第12話   ドライブ

 ☆

 車は高速道路に入っていった。わたしは学校の行事以外で高速道路に乗ったのは初めてだ。男性とドライブすることも初めてかもしれない。



「男は河村みたいなのばかりじゃないからな?」


「うん。昨日はごめん」


「毎晩、泣いているのは気付いていたけど、仕事がある日だと、きちんと向き合えないから。ずっと放っておいてゴメン」


「これはわたしの事だから、気にしないで」


「男性恐怖症にならないで欲しい」


「わからないわ」



 わたしが俯くと、大地君は音楽を流した。


 聞いたこともない曲だったけれど、歌詞は良かった。胸を打つフレーズが流れている。


 大地君は、歌を歌っている。


 応援歌のような曲だ。誰が歌っているのだろう?


 わたしは、本当に世の中を知らない。


 今のわたしは、仕事の事と、仕事に関することしか勉強していない。


 よくよく考えたら、つまらない女だ。


 よく4年も同棲が続いたものだ。


 世間で流行っている音楽もドラマも何も知らない。


 車は高速道を降りて、一般車道を走り出した。


 大地君の運転は、ゆったりと運転している。ブレーキも早めで体が揺れたりしない。



「わたし、まだ登山はできないよ。医師の許可出てないから」


「分かっているから」


「それならいいけど」



 山道に入ると大地君が、エアコンを切って、車の窓を開けた。


 風が髪を乱す。


 ボサボサになってしまう。


 わたしは髪を手で押さえた。けれど、吹き抜ける風は気持ちがいい。


 沈んだ気持ちが軽くなってくる。


 車はどんどん山の中に入って行く。くるくる回りながら、山頂近くまで登って、車が止まった。


 そこには大きな仏像が、いくつも離れた場所に点々と建っている。



「・・・・・・大地君」


「供養してあげよう」


「・・・・・・ありがとう」


「ここは水子地蔵尊が祀られているから」


「調べてくれたの?」


「うん、まあね」



 車を降りて、助手席の扉を開けてくれる。



「おいで」


「許してもらえるかな?」


「怖がらないで」



 わたしを車から降ろすと、大地君はリュックを片方の肩にかけていた。



「初めて来たの、こういう所」


「手を合わせて、無心で祈ればいいよ」



 大地君がわたしの手を繋いで、受付の方に歩いて行く。大地君は受付で、「水子供養をお願いします」と声をかけた。



「供養代として1万円からかかりますがよろしいですか?」


「はい」



 大地君は財布から1万円払った。



「お名前などお書き下さい」


「はい」



 紙をもらって、わたしにその紙を渡した。



「書いて」


「1万円も。わたしが払うから」



 鞄からお財布を出すと、大地君はその動きを掌で止めた。



「ここは守れなかった俺の責任でもある」


「大地君は、なんの責任もないよ」


「いいから、書いて」



 わたしはお財布をバックに仕舞うと、名前から順に書いていった。


 書き終えると、大地君が紙を提出した。



「では、中でお待ち下さい」


「はい」


「花菜おいで」


「花菜?」


「俺は婚約者だ」


「そういう設定だったね」



 わたしは大地君に手を引かれて、待合室に入っていった。


 すぐにお茶を出される



「すみません。お供え物を持ってきたのですけど、いいですか?」


「もちろん、構いません」


「では」



 大地君はおにぎりを二つ出した。



「花菜、鶴は折れる?」


「たぶん」



 コピー用紙を切った物を出して、わたしに織るように言った。


 覚えていないかと思ったけれど、自然に折れた。


 これと一緒にお願いします。


 女性はお供え物を持って部屋から出て行った。



「どうして鶴なの?」


「飛行機でも良かったんだけど、鶴の方が綺麗だろう?生まれ変わって花菜の所に戻って来られるようにお願いしたいんだ」


「赤ちゃんが、わたしの所に戻ってくるの?」


「そういう祈りをすればいい」


「うん」



 すぐに名前が呼ばれて、本堂に案内された。


 僧侶が読経を上げる。


 わたしは大地君が言ったように、またわたしの所に生まれてきて欲しいと願った。今度は、必ず守って産んで育ててみせる。


 痛い思いをさせてごめんなさいと謝罪もした。




 ☆

 読経を上げてもらって、供物と回向証をもらった。回向証には、水子地蔵尊の絵と読経が書かれて、正面には名前を書くための空白ができていた。


 車を山頂の見晴台まで移動させて、見晴台のベンチに座った。


 大地君はおにぎりと水筒を出した。



「連れてきてくれてありがとう。心が軽くなった」


「供養できたんだ。赤ちゃんは生まれ変わってくるよ」


「うん」



 大地君はおにぎりを食べている。



「花菜も食べて」


「うん」



 わたしもおにぎりを食べた。味付けはない。ただの白米だ。お供え物だから白米なのだろう。



「名前は今から考えるのか?」


「女の子だったから、わたしの所に舞い降りてくれるように舞という名前にする」


「舞かいい名だな」


「また、ここに連れてきてくれる?」


「いいよ」


「ありがとう」


「そんなにお礼を言わなくていいから、しっかり食べて」



 おにぎりを手渡されて、それを食べる。


 見晴らしも良く、空気も澄んでいる。



「この山全体が霊山になっているんだって。しばらく、ここで休んで行こう」


「うん」



 わたしの汚れた体も清められるかもしれない。


 4年間のすべてを忘れたい。


 できることなら、4年前からやり直したい。


 歓迎会でお酒を飲まなければよかった。


 酔ってしまったから、油断してしまった。


 泥酔していなければ結ばれなかった。結ばれなければ同棲はなかったはずだ。


 わたしはあの時、河村先輩のことを好きではなかった。ただの上司だった。


 抱きしめられたことはあったかな?


 ドキドキしたことは、あったかな?


 なかったような気がする。


 ただ、わたしは都合のいい女だったんだ。


 家があって、世間知らずな女だっただけだ。


 河村先輩にわたしの家庭のことを話したことはなかった。


 話したのは、大地君が初めてだ。


 一緒に過ごすうちに好きになっていった。好きではなく情が移ったのかもしれない。



「わたしも転属願い出してみようかな?河村先輩のいないところに」


「営業部トップの花菜を手放すかな?」


「経理部とか総務部とか・・・・・・」


「上が判断するんだ。したければすればいい」


「そうだね」



 霊山で体を清めてもらって、綺麗な体になろう。


 わたしは澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 もう泣くのは止めよう。


 赤ちゃんは生まれ変わる。


 わたしの心も体も少しずつ癒えていくだろう。


 わたしは美しい景色を、時間を忘れて見続けた。



「花菜、そろそろ帰ろう。暗くなる」



 いつの間にか太陽が見えなくなっている。



「山の夜は早いんだ」


「長い時間、ありがとう」


「いいよ。気持ちの整理はできた?」


「うん。もう大丈夫。体ごと浄化されたみたい」



 ニッと大地君が笑った。


 わたしも笑顔を返せた。



「じゃ、帰ろう」



 大地君はわたしの横から立ち上がった。


 わたしも自分で立ち上がった。


 大地君は車にリュックを入れて、助手席のドアを開けた。



「ありがとう」


「閉めるよ」


「うん」



 わたしがちゃんと乗り込むと、ドアを閉めてくれた。


 すぐに運転席に乗り込んでくる。 


 山を下りるまで、大地君は窓を開けたまま走った。


 一般道に入ると、窓は閉まった。


 高速道路に乗る頃には暗くなってしまった。


 暗い道路を、大地君は歌を歌いながら走って行く。


 行きは応援歌だったのが、恋の歌に変わっている。


 わたしはカーステレオの音楽と大地君の歌声を聞いていた。


 大地君の歌は上手だった。


 感情のこもった恋の歌は、わたしの心に優しく語りかけているみたいだった。


 この歌声を聞いたことのある人は、他にもいるのかな?


 わたしだけならいいな。


 いつの間にか、そんなふうに思っている自分がいた。



 ☆

「足元気をつけろよ」


「うん」



 車から降りて、扉を閉めると、辺りは暗く駅の構内が明るくなっていた。

 車庫から玄関に回って、玄関を開けると、大地君もすぐに入ってきた。

 大地君が施錠している間に、部屋の明かりを点ける。



「腹減った!」



 大地君は途中でお店に入ろうと誘っても入らなかった。

 わたしが奢ると言うのを警戒しているのだろう。



「すぐ食べられる物作るから、シャワー浴びてきて」

「うん、じゃ、先に入ってくる」



 わたしは部屋に戻ると、鞄を置いて、パジャマと化粧品の入ったケースを持ってお風呂場に向かう。


 髪が短くなっただけ、シャワーの時間は短くなる。


 綺麗に洗って、洗面所で髪を拭いて櫛で梳かすと、化粧品を顔に塗る。


 最低限だけして、洗面所から出てくると、大地君が鼻歌を歌いながら料理を作っている。


 わたしがお風呂から出てきたのを見て、ニッと笑う。


 わたしも笑顔が返せるようになった。



「髪を乾かしてくるね」


「いっといで」

 


 部屋に戻って、顔に化粧品をしっかり塗ると、髪にオイルをつけてドライヤーで乾かす。


 短くなった分、乾かす時間もやはり短くなった。素肌にもクリームを塗ってお手入れをすると、台所に向かった。


 ご飯はできあがっていた。



「先にシャワー浴びてくるわ。ちょっと待ってて」


「いいよ」



 わたしは箸とマグカップを出して、お茶を注ぐ。


 ご飯は焼き肉だった。


 炒め野菜の上に、牛肉が載っている。


 味付けはタレをかけるようだ。タレの瓶が出ている。 


 まだご飯が炊けていない。


 表示を見ると、あと5分と出ている。


 急ぎ炊きをしたのだろう。


 わたしも炊飯器の取説を読んだから、ご飯は炊ける。


 オーブン、置ける場所があるといいな。


 キッチンの周りを見ると、置けないことはなさそうだ。ただコンセントがない。


 料理当番は、大地君だからわたしは見て、イメージトレーニングで覚えていく。


 領域を侵してはいけない。


 同居生活の家事分担だから。


 わたしは冷蔵庫の中からリンゴを取り出して、それを切っていく。



「花菜ちゃん、その包丁、お肉切ったから、果物は駄目だよ」


「えー!」


「生では食べられないから、細く切って、煮ちゃおう。リンゴジャムにして、明日、パンを買ってこよう」


「うん」



 大地君が髪を拭きながら、わたしに切り方を教えてくれる。



「細いくし切り?」


「オーブンがあったら、アップルパイにしてもいいけどね」


「オーブン置いたら駄目かな?」


「欲しいの?」


「うん。お菓子を作ってみたくなったの。でもコンセントが見当たらないから、置けないかなと思って」


「そうだな?置けないことはないけど」


「わたしが買ったら、置いてくれる?」


「花菜ちゃんが欲しいなら、小次郎爺ちゃんも反対はしないだろう」


「ありがとう。ネットで検索してみる。パンも焼けるといいな」


「花菜ちゃんの女子力が上がっていくね。最強になっていく」



 大地君がタオルを首に巻いた。


 まだ汗が出るのだろう。



「最強ってなに?」


「美人で可愛くて、仕事もできて、お菓子も作れたら、最強だよ」


「美人とか可愛いとか、わたし、よく分からない」


「皮を剥いて、くし切りに切ったリンゴをお鍋に入れて、取り敢えず、ご飯にしよう。続きは後で教える。手は綺麗に洗ってね」



 わたしの言葉を料理の仕方にすり替えた。


 余計な事は考えるなってことかな?


「わかった」


 ハンドソープで綺麗に洗って、席に着いた。


 大地君がご飯をよそっている。


 テーブルにご飯が置かれた。


「いただきます」二人で言って、大地君がお皿にタレをかけてくれる。



「お肉、少し多めにしているよ。貧血起こしているだろう?」


「どうだろう?」


「出血多かっただろう?」


「うん」


「俺も一応、花菜ちゃんの体の事を調べたから、しばらくは花菜ちゃんの貧血改善のご飯にするつもりだから」


「ありがとう」


「好き嫌いは聞かないよ」


「嫌いなものはないよ」


「それなら、任せて」


「うん」



 食べながら、会話ができるようになった。


 少しのことで悲しくなっていた気持ちが、やっと落ちついてきたみたいだ。



「明日は午前中に、俺たちの食べ物を買いに行って、午後からは少し早めに小次郎爺ちゃん所に行こう。たぶん、足りなくなっている物があると思う。体が辛かったら、俺だけで行ってくるよ」


「でも、悪いもの。お爺ちゃんの事も心配だし。お母さんにも連絡しないと・・・・・・」


「花菜ちゃんは、まだ安静期間だろう?」


「そうだけど」


「一緒に来ても、途中で辛くなったら、必ず言うこと。約束して」


「約束する」


「それなら、一緒に行こう」


「大地君のスーツは?」


「まだしばらくは着られるだろう?」


「時間の問題だと思うよ」


「じゃ、来週の土曜日に行こう」


「うん」



 来週は今日より体調は良くなっているはずだ。


 出勤は水曜日からだ。


 河村先輩と顔を合わせたくないな・・・・・・。


 ふと視線が下がったら、大地君が「ジャム作るよ」と声をかけてきた。


 食べたお皿をシンクに運んで、大地君が言うようにお砂糖をリンゴの中に入れて、すごく細火でコンロにかける。


 大地君は、その間にお皿を洗って、カゴに伏せていく。わたしの横でお湯を沸かし始めた。



「すごく焦げやすいから、音とにおいに気をつけて、焦げたら食べられないよ」


「そんなに難しいの?」


「リンゴの量が少ないから、余計に難しい。アップルパイなら、リンゴは大きさにもよるけど2コから3コくらい使うんだ」


「大地君、お菓子も作れるの?」


「うちの母親が手作りの菓子作りが好きで、いつも作っていたから、作り方も自然に覚えた」


「じゃ、お菓子はウンザリ?」


「そうでもないよ。4年もこっちに来てるから、正月とお盆は帰っているけどね」


「そうなんだ。大地君は手作りおやつで育ったのね」


「うちは、親父が公務員で、母親は専業主婦だったんだ」



 大地君がコンロの火を止めた。



「蓋を開けて、混ぜてみて。アップルパイの時は混ぜないんだ。ここにシナモンとレモンを少し入れて、それを馴染ませるくらい。ジャムは混ぜていいよ」



 わたしは蓋を開けて、しんなりしたリンゴを混ぜた。



「うまくできたな」



 小鉢を出してきて、テーブルに置いた。



「ここに入れておくといい」


「うん」



 わたしが小鉢にジャムを入れている間に、湯が沸騰している。


 それを、大地君はまな板と包丁にかけた。



「加熱消毒してるんだ。食中毒予防」



 今度はひっくり返して、お湯をかけると、まな板はまな板立てに立てて、包丁はペーパー布巾で拭って、流し台の下へとしまった。



「花菜ちゃんは、熱湯消毒しないでね。火傷すると危ないから。ハイターとかあるから、どうしてもしたかったら、薬品を使って」


「うん。力、すごいね」


「そりゃ、男だし」


「初めて見た」


「男にも色んな男がいるのさ」


「そうだね、大地君はすごい。物知りだし、行動力もあるし、優しい」


「俺、褒められると伸びるタイプなんだ。もっと褒めて」



 わたしは微笑んだ。


 大地君も微笑んでいる。


 わたしはお鍋と菜箸を洗って、箸立てとカゴに伏せて入れた。




 ☆

 食後、大地君は居間のテレビの前で、ビールを飲んでいる。


 わたしは、洗濯物を干し終えると、回向証を持ってきてテーブルに置いた。


 筆ペンで舞と名を書いた。


 大地君は、ビールを飲むのを、いったん止めて、わたしの行動を見ている。


 墨が乾くのを待って、それを畳む。



「部屋に置いてくるね」


「置いたら、戻っておいでよ」


「うん」



 筆ペンを持って、部屋の戻ると、3段ボックスの上に、開いて置いた。


 手を合わせると、気持ちが楽になった。


 ここにぬいぐるみでも飾ろうかな?


 明日、買い物に行ったら、なにか見てこよう。


 わたしはスマホを持つと、居間に戻った。


 わたしが戻ると、大地君が微笑んだ。



「何か飲む?」


「そうね、少しくらいならいいかな?」



 わたしは冷蔵庫を開けると、3%のカクテルを持ってきた。


 3%なら酔わない。値段もお手頃で、罪悪感を持つこともなく飲める値段だ。


 今までの生活が異常だったのだと、大地君と暮らすようになって分かってきた。



「オーブン検索してみる」


「レンジがあると、冷やご飯も温められて、便利だな」


「どこのメーカーがいいか、お勧めはある?」


「選ぶことが、まず楽しいし、色々見てみたらいいんじゃないか?」


「じゃ、そうする」



 飲みかけのカクテルをテーブルに置くと、わたしはオーブンを検索した。



「人気順に書かれてあるサイトあるよ」


「え、どこ?」


「ちょっと貸して」



 大地君はわたしのスマホを持って、アドレスを打ち込んで、オーブンレンジところで、わたしに返した。



「さすが工学部だね」


「それ関係ないから」



 大地君が笑っている。


 わたしはサイトをお気に入りに入れて、人気順に並んだオーブンを一つずつ見ていく。



「オーブンでパンを焼くことはできるけど、パン生地をこねることはできないのね?」


「こねて焼くのはホームベーカリーだね。パン専用になる」


「別々で買わなくちゃいけないのね?」


「自力でこねる方法もあると思うけど、パンは発酵に時間がかかるから面倒だね」


「大地君は、なんでも知ってるんだね。すごいな」



 スマホを見ながら、大地君を褒めると、大地君の手が、わたしの髪を梳きだした。



「始めは、オーブンレンジを買って、おやつを作ってみたら?仕事が始まると、なかなか時間が取れなくなるよ」


「そっか、そうだね。最近、ずっと休んでいるから、仕事の事忘れていたわ」



 大地君が笑う。



「このまま専業主婦になる?」


「誰の?」


「俺の」


「え?」



 真面目な顔の大地君が、わたしを真っ直ぐ見る。


 胸がキュンとした後にドキドキが追いかけてくる。



「俺の婚約者だし」



 わたしは微笑んで胸を押さえた。



「あのね、わたし、今、まだすごく心が弱っているんだよ。そういう冗談は、駄目だよ。甘えと恋愛を間違えちゃう。ドキドキしても、今のわたしには、この気持ちが本当なのか冗談なのか、分からないんだ。でもありがとう。婚約者ごっこで、わたしは救われている」


「心が救われているなら、今はまだ婚約者ごっこしていよう」


「大地君がモテてるわけが、すごく分かる」


「あれはモテてるのか?お昼、群がられて、いつも食べた気にならないんだ。隙あらば、人の弁当を盗もうとしてくる。まったく気が抜けない。花菜ちゃんと一緒に食べられたらいいのにな」


「駄目だよ。わたしと一緒にいると、変な噂立てられちゃう。わたし、あのフロアーで女子から嫌われているの。特に大地君の取り巻きからは、大地君に寄せ付けないように、みんながタックを組んでいる感じ。お昼のトイレはわたしの悪口で盛り上がっているわね。トイレすら入りづらい」



 はあと、ため息が漏れる。



「本気で転属願い出そうかな?1班も居心地悪いし。これでわたしと河村先輩が別れたって噂が立てば、どうなることか?」



 わたしはスマホを置いて、カクテルの缶を持って、口に運ぶ。


 サイダーのカクテルは、サイダーを飲んでるようだ。


 アルコールの味はほとんどしない。



「花菜ちゃんは職場で、いろんな事を抱えているのに、顔に出さないんだな?聞くまで何も知らなかった」


「わたし、昔から感情を隠すのは上手かったのよ。母子家庭だもの。母の前ではいつも明るくていい子でいなければならなかったから、我慢強くもあったかな?優等生を演じるのも大変だったのよ」


「俺は、男ばかりの末っ子だったから、親からは放置されていたかな?学校も自由に選んで、適当に遊んで過ごしていた。大学院行っていたから、大学に泊まり込んで研究していたり、釣りに行ったり。親の関心は兄貴の方に向いていたから、自由で良かったよ」


「あれ?同い年じゃないの?」


「俺は32歳だよ。4年大学院に行っているからね」


「そうだったんだ?わたしはてっきり同い年だと思っていたわ」



 大地君が微笑んだ。



「少しは逞しく感じる?」


「え?大地君は最初から逞しかったよ」


「あの河村と同い年なんだ。学部は違ったけど、同じ大学だったから河村の事は知っていた。大学の時から女遊びが激しくて、かなり問題を起こしていた人だったんだ。学部が違っても噂が流れてくるくらいね。どこに入社したかまでは知らなかった。入社式を終えて配属された部署で会うとは思ってもみなかったよ。河村は花菜ちゃんに目を付けたって、俺はすぐに気付いたんだ。歓迎会の時にお酒をやたらと飲ませて、泥酔させているのを見て、俺は花菜ちゃんを助けようとしたんだけど、河村の方が一枚上手だった。村上っていう上司も結託していたんだろうな?俺が近づこうとしたとき、足止めされたんだ。ちょっと目を離した隙に、花菜ちゃんがいなくなった。足止めされても振り切って追いかけるべきだった。あの時、助けられたら今とは違う人生だったかもしれない。あの日、守れなくて、ごめん」


「・・・・・・大地君」


「だから、ずっと気がかりだったんだ。1年も経たずに女を替えていた河村が、4年も付き合っているのを見て、花菜ちゃんのこと気に入って、もしかしたら結婚まで考えているのかな?って思いかけていたんだ。でも、奴は昔と変わってなかった。だから、やはりあの歓迎会の日、助けられなかった俺にも責任があるんだ」


「大地君は悪くないよ。気に病むこともない。同情しなくてもいいよ。だけど、ありがとう。心配されていたなんて、少しも知らなかった」


「花菜ちゃんを初めて見た時、可愛いなって思ったんだ。意に反した配属場所だったけど、運は良かったかもって思ったのにさ。あの時、守りたかったんだ」



 髪を撫でていた大地君が背後から抱きしめてきた。


 わたしの肩に頬を載せている。



「大地君、酔ってるの?」


「少しだけ、こうしていていい?」


「うん」



 大地君はわたしを抱きしめたまま眠ってしまったみたいに、動かなくなった。


 触れる体温が気持ちいい。


 わたしも体を預け、目を閉じた。


 互いの心音が重なって聞こえるような気がした。


 その晩、また大地君と眠ってしまった。


 目が覚めたら、大地君の腕に抱かれていた。目を覚ました瞬間、大地君の笑顔が、わたしを出迎えた。



「おはよう」

「おはよう」



 顔が熱くなる。

 わたしの鼓動は、すごくドキドキしていた。



「よく眠れた?」


「うん」


「顔洗って、ご飯の準備するか?」


「あ、わたしも手伝う」


「じゃ、準備な」



 腕に抱かれたまま起こされて、ギュッと抱きしめられた。



「本気だから」



 耳元で囁いて、大地君はわたしから手を放して、先に洗面所に入っていった。



「本気って?」



 期待させる言葉を残して、行ってしまった大地君の消えた洗面所の扉を見て、わたしは、また顔を赤らめた。



「わたしはおトイレに行って着替えてから洗面所・・・・・・」



 冷静になるように、言葉に出して、自分のすべきことを考える。


 起き上がって、わたしは自分のすべきことを順にこなして、台所にいる大地君の横に立った。


 大地君は綺麗な卵焼きを焼いていた。



「なんの味?」


「食べてからのお楽しみ」



 わたしはお皿を出して、台所に置いた。


 箸を出して、マグカップにお茶を注ぐ。



「お味噌汁、できてるよ」


「はい」



 お椀を出して、味噌汁をよそう。


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