第27話 記憶
☆
わたしの夢は、少しずつ叶っている。
大地君が夢を叶えてくれる。
わたし達は夫婦になったが、まだ一線は越えていない。大地君が何を考えているのか、わたしには分からない。
夜は一緒の布団で抱き合って眠るけれど、キス以外はしていない。
河村先輩と4年間同棲をしてきたわたしを気持ち悪く思っているのなら、一緒の布団で眠ることはないと思うけれど、どうして抱いてくれないのかは、やはり分からない。
わたしの体は癒えている。貧血の薬はまだ飲んでいるけれど、月経も来るようになり、子宮の状態も、もう大丈夫だと医師にも言われている。
そこだけが、わたしを不安にさせている。
入籍して共に両親に挨拶も済ませたけれど、完全な夫婦にはなっていない。
わたしから抱いて欲しいと言えない。拒まれたら、きっとショックを受けると思うから。
「花菜ちゃん、今日は社長の付き合いで、夜に会食があるんだ。だから、すまないけど、どこかで食べてくるか、お弁当を買って家に戻って来てくれる?」
「うん。わかった。頑張って」
大地君は、わたしにお弁当を渡しながら、今日の予定を告げた。
「家に帰ったら、玄関の鍵はかけておくんだよ」
「うん。心配しないで」
互いにスーツに着替えて、出かける。
一緒の電車に乗り、会社まで並んで歩く。
「花菜ちゃんの今日の予定は?」
「午後から、商談があるから会社を出て行くけど、午前中は書類作り」
「暑いから、熱中症にならないようにね」
「うん」
季節は進み、もう夏になっている。
梅雨明けも済んで、照りつける夏の日射しが、肌を焼く。
8月に入り、河村先輩が立てた弁護士とお兄さんは示談の話し合いが進み、慰謝料が入金された。
わたしを手術した医師は、医師法違反と母子保健法違反の容疑で逮捕された。慰謝料も支払われ、わたしの4年間は清算された。
手元に入金されたお金は、すべて貯金をした。将来、子供が生まれたときに、使おうと思った。
お爺ちゃんは、施設に入居した。日中、面倒を看る者がいないことで、母が施設を探してきた。少し遠方で、すぐには会いに行けない。
家には大地君とわたしだけが住んでいる。
退院したら、また一緒に住めると思っていただけに、お爺ちゃんの施設の入居は少しばかりショックを受けた。
会社について、同じエレベーターに乗って、先にわたしが降りる。
視線だけで別れを告げる。
エレベーターの扉はすぐに閉まる。
わたしと大地君を引き裂く扉。大地君は空の上に住んでいるような人になる。
わたしは営業部のフロアーに入っていく。
「おはようございます」
「おはよう」
新人を除けば、わたしが一番若い班で、わたしは鞄をデスクの奥にしまうと、PCを起ち上げる。作りかけの商談の書類を作り始める。
☆
商談を終えて外に出ると雨が降っていた。
「傘持って来て、良かった」
鞄の中から折り傘を出して、わたしは傘を差して歩き始めた。
商談は取れなかった。
金額の設定が悪かったのか、アピールの仕方が悪かったのか?
新しく開拓したしたばかりの会社の担当さんと、相性が悪かったのかもしれない。
商品説明をしていても、聞いているようで聞いていないような気がした。
女性社員とは契約を結ばない会社も、まだある。
男性社員と交代してもらった方がいいかもしれない。
「蒼井さん」
背後から声をかけられ、わたしは振り向いた。
「さっきは申し訳ない。もう一度説明をしてもらえるかな?」
「はい」
わたしは、もう一度相手側の会社に戻っていく。
「お茶を飲みながら、どうかな?」
先方の担当者が、指を指した。
「喫茶店ですか?」
「そう。暑くてぼんやりしてしまったんだ」
「はい」
赤石さんは傘を差して、先に歩いて行く。
わたしは小走りで付いていった。
喫茶店を超えて、先方はホテルの入り口に立っていた。
わたしは足を止めた。
「提示された金額の1.5で契約をしてもいいよ。どう?」
「お断りします」
「2倍はどう?」
「お断りします」
わたしは頭を下げて、元来た道を戻って行く。
「以前、来た女の子は1.2倍で体を売ったけど」
「わたし結婚していますから」
「それならSEXくらい慣れているだろう?」
「お断りします」
わたしは走って逃げた。
「今後、君の会社とは契約をしないよ」
併走して走る男は、わたしを脅してきた。
「お断りします」
わたしは地下鉄の入り口に入って、傘を閉じながら走った。
「赤石さん、ついてこないで、あっ」
トンと体が撓る。階段で足を滑らせ、体が転がり落ちていく。
長い階段を転げ落ち、床に頭をぶつけて、一瞬意識が飛んだ。
「お高くとまりやがって」
河村先輩の声がして、わたしは目を開けた。
「・・・・・・河村先輩」
「なんだ意識があるのか?死ね」
わたしは頭を蹴られた。
目の前が暗くなる
「大地君、助けて・・・・・・」
☆
わたしは目を開けた。
白い天井が見える。
「お名前、分かりますか?」
なんだっけ?
思い出せない。
「声は出せますか?」
「はい」
「お名前は分かりますか?」
「分からない」
わたしは目を閉じた。
とても眠かった。
☆
わたしの名前は不明と書かれていた。
頭を手術されたらしい。体が痛いのは全身打撲だと医者が言っていた。
持ち物はボイスレコーダー一つで、鞄などはなくなっていたらしい。
指には結婚指輪があり、D to Kと書かれていたらしい。
発見者は買い物途中の女性だと言われた。
着ていた物は黒のスーツで、髪は結い上げられていたらしい。
扉がノックされて、医師と男性が部屋に入ってきた。
「花菜です」
男性が言った。
「若瀬花菜。俺の妻です」
「ボイスレコーダーがスーツの内ポケットに録音中のままで残されていました」
医師が男性に何かを渡している。
「男に脅迫されて追われているようでした。最後に花菜さんが名前を言っています。おそらく犯人かと」
男性はわたしの手を握って、涙を流している。
「花菜ちゃん、俺が分かるか?俺は大地だ。大地君って呼んでいただろう?」
「ごめんなさい。何も覚えていないの」
「階段を転げ落ちて、頭を蹴られたようです。体中に打撲による痣があります。こめかみに靴痕がありました。昨日、頭の緊急手術をしました。発見が早く処置も早くできましたので後遺症はおそらく軽いと思いますが、搬送時から記憶がありません。記憶は一時的な物かずっと思い出せないか分かりません」
「花菜ちゃん」
「これは指輪とネックレスです。大切な物だと思うのでお返しします」
医師が指輪とネックレスを男の人に渡している。
「だめ、それ、わたしのよ」
「花菜ちゃん、指輪とネックレス分かるのか?」
「返して」
わたしは痛む体で、手を伸ばした。
「はめてあげてもいいですか?」
「入院時ははめられません。緊急事態の時、切断しなくてはならなくなります」
「花菜ちゃん、今は駄目なんだって、俺が預かっておくから」
「大切な物なの。取らないで。ずっと一緒にいられるから」
持って行かないで。
大切な。
とても大切で、大切な人に買ってもらった。
「ネックレスだけでも駄目ですか?ネックレスを渡したときに、いつも一緒にいられるって言って渡したんです」
「それなら、ネックレスだけです。紛失や損失の責任は持てませんがよろしいですか?」
「はい」
男の人は、ポケットに指輪を入れると、わたしにネックレスを付けてくれた。
「花菜ちゃん、いつも一緒にいるから。俺は大地だ。花菜ちゃんはいつも大地君って呼んでいたんだよ」
「大地君?」
「そう、大地君って」
そう言うと、大地君はわたしを抱きしめて泣いていた。
わたしは大地君を抱きしめた。そうしたいと思った。
「花菜ちゃん、本当に記憶がないのかよ?」
「泣かないで」
わたしは大地君の背中を撫でた。
☆
お母さんという女の人がすぐに来た。
「花菜、お母さんの事分かる?」
「ごめんなさい」
「そう」
お母さんは寂しそうに笑った。
「寝れば治るわよ。いつも花菜は風邪でも一晩寝れば治ったものね」
「うん」
寝れば治る。きっとそうだ。
大地君が大地君に似た男の人を連れて来た。
「花菜さん、僕のことは覚えていますか?」
「ごめんなさい」
「僕は大地の兄です」
「お兄さん?」
「花菜ちゃん、待っていてくれる?」
「うん」
大地君はいっぱい泣いた後に、いっぱい電話していた。
そうしたら、お母さんという女の人が来て、大地君そっくりな男の人も来た。
「お母さん、兄と警察に行ってきます。戻るまで花菜ちゃんを看ていてもらえますか?」
「お願いします」
大地君とお兄さんは病室から出て行った。
「花菜、お母さんと一緒にいよう」
「うん」
お母さんは、バックから小さなノートを出して、ペンを動かしている。
「花菜を描いてあげるわね」
なんだか懐かしい。これがお母さん。いつも絵を描いていて。
「ほら、これが今の花菜よ」
「絵が上手だわ。髪が長いのね」
「手術の時、剃られなくて良かったわ。花菜の髪は、とても綺麗なのよ」
頭に包帯を巻いて、首にネックレスをしている。
「触ると痛いかしら?」
お母さんは、わたしの髪を梳いた。サラサラと髪が指で動く。
「懐かしい感じがする」
「そう?」
「うん」
「4年ちょっと前まで、お母さんと花菜は二人で暮らしていたのよ。花菜は小さな頃から、いい子過ぎるほどいい子で、いつも学校の成績はトップで、大学生の時なんて、ずっと奨学金がもらえて、お母さん誇らしかったわ。きっとお金の心配をして、いっぱい勉強したのよね」
「いっぱい勉強していたような気がするわ」
「そうね。高校の時の担任の先生は、どこの学校でも行けますって言っていたわ。花菜はいつもお母さんが行きなさいってっ言った学校に進学していったの。まったく反発しなくて、命令したお母さんが心配するほど従順で心配したわ。大人になって自分で考えて生きていけるのかって・・・・・・。高校の時だけお母さん、学校の選択をミスしたの。学食のある学校にすれば良かったって、3年間、お母さんは花菜のためにお弁当を作ったわ。行きなさいって言ったのは、お母さんだから」
「うん。お母さん、お仕事が忙しかったのよね?」
「そうよ。思い出したの?」
「うん。お母さんはいつも忙しかった。絵の仕事をしていたのよね?」
「そうよ。お母さんの絵本を持って来ましょうか?もっと思い出せるわ。そうだわ、花菜のフォトブック、すごく美しかった。素敵なウエディングドレスを着て、幸せそうにしていたわよ。お母さん、嬉しくて涙が出たわ」
子供の頃のいろんなビジョンが浮かんでくる。寂しくて、でも仕事で忙しいお母さんに甘えられなくて、いっぱい我慢した。褒められるためにひたすら勉強していた。朝食と同じお弁当。・・・・・・お弁当。
わたしは子供頃に戻ったように、お母さんにしがみついて、眠った。
「疲れたのね、眠れば思い出すわ」
お母さんの温かな手を、しっかり握っていた。
☆
消えそうな声で、「大地君、助けて・・・・・・」それが最後の言葉だった。
その前の声は、河村だった。
頭を蹴ったのは河村だろう。
「花菜ちゃんを追いかけていたのは、商談をしていた相手だ。赤石と言っていた。赤石は体を要求していた。花菜ちゃんは拒絶していた。雨が降っている中で、花菜ちゃんは地下鉄乗り場まで逃げようとして、階段から落ちたようだ。落ちた花菜ちゃんの元に河村が現れた」
共犯の可能性がある。
「花菜さんの商談相手の会社はどこだ?」
「赤石工務店だ」
車の中で何度もボイスレコーダーを聞き、大地は兄と話し合う。
「今回はパワハラによる傷害事件だ。河村に対しては暴行事件も含まれる。「死ね」と口にしているから、殺意があったと思われる。
身元が分からないように、鞄一切が盗まれている。財布などもあっただろう。窃盗罪も加わる」
大地は兄と話し合いながら、考える。
「警察に向かえ」
「おう」
仕事中という事で労災にもなる。
河合を処分した後だけに、仕返しの可能性もある。
社長にも話さなければならない。
すべてを話して、弁護士の兄に委ねる。
警察で、兄を交えて、ボイスレコーダーの声を聞いてもらい。事件であることを表に出した。医師の診断書ももらい提出する。
「犯人を逮捕してください」
診断書には、足跡の写真もコピーされて添付されている。
「受理いたします」
公開捜査になるらしい。逮捕状も出される。
「花菜さんの通帳を止めろ。キャッシュカードも止めろ」
兄が冷静に指示を出す。
「俺、花菜ちゃんが何を使っていたか知らない」
「キャッシュカードは明細があるだろう?あと給料振込銀行は職場で分かるだろ?」
「分かった」
「僕の方も事務所から振込銀行が分かるはずだ」
大地と兄はそれぞれ連絡して、通帳番号を調べて、通帳を止めると、自宅に戻り明細書からカード番号が分かった。事件に巻き込まれ盗まれていると届けを出すと、カードもすぐに止められた。
「花菜さんのところに戻ろう」
「兄ちゃん、俺」
「覚悟しろ」
大地は歯を食いしばって、兄の肩に額を載せた。兄の手が大地の背中を叩いた。
「守るんだろう?」
「おう」
今まで泣き出しそうだった大地の顔は、気を取り戻したように、キリッとしていた。
「花菜ちゃんの指輪、なくすといけないから、宝石箱に入れてくる」
「フォトブック持って来い」
「おう」
大地は花菜の部屋に入ると、指輪を宝石箱にしまい。フォトブックを持った。部屋を出る前に舞の回向書に花菜の無事を祈った。
スーツから花菜が買ってくれた服に着替えた。
☆
「花菜が私の事を思いだしたわ」
お母さんの声がして、わたしはぼんやりとした頭で、薄闇の中をたゆたう。
「本当ですか?」
「子供の頃の思い出でしょうね。絵を描いてあげたのよ。そこから記憶が解けていくように思いだして、疲れて眠ってしまったの」
「良かった」
ホッとしたような大地君の声がする。
「大地さんもゆっくり寄り添っていたら、きっと思い出してくるわ。今はまだいろいろ混乱しているのでしょう」
「はい。お疲れになったでしょう。何か食べてきてください」
「大地さんも警察に行って休んでいないでしょう?」
「コンビニでおにぎりを買ってきたので、ここで休みがてら食べます」
「そう?それなら食事に行って来るわね。何かあったら、連絡してちょうだい」
「はい」
お母さんが出て行った。
ビニールが擦れる音がして、いいにおいがする。
わたしは目を開けて、においの元を辿った。
大地君がおにぎりを食べていた。
わたしが目を覚ましたことに気付いて、ニッと笑った。
「いいにおいがする」
「食べたいのか?」
「うん」
「ちょっと聞いてみる」
大地君はナースコールを鳴らすと、おにぎりを食べさせてもいいですか?と聞いている。どうぞと返事が返ってきた。
「いいって」
大地君は、新しいおにぎりを幾つか出した。
「どれがいい?」
わたしはツナのおにぎりを指さした。
「ちょっと待ってろ」
パッケージを取って、口に運んでくれる。
サクッと海苔の破れる音と磯の香りがする。
ツナを選んだのに、白米の味がする。高校生の時、お弁当がないとき、食べていた味だ。
わたしが咀嚼して飲み込むと、おにぎりを近づけてくれる。
またサクリと音がする。今度はツナの味がしてきた。
「美味しいか?」
「うん、高校生の時、よく食べていたの。お弁当がないときに。・・・・・・お弁当、卵焼きが食べたい」
「どんな味がいいんだ?」
「毎日、いろんな味があって、とても美味しくて。デザートにオレンジが毎日、入っているお弁当が食べたい」
「俺のお弁当か?」
またおにぎりを近づけてくれる。
サクリとまた音がする。
「大地君のお弁当なの?」
「そうだよ」
「とても綺麗な卵焼きなの。甘い味がして、・・・・・・手巻き寿司が食べたい」
大地君がニッと笑った。
「一緒に食べたよな?小次郎時ちゃんが入院した翌日に。花菜ちゃんはご飯と卵焼きをうちわで冷ましていたよな」
サクリとまた音がする。
「美味しくて、楽しくて、幸せだった」
「そこは過去形にするなよ。今もこれからも幸せにしてやる」
わたしは涙が出てきた。泣き出したわたしを大地君が抱きしめてくれる。
こうしてわたしが泣いているとき、抱きしめられたことがいっぱいあった気がする。
「悲しいときや辛いときは抱きしめてやるから、我慢するな」
「うん」
「おにぎり食べられるか?」
「食べる」
大地君の体が離れていく。
おにぎりをまた近づけて、口に運んでくれる。
サクリとまた音がする。
「明日はお弁当を作ってくるから」
「うん」
「お弁当箱は同じ物がないんだ。盗まれてまだ見つかってないから、違う弁当箱でもいいか?」
「お弁当を盗まれてしまったの?」
「鞄ごと全部な。スマホも財布も見つかってない。警察に届けて、カード類は全部止めた。止める前にもし使われていたら、兄ちゃんが取り戻してくれる」
「お兄さんは警察官なの?」
「兄ちゃんは弁護士だ」
口におにぎりを運ばれて、口を開けた。今度は海苔のない場所だ。ツナの味もしない。白米の味だ。
わたしはお腹に触れた。
「赤ちゃん」
「うん、ちゃんと供養したから大丈夫だ。何も心配しなくていい」
「山の上の方の景色がとても綺麗だったところ?」
「そうだよ。体調が良くなったら、また行こう」
「うん」
また白米の味がした。
頭の中に風景が見える。帰りは暗くなってしまった。
山の上で白米のおにぎりを食べた。
「大地君が作ってくれた白米のおにぎりだったね」
「そうだよ。お供え物だったからね。花菜ちゃんは鶴を折ったんだ」
「うん」
「あと一口だ。頑張って食べて」
口の中に少し多めの量を入れられた。
海苔とツナとご飯の味がする。
高校時代の思い出が蘇る。
お弁当がない日は、わたしはいつもツナのおにぎりを食べていた。
毎日、1コ。残ったお小遣いは貯金していた。
デザートが食べたくても、我慢して過ごした。
「花菜ちゃん、プリンも買ってきたんだ。食べられる?」
わたしは嬉しくて微笑んだ。
「食べられそうだね」
「うん、今、食べたいなって思っていたの」
看護師さんが部屋に入ってきた。
「食べられましたか?」
「はい、おにぎりを1個食べました。食べてる途中に記憶の断片が戻って来ています」
「そうですか?慌てずに行きましょう。ベッドを上げましょうね、その方が食べやすいでしょう」
看護師さんはベッドを起こしてくれた。
大地君は、プリンのパッケージを開けると、スプーンで掬って口に入れてくれる。
卵の味のするプリンだ。柔らかくて、舌の上でとろけるようだ。
「美味しい」
「ゆっくり食べろよ」
「うん」
ゆっくり口の中に運ばれる。
大地君は笑顔だ。
お洒落な洋服を着ている。
「大地君ってお洒落なのね。とても洋服が似合っているわ」
顔立ちも格好よくて、すごくモテそう。
「花菜ちゃんのプレゼントだよ」
「わたしのプレゼント?」
「思い出せない?俺のスーツが3着1万円だったから、花菜ちゃんはいつも気にしていたんだ。洋服も1着しかきちんとした服を持っていなくて、花菜ちゃんが買ってきてくれた。高級なネクタイと水色のワイシャツと一緒に。その後、兄ちゃんの紹介でスーツを買いに行って、そこで花菜ちゃんがズボンを買ってくれたんだ」
大地君は誇らしげに、どんなにわたしに愛されていたのかを伝えるように、嬉しそうな顔で洋服を紹介した。
「わたし、大地君のこと好きだったのね?」
「また好きになってくれないか?過去を捨ててもいいから、今の俺でもいいから好きになって欲しい」
大地君はわたしに最後の一口を食べさせると、プリンのカップを置いて、わたしを抱きしめてきた。
お母さんがしていたように、大地君の手がわたしの髪を梳いている。
懐かしい感じがする。いつもそうされていたような気がする。
わたしも大地君を抱きしめて、体を委ねた。
触れるだけのキスをされた。
「嫌か?」
わたしは首を振った。
大地君は嬉しそうに、またキスをしてきた。
啄むようにキスを繰り返して、わたしをまた抱きしめてきた。
とても心が安らかになっていく。気持ちが良くて、わたしは大地君の腕の中で、また眠りに落ちた。
☆
警察官が来て、わたしに色々聞いてくる。わたしは何も思い出せなくて、頭を抱える。
大地君とお母さんがわたしを守るように、支えてくれる。
「まだ思い出せないんです」
大地君が言った。
「分かりました。何か思い出せたらお知らせください」
警察官は帰っていった。
「花菜ちゃん、もう大丈夫だから」
体が震えるわたしを大地君が抱きかかえる。
「花菜、急いで思い出さなくてもいいから、ゆっくり休もう」
「お母さん、ごめんなさい。お仕事、忙しいのに」
「そんなこと、今はいいのよ」
お母さんはわたしの手を握っている。
こんなに長時間、お母さんを独占していたことなんてあったかな?
もっとしっかりしなきゃいけない。
深く息を吸って、激しくなった心拍を落ちつかせる。
少しずつ震えも落ちついてきた。
「もう平気よ。大丈夫。寝れば治るのよね?」
「そうよ、寝れば治るわよ」
「わたし寝ているわ。お母さん、お仕事に戻っていいよ。明日には元気になってるよ」
「花菜、心配なの。ここにいたらいけない?」
「でも、お母さんはいつも忙しくて、いい子にしていてねって、毎日言っていたよ」
「ごめんね。寂し想いをたくさんさせてきたわね。今は家に帰っても、花菜が気になって仕事はできないわ」
このまま何も思い出せなかったら、わたしはどうなるんだろう?
わたしを背後から抱きしめている大地君の指には指輪がはまっている。
それに触れた。
「気になるのか?」
「結婚式をしたの?」
「式は挙げていない。写真を撮ったよ。今、見るか?」
「うん」
大地君は、わたしから離れると、リュックの中からノートのような物を持ってきた。
「花菜ちゃんが欲しがっていたフォトブックだよ」
「わたしが欲しがったの?」
「見てごらん」
表紙を捲ると、笑顔のわたしが写っていた。白いウエディングドレス着て、大地君と腕を組んでいた。白色の薔薇の中にピンク色の薔薇が混ざっているブーケを持っている。
わたしだけ写っている写真もある。綺麗な背景に裾の長いドレスは物語の主人公みたいに生き生きとして幸せそうな顔をしている。また別の背景がある。白いタキシードを着た大地君が、わたしの頬にキスしている。大地君の頬は赤くなっている。わたしは大地君の頬を撫でた。照れくさくてそれでも嬉しそうな顔をしている。わたしもどの写真も楽しそうで幸せそうな顔をしている。
自分なのに、自分じゃない。他人の写真を見ているようで、わたしはフォトブックを最後まで見ずに閉じた。
「やっぱり思い出せない」
フォトブックを枕元に置くと、わたしは両手で顔を覆った。
「花菜ちゃん」
「大地君を好きだったわたしは、きっと死んじゃったんだよ。なんでわたしは、空っぽで生きているんだろう?一緒に死んじゃえば、好きなまま死ねたのに」
「花菜ちゃん」
「花菜」
二人が怒った声を出した。
叱られたって、わたしはどうすることもできない。
ただ悲しくて、わたしは声を出して子供のように泣いた。
ずっと泣いていたら、医師と看護師が来て、わたしの点滴のチューブから薬を入れていった。
その後、急に眠くなって、わたしは深く眠った。
☆
翌日、頭の再検査があり色々検査をした。麻痺は残らなかった。新たな出血も見つからなかった。精神科から精神安定剤と睡眠薬が出された。
みんな無理に思い出さなくてもいいというけれど、わたしはやはり思い出したい。
病室に戻ったら、大地君が来ていた。
「おはよ」
「おはよう」
もうお昼だけど、大地君がおはよと声をかけてきたから、返事をした。
「弁当作ってきたよ、一緒に食べよう」
「うん」
わたしは車椅子から降りて、ソファーに座った。
「おっ、歩けるようになったのか?」
「整形の先生が、走らなければ歩いてもいいって」
「捻挫痛くないのか?」
「まだ、ちょっと痛いけど、歩けないほどでもない」
「そっか」
看護師さんが薬を置いて出て行った。
「何の薬?」
「精神安定剤」
「そっか」
テーブルの上にお弁当箱が二つ置かれた。
水筒も二本並んだ。
「今日、買い物に行って似たものを買ってきた。同じじゃないけど」
「ありがとう」
「さあ、食べよう」
「うん」
可愛いお弁当箱だ。蓋がピンク色でウサギが描かれていて、本体は白い。細長くて、鞄に入りそうだ。
わたしは蓋を開けてみた。
レタスの上に生姜焼きが載っていて、卵焼きが二つ入っている。隙間にトマトが載っている。2段目の弁当箱には、ご飯の上にゆかりがかけられ、半分からオレンジが四つくし切りで入っている。
きっとオレンジには、食べやすいように果肉と皮の間に切れ目が入っているはずだ。
「美味しそう」
「見てないで食べろ」
「うん、いただきます」
「いただきます」
大地君の弁当箱は大きいけれど、中に入っている物は同じだ。量が多いだけで。
綺麗な四角で、綺麗な黄色で、目を奪われる卵焼きだ。
わたしは卵焼きを食べた。
甘い味だ。
「美味しい」
続けて二つ食べたらなくなってしまった。
そうしたら、大地君が卵焼きを移してくれた。
「もっと食べろ」
「うん」
わたしは卵焼きばかりを食べていた。大地君が何度もお弁当箱に入れてくれるから。
懐かしい味で、涙が流れていた。
卵焼きを食べたら、生姜焼きをレタスに包んで食べて、ご飯を食べる。
オレンジはやっぱり切れ目が入っていて食べやすい。
「大地君のオレンジだ」
「俺のオレンジ?」
「切れ目が入っていて食べやすいの。オレンジがいっぱい口の中に入ってくる」
食べ終えると、わたしは大地君にしがみついて泣いていた。
「花菜ちゃん」
頭を撫でられる。
優しく髪を梳かれる。
「大地君の言った通りだった。すごく怖かった。ホテルに連れ込まれるかと思った。追いかけられて、怖かった。必死に走ったけど追いつかれて、階段で背中を押された。体が階段を転がるのも痛かった。倒れたわたしを、河村先輩が足で頭を蹴ったの」
「花菜ちゃん、思い出したのか?」
わたしは何度も頷いた。
「俺のことも思い出したのか?」
「うん」
「良かった」
大地君は、わたしを強く抱きしめてきた。
「大地君、痛い」
「ごめん」
今度は包むように抱きしめられた。
帰って来られた。
卵焼きとオレンジが道標になってくれた。
いつも美味しいと思って食べていたから。
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