第26話 挨拶
☆
不思議と人は指輪のことに気付かない。
わたしが結婚指輪をはめていても、誰にも指摘されない。
大地君は、出勤日にすぐ指輪を指摘されていたけれど。
やはり大地君は思い込みが強いんじゃないかと思った。男性社員から声をかけられた事もないし、出先で言い寄られた事もない。
誰も、大地君の相手は想像できなくて、大地君の取り巻き達は、落胆のため息を漏らし、仕事の士気が落ちるほどだ。
明美と有紀は自宅待機からの退職になった。
社長が戻ってきて、決定したらしい。二人はロッカーの片付けに来た日に、挨拶をして帰って行った。せっかく就職できたのに、男で身を滅ぼしてしまった。一歩間違っていたら、自分もそうなっていたかもしれない。
倉庫管理室に移動になった河村先輩は、会社から子会社に出向させられた。この会社の中で会うこともないだろう。この先、出会うこともないだろう。
わたしは班移動で、今度はベテランもいる男女混合の班に移動した。人数は私を入れて6人なり年上も多く、女子社員も年上だ。新入社員は男の子で、物静かな印象を受ける。
新入社員を受け持っているのは40代の男性社員で、わたしは自分の仕事に集中できる。
班全体が既婚者だからか仕事が早く、ほぼ定時で仕事が終わるようになった。
大地君と出勤して、大地君と一緒に帰宅できる日も増えた。
平穏な毎日に、幸せな日常を二人で過ごしている。
お兄さんの勧めもあり、わたし達は千葉の大地君の家族に挨拶に行くことになった。
連休を待っていても、仕方が無いから土日に行けばいいだろうと言われた。
手土産のお菓子を買って、大地君の車で出かけることになった。
「花菜ちゃん、あまり緊張しなくてもいいから」
「緊張はするわよ。だって、初めてお目にかかるのよ。気に入らないなんて言われたら、どうしよう?」
「あ、俺、花菜ちゃんの事は話してあるんだ。一目惚れした女の子がいるって。たぶんやっと捕まえたかと言われる程度だと思うよ」
「4年前に一目惚れしたって、本当の事だったんだね?」
「本当だよ」
大地君は声を出して笑っている。
社長代理になっても大地君は、少しも変わらない。
フロアーで見かけなくなって、寂しく思うけれど、家に帰れば、いつも一緒にいてくれる。まだ抱き合ったことはないけれど、恋愛を楽しんでいるような感じだ。
「大地君、わたし結婚指輪をはめても、誰も何も言わないよ?やっぱり大地君の思い過ごしだと思うよ」
「いやいやいや。男は口に出さないよ。なんでも慰め会っていうのが、営業部で開かれたらしい。相手が俺だと誰も気付いていないみたいだけど」
「慰め会?」
「花菜ちゃんが指輪をはめた翌日に、居酒屋で飲み会があったんだ。俺も誘われたけど、俺は勿論、断った」
「へえ、知らなかった」
「今は見守り隊に変わったらしい」
わたしは、微笑んだ。
男と女は、ずいぶん違う。
「大地君が指輪をはめた事に気付いた大地君の取り巻き達は、すごく落ち込んでいたわ。仕事に手が付けられないほど落ち込んでいたようよ。今は大地君の他に格好いい男性を探しているわね。女子社員は結婚相手を探しているから、大地君の事は諦めたみたい」
「それは良かった」
大地君も笑っている。
わたしは大地君が買ってくれたネックレスをして、指輪を二つはめている。
着ている洋服は紺のワンピースだ。
わたしはあまり服を持っていない。大学時代の洋服を今でも着ているので、余所行き着は紺のワンピースと藍色のワンピースの2着だ。後は大学時代に着ていた洋服だ。
大地君は、わたしが贈ったシャツに紺色のスラックスを着ている。
まるでお揃いの服を着ているようで、わたしは嬉しい。
高速と一般道を使って、3時間ほどで大地君の家に着いた。
2階建ての建物で、家の横に畑がある。
車を止めると、畑から二人が歩いて来た。
「お帰り、大地」
「ただいま」
大地君は二人に声をかけた。
「可愛いお嬢さんを連れて来たって事は、結婚でもするつもりかな?」
お父さんだろう。大地君を茶化している。
「紹介するよ。僕のお嫁さんの花菜さんだ」
「もう籍を入れたのかい?」
「初めまして、花菜と申します。ご挨拶の前に籍を入れて、順序が逆になってしまってすみません」
「家に入りなさい」
お父さんはそう言うと、家の裏へと歩いて行った。
「裏から入るんだと思う。畑の土が玄関を汚すから」
「うん」
大地君は、わたしの手を引いて玄関へと進んでいった。
鍵は開いていて、大地君に連れられて、まず、仏間に行ってお参りをした。わたしも大地君の後に続いて、お参りをした。
その後に、居間につれて行かれた。
ダイニングとリビングが繋がっていて、広々としている。
リビングにはソファーが置かれていて、大地君に手を引かれて、ソファーに座った。
お父さんとお母さんが台所の方から歩いてくる。
テーブルにお茶が出された。
「渋滞に巻き込まれなかったか?」
「うん、道は空いていたよ。早い時間に出てきたからね」
「それで、お嫁さんは、いつ見初めたんだ?」
「前に話していた、入社式で一目惚れをした子だよ。花菜っていうんだ。やっと想いが伝わって入籍した。他の誰にも奪われたくなかったから、順序が逆になってごめんなさい」
「大地は型にはまらん子だから、何をしても驚かんけど、良かったな。初恋だろう?」
「うんまあ、そう。魚の次に好きになった女の子だから」
「花菜さん、大地をよろしく頼みます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「父ちゃん、母ちゃん、これ、お土産、花菜ちゃんと選んだんだ」
「ありがとうね」
お母さんが受け取り、部屋を出て仏間に行ったようだ。
「式は挙げるのか?」
「この間、写真だけは撮ったんだ」
大地君はフォトブックをリュックから出して、テーブルに置いた。
「どれ」
二人はフォトブックを見て、微笑みあっている。
「花菜ちゃんは小次郎爺ちゃんの孫で、小次郎爺ちゃんの縁で仲良くなれたんだ」
「そうなのか?小次郎さんは、お元気か?」
「怪我をして、今は入院しているんだけど、たぶん元気に戻ってくると思う」
「大地君がすごく手伝ってくれて、感謝しています」
「大地の大家だからな、お見舞いに行かねばならんかな?」
「そうね」
「花菜ちゃんのお母さんも、そのうち紹介するよ。特殊な仕事をしている人だから、なかなか時間が合わないかもしれないけど」
「どんなお仕事をなさっているんだい?」
「うちは母子家庭で兄妹はいません。母はイラストレーターでアニメの仕事をしています」
「ほう」
「俺もあまり会えなくて、家に来てもすぐに帰って行くほど多忙な人なんだ」
「それはすごいな」
お父さんが感心している。
「お父さんは離縁しているのかな?」
「いいえ、わたしが幼い頃に事故で亡くなっています。わたしは父の思い出がないので、写真でしか見たことはありません」
「それは苦労して育て上げたお嬢さんだな」
「大地、花菜さんを大切になさいね」
「はい。それは勿論、そのつもり籍を入れたんだ」
「今日はゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げた。
どうやら認められたようで、ホッとする。
大地君のお父さんは、大地君によく似ていた。お母さんは、歳を取っていても綺麗な人だと分かる。
「翔太も陸斗も結婚式を挙げている。大地も挙げないさい」
「資金が、ないんだ。俺、家を建てたいから貯金をしているけど、その貯金は崩したくないんだ」
「花菜さんのお母様は、娘の晴れ姿を楽しみにしているのではないか?」
「母には、フォトブックを渡しました。結婚式は挙げなくても母は何も言わないと思います」
「そうかい?」
「素敵な結婚指輪を買っていただきました。それだけで十分に幸せです」
わたしは指輪を見せた。
「綺麗な指をしているね」
「指も綺麗だけど、指輪も見てよ」
大地君はガクリと項垂れる。
「大地にしては、いい指輪を買ったな」
「兄ちゃんに、紹介してもらったんだ」
「翔大とは会っているのか?」
「スーツもらったりして世話になってる。この写真を撮ったのも兄ちゃんだ」
「ほう」
大地君の両親はまたフォトブックを見始めた。
「勇気や真穂も大きくなっていたよ」
「そうかい」
「あ、俺、社長見習いになったから」
二人は笑い出した。
「松永さんは律儀に、大地を社長にするのか?遊びの勝負で負けたくらいで」
「松永さんは本気だぞ。かなりスパルタで教わってる」
「そうか、松永さんにも連絡をしなくてはな」
お父さんは笑いながら、それでも、社長のことも気にしているようだ。
大地君は近況報告をすると、4人で歩いて鰻屋さんに出かけて、鰻重をご馳走になった。多すぎるご飯は先に大地君のお茶碗に入れた。
「花菜さんは鰻が苦手ないのかい?」
「花菜ちゃんは小食なんだ。最初の頃より食べられるようになったけど、まだ一人前は食べられないんだ」
「あら、そうなの?」
「すみません。とても美味しいのに、全部食べられなくて」
「これから大地の子供を産むことになると思うけど、たくさん食べて体を作らなくては丈夫な子は生まれてこないですよ」
「はい」
「母ちゃん、人の胃袋の大きさも色々あるんだ。無理して食べて吐くよりは適量を食べた方が、体にはいいんだぞ」
「まあ、大地の言うことも確かだ」
お父さんが、お母さんを宥めている。
食べる量か・・・・・・。
大地君が言うように、以前より食べる量は増えてきたけれど、外食の料理の量は、まだ多すぎる。
嫌われてしまったかな?
せっかくの鰻重。お値段も高いから。
食べ終えて、歩いて帰る。
近くに美味しいお店があるのは便利だな。
「今日は泊まっていくのか?」
「明日は小次郎爺ちゃんのお見舞いに行きたいから、今日は帰るよ」
「忙しいね」
「1週間分の食料も買いに行きたいから」
「花菜さんはまだ専業主婦にならないのかい?」
「俺の稼ぎが、まだ少ないからね」
大地君が守ってくれている。
食事の量を指摘されて、わたしが気に病んでいることを気付いている。
「またお盆とか正月休みに帰るようにするよ。今日は紹介だけ」
「そうかい?」
お母さんは不服そうだ。
いつもは泊まっていくのだろう。
家に着くと、大地君は帰る支度を始めた。
「また来るよ」
「野菜、持って行きなさい」
お母さんが急いで畑に走って行った。
「まだ小さいけど」
そう言って、キュウリやトマトを入れた袋をくれた。
「ありがとうございます」
「また来なさいね」
「おう」
大地君は野菜をトランクルームに入れると、後部座席にリュックを載せた。
「花菜ちゃん、乗って」
「はい」
わたしは大地君のご両親に「ご馳走様でした」とお礼を言って、頭を下げた。
そうして、車の助手席に乗った。
大地君は両親に手を振ると、車を走らせた。
「気にしなくていいからな。食べる量は人それぞれだから」
「うん」
大地君は音楽をかけると、歌を歌い出した。
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