗い、大地君の隣に行くと、大地君は「ご飯、うちわで冷まして」と言った。



「分かった」


「俺も風呂に行って来る」


「行ってらっしゃい」



 大地君はいったん部屋に戻ると、着替えを持ってお風呂場に向かう。


 わたしはパタパタとうちわで扇ぐ。ご飯の横には、厚焼き卵が載っている。


 綺麗な黄色で、綺麗な四角で、美味しそう。


 今日はどんな味だろう?お寿司だから甘いかな?


 卵焼きを見ながら、うちわで扇いでいると、大地君がお風呂から出てきた。



「もう少し待ってろよ」


「うん」



 厚焼き卵を大地君が持って行って包丁で切り出した。


 わたしはワクワクしながらうちわを片付ける。


 お皿に醤油を入れて、大地君のところにわさびをのせて、箸を並べると、マグカップにお茶を注ぐ。準備は完了。


 わたしがテーブルの前に座ると、卵がお刺身の横に置かれた。



「いただきます」



 二人で言って、まずわたしは卵焼きを食べた。


 甘い。



「ご飯と一緒に海苔で巻いて食べること」


「うん」



 わたしは、もう一口卵焼きを食べると、海苔で巻かれたお寿司を目の前に出された。



「これを食べてから、卵焼きだ」


「うん」



 大盛りのご飯に、いろんなお刺身が入れられて、一口じゃ食べられない。醤油を付けながら、巻き寿司を少しずつ食べる。やっと食べ終わったら、次の巻き寿司を渡された。



「卵焼き入ってないよ」


「先に生ものを食べて、卵なら後でも食べられるだろう?」


「うん」



 わたしは渡されたお寿司を、一口ずつ、一生懸命に食べた。



「花菜ちゃんは、小食なのに、この上、偏食の癖が付いたら、いつまで経っても貧血が治らないんだからな」


「貧血って、もう治ったよね?薬飲んでないよ」


「日頃の食生活なの」



 やっと持たされたお寿司を食べ終えたら、またお寿司を持たされた。



「それを食べたら、卵焼き食べてもいいから」


「これ、今までで一番大きいよ」


「俺より少ない。これくらいは食べないと、体は丈夫にならないの」


「お母さんより、厳しいよ」


「お母さんに頼まれたんだ。花菜は食べずに貯金していたから、いざ食べようとしても食べられないようになったんだって。だから、ご飯は食べさせてくださいって」


「お母さん、知っていたんだ」



 わたしは大きな巻き寿司を、一生懸命食べた。



「高校時代も大学時代もツナのおにぎりを1コ食べて過ごしていたんだろう?」


「なんで、知ってるの?」


「お母さんが言っていたんだ。食堂のメニューを食べていたら、マンションを借りるお金なんて貯まらないって。だから、あの子のことだから、おにぎり1コで済ませていたはずだって。親は見ていないようで見ているんだよ。俺も花菜ちゃん見てて、倹約の仕方が異常だと思った。俺にはプレゼントしてくれたけど、花菜ちゃん自身の物はお弁当箱と水筒しか買わなかったよね?洋服も買ってない。スーツは4年で6着。戦闘服だから必要。花菜ちゃんの余所行き着は2着だ。河村はきっと花菜ちゃんがお金を貯め込む癖を見抜いていたんだと思う。だから4年も一緒に過ごしていたんだよ。何か強請られていたんじゃない?」


「車とか?なんか外車のなんていう名前か覚えてないけど、高そうな車が欲しいって。ずっと言われていた」


「どうして買わなかったの?」


「わたしペーパードライバーなの。車の運転は怖くて。しかも外車なんてぶつけたら修理代が掛かりそうだから」



 大地君はクスクスと笑う。


 やっとお寿司を食べ終えたら、大地君が卵焼きを目の前に置いてくれた。



「好きなだけ食べていいから」

「うん」



 わたしはやっと許可の下りた卵焼きを食べ始めた。

 甘くて美味しい。



「それで、花菜ちゃんは甘い卵焼きが好物になった。きっとプリンと同じ感覚なんだろうね?」


「プリンみたいな味だよね」


「花菜ちゃんにとって、卵焼きはデザートなんだね」


「そんなことはないわ。デザートなのは甘い卵焼きだけよ」



 美味しい卵焼きを食べていると頬が緩む。


 それを見て、大地君は微笑んでいた。



「花菜ちゃんの胃袋を掴んだわけだ」


「それは認めるわ。大地君のご飯は美味しい」


「記憶を戻すほど美味しい卵焼きなんだね」


「オレンジもよ。デザートの入ったお弁当なんて初めてなんだもの。食べづらいオレンジがつるりと口の中に入るなんて、もう天才だわ」


「オレンジも切ってあげようか?」


「いいの?」


「うん、退院に祝い」



 大地君はまな板を退けると、新しいまな板を置いて、新しい包丁を取り出した。


 綺麗にくし切りにして、切れ目を入れている。お皿に載せると、オレンジが食卓に載った。


 急いで卵焼きを食べてしまうと、オレンジに手を伸ばした。皮と実がするりと離れる。絶妙な包丁さばき。



「美味しい」



 二つ目を手に取ったとき、大地君と目が合った。



「大地君も一緒に食べよう」


「今日は見ていたい気分なんだ。俺の所に帰ってきてくれてありがとう」


「後で、指輪を返してね」


「指輪は宝石箱に入ってるよ。でも、俺からもう一度贈る」


「うん」



 わたしはオレンジを大地君の口の中にも入れた。



「こんなに食べられないわ。手伝って」


「花菜ちゃんが残した分を食べるよ」


「半分に分けたいの」


「わかった」



 大地君も一緒にオレンジを食べてくれた。



「包丁とまな板買ったの?」


「うん。今、俺が使っているのは、倉庫にあった古い物なんだ。花菜ちゃんが使うには重いから、今普通に売っている物を買ってきた。消毒も簡単だしね」



 ☆

 食事を終えて、大地君は台所を片付ける。わたしは洗濯物を干しに行く。


 自分の部屋を通って縁側に行くと、洗濯物が干しっぱなしになっていた。


 わたしは、まず洗濯物を回収して、部屋に置いた。


 新しく、濡れた洗濯物を干していく。退院したばかりだから、わたしの物が多い。タオルがいつもより多い、可愛くないパンツが何着か増えた。


 下着はパンティーを履きたいな。病院の地下で売っている下着は、おばさんや年寄りが着るような下着しか売っていない。


 乾燥したら、おばさんになるまで、仕舞っておこう。


 大地君のおしゃれ着を綺麗に干して、皺を伸ばす。その横にわたしのワンピースも干した。少し色が褪せてきているけれど、まだ着られるだろう。


 洗濯物を畳んで、片付けていく。昨夜、纏めて洗ったのか、大地君の下着が多かった。居間に洗濯物を置いて、洗面所にタオルを戻す。ついでに歯磨きもしてしまう。

 さっぱりして出てくると、大地君が部屋から居間に戻って来た所だった。



「洗濯物、ありがとう」


「わたしの方がありがとうだよ」


「俺はビールを飲むけど、何か飲む?」


「サイダーある?」


「あるよ。アルコールはやっぱり3%でもきつい?」


「甘いでしょ?太るの嫌だなと思って」


「花菜ちゃんは痩せすぎだから」


「でも、洋服が着られなくなるのは嫌なの」



 わたしは冷蔵庫の中から無糖のサイダーを出して、グラスに入れた。



「それは水だからな?」


「1000cc100円以下で買えるのは、お得よね。シュワシュワ感もあるし、お酒と変わらないわ」



 大地君の横に座ってサイダーを飲む。



「あー、1週間ぶり?それ以上か?」


「大地君、禁酒していたの?」


「まず、花菜ちゃんが帰ってこなくて、酒どころじゃなかった。深夜に失踪届出して、どこかの病院に運ばれていないか調べてもらおうとした。だけど、明日の朝、出直してくださいって追い返されて、早朝に出直した。また同じ担当で、時間が早すぎると喧嘩して、それでも俺が必死なのに気付いて、調べてくれたんだ。それで朝、身元不明者搬送というのを見つけた。そこに駆けつけたら、花菜ちゃんだった。それからは、花菜ちゃんも知っての通りだよ」



 わたしはビールのプルトップを開けて大地君に持たせた。



「お世話になりました」


「本当だよ。死んでしまえば良かったなんて、二度と言うな。俺が死にそうになっただろう」


「よく覚えてないの、ずっとふわふわしていて」


「そういう物なの?」


「わたしも初めてだもの。分からないわ」



 わたしは大地君に凭れかかる。


 すぐにキスされた。



「ねえ、大地君って、どうしてわたしを抱かないの?」


「えっと、それは」



 大地君は一気にビールを飲み干した。



「どうして?」


「俺、経験がないんだよ。上手くできる自信がなくて。小心者でここぞと言うときに失敗しそうで、花菜ちゃんに嫌われてしまうかと思うと、足がすくむっていうか・・・・・・」


「失敗したって、責めたりしないよ。誰だって、初めてはあるんだし。わたしの場合、覚えていないけど」


「花菜ちゃん、今から泥酔して」


「え?」


「そうしたら失敗しても覚えてないだろう?」



 わたしは大地君の手を繋いで、部屋の電気を消して、わたしの部屋に連れて来た。


 畳んであった布団を伸ばした。



「退院祝いに抱いてくれる?」


「えええ?」



 わたしは、美しく微笑んで、まず指輪を強請った。



「今すぐ、はめるから」



 大地君は焦りながら指輪を二つ取り出すと、わたしの手を支えて、指輪をはめてくれた。



「ありがとう」


「いえいえいえ」



 わたしは電気を消すと、大地君の前に座った。手を繋いで、キスをした。



「失敗を恐れないで、わたしは大地君の妻よ」


「おおう」


「まず、キスをしてわたしに触れて、大地君の好きなようにしていいのよ」



 大地君はわたしにキスをした。それからわたしの頬を撫でた。



「好きだから」


「わたしも好きよ」



 わたしのパジャマのボタンを外すと、わたしに重なってきた。


 わたしと大地君は、初めて一線を越えることができた。

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