第11話 4年分
☆
わたしはやはり、過去と決別したかった。
河村先輩と過ごした4年を精算したかった。
だから、新入社員で入った頃の髪型にしてきた。
その頃より、わずかに長いかもしれない。
がっかりした大地君の顔が浮かんで、それ以上は切れなかった。
背中までの長さに切って、髪をハーフアップにして過ごしている。
仕事の時はアップにしても、一つに結んでも、どうにでもできる長さだ。
長すぎるよりはいいかもしれない。
外に出たついでに、スーパーに入って、オレンジとリンゴを買った。
切る練習にはなるだろう。デザートにもなるし。
家に戻ると、シャワーを浴びて体を清潔に保つ。
部屋着に着替えて、髪を乾かした。
短くなった分、早く乾く。
大地君のお弁当を食べて、片付ける。
今日は肉団子だった。野菜も中華風で美味しかった。ご飯はごま塩がかけてあった。
毎日違うお弁当に、大地君を尊敬してしまう。
お弁当箱とマグカップを洗うと、まな板とお皿を出して、果物を洗う。
オレンジを切ったら、大地君のような美しい形にならない。
切り方が違うのだとすぐ気付いて、次はうまく切れた。包丁とまな板を洗うと、リンゴを半分に切って、8等分に切って、櫛と中心の種の部分を三角に切る。
母が切っていたので、リンゴはなんとか思い出せた。ラップをかけて、冷蔵庫の中にしまう。使った包丁とまな板は洗って、カゴに立てた。
少しお昼寝をして、洗濯物を片付ける。
病院は来週の初めに行かなくてはならない。
出血は多く続いている。不妊にならないといいけれど・・・・・・。
12週の胎児で検索してみたら、妊娠4ヶ月の初めだった。
堕胎は分娩になるようだ。
不正な方法で堕胎されたのだと、初めて知った。
赤ちゃんは強引に殺されてしまったのだろう。
心臓も手も足も骨もできていたのに、可哀想。やっと安定期に入るところだったんだ?
強引な堕胎で、次にちゃんと妊娠することができるだろうか?
好きな人ができたとき、その人の子供が産めないのは辛い。今回は分からない間に、堕胎してしまったけれど、認知してもらって慰謝料と養育費を払ってもらえば、赤ちゃんを育てることもできたはずだ。動転していて、考える前に手術されてしまった。
河村先輩は卑怯だ。
「ただいま」
「おかえり」
わたしは大地君が帰ってきて、玄関に歩いて行く。
「お疲れ様でした」
「体調はどう?」
「今日もお昼寝したわ。来週、病院行ってくる。1週間後に受診って言われているの」
「付き合おうか?」
「大丈夫よ。一人でできるわ」
「甘えてもいいんだぜ」
「いつも甘えているもの。これ以上、甘えられないわ」
大地君はわたしの顔をじっと見ている。
顔と言うより髪だろうか?
「今日、4年前に戻ってきたの」
「4年分ごと受け止められるぜ。俺は」
「何が?」
「なんでもない」
大地君は靴を脱ぐと、着替えを持って脱衣所に入っていった。
今日は暑かったから、きっと汗ぐっしょりになったのだろう。
お風呂から出た大地君は、スーツを部屋に持って行こうとする。
「スーツ、洗うよ。汗かいたんでしょう?」
「毎日、悪いよ」
「気にしなくていいよ。すぐできるし」
「それじゃ、頼んでいい?」
「勿論よ」
わたしはスーツを受け取ると、ポケットの中身を確認する。
ハンカチは洗濯カゴに入れて、お風呂場で桶にぬるま湯を入れて、おしゃれ着洗いで押さえ洗いをして、素早くすすぎ洗いと柔軟剤を入れて、もう一度ゆすぐ。桶の水気を切って、脱水にかける。
脱水を終えたスーツを脇に寄せて、洗濯機に洗濯物を入れて、洗濯を始める。
わたしの部屋から縁側に行くと、パタパタと生地を叩いて、綺麗に伸ばし、ハンガーにかける。
部屋から出ようとしたとき、大地君の部屋の扉が開いた。
「ご飯作るけど、手伝う?」
「うん」
わたしは大地君の後を追った。
冷蔵庫を開けた大地君は、果物が切られていることに驚いて、微笑んだ。
☆
大地君はお土産に、プリンを買ってきてくれていた。
食後に大地君がビールを飲んでいるときに、出してくれた。
わたしは大地君の横に座って、プリンを食べている。
「外回りの時に、女子社員が美味しいって言っていた店の前を通ったから買ってきたんだ」
「有名店なのね?とても美味しい」
「花菜ちゃんは知らない店?」
「わたし、みんなが噂をしているほど、世間を知らないの。話、聞いてくれる?」
「うん」
「わたしの家は母子家庭だったから家は裕福ではなかったの。母は誰にも文句を言われないように、ご飯は作ってくれた。忙しい仕事をしているから、手伝おうとしたけれど、わたしには勉強をしなさいって、台所に立たせてはもらえなかったの。高校も大学も母が行けと言うところに行ったわ。母の意地なのかもしれないと、わたしは気付いていた。だから母が希望する学校に行って成績はずっと上位を取った。大学では特待生になって、授業料免除を4年続けたわ。母の自慢の娘でいなくてはならなかったの。バイトをするなら勉強をしなさいという母だったから、遊びにも行かなかった。生活に余裕がないことは知っていたし、卒業旅行に誘われても行けなかった。大学卒業して会社に就職したら、母はやっと褒めてくれた。よく頑張ったって。マンションを借りるお金は、子供の頃から貯めていたお小遣いとお年玉貯金を使ったの。母を自由にしてあげたかったの。わたしのために寝る間も惜しんで仕事をしてきたから。だから誰にも頼らず、自分のお給料で節約して生活しなくていけなかったの。入社してすぐに河村先輩と同棲しちゃって、母には言えなくて。家にも帰れなくなってしまって。ものすごく申し訳ないなって思って過ごしてきたの。でも結婚できたら喜んでもらえると思っていたの。捨てられちゃったけどね」
苦笑しか浮かばない。
「会社では、いつも河村先輩と一緒にいたから、女の子の友達もできなくて、女の子が好んで行くお店を知ることはできなかった。楽しそうな話があっても、わたしを誘う人はいなかった。だから、誰とも遊びにも行ってない。4年間プリンやケーキも食べてなかったな。今思うとお誕生日祝いもなかったかな。そうね、・・・・・・河村先輩は居酒屋が好きで毎日のように行っていたわ。わたしはお酒が苦手で水を飲んでいたかな。居酒屋のジュースの値段を見たら、勿体なくて頼めなくてね。・・・・・・時々、美味しいお店に連れて行ってもらったくらいかな。わたしは父親の事を覚えていないの。だから男の人は河村先輩のような人だと思い込んでいたの。絶対的な存在っていうのかな?」
「花菜ちゃんの食事の量を考えると、居酒屋のご飯は、河村の物を少し分けてもらっていたくらいだろうな?」
「うん、そう。取り皿にご飯とおかずをもらって食べていた」
大地君は、ずっとわたしの髪を梳いている。
「家賃は折半?」
「家賃はわたしが払っていたよ。もともとわたしが借りた物だし、夕ご飯を食べさせてもらっていたから」
「花菜ちゃんの食べる量は知れてるよ。俺用のおかずを1コか2コ分けてるだけで、実際、一人分しか作ってないよ。だから家計簿は、マイナスだよ。小次郎爺ちゃんがいないから。かなりの減額」
「そうなの?」
「河村、ひょっとしたら自分のマンション借りてないかもね?」
「どうして?」
「男だったら、普通は女の子を連れ込むものだろう?転がり込むなんて、自尊心の塊みたいなあの人なら、しなさそうに思わない?」
「わたしは普通の男の人がどんな人なのか、分からない。学生時代にお付き合いしたことなかったし」
わたしは最後のプリンを口に運んで、カップをテーブルに置いた。
すっと目の前に、もう1コプリンが出てくる。
「食べなよ。俺、ビール飲んでるし」
「うん、ありがとう。こんなに美味しいプリンは初めてよ」
パッケージを外し、わたしは、またゆっくり食べ始めた。
大地君はずっとわたしの髪を梳いている。
こんなに長時間、髪を、頭を撫でられたことなんて、なかった。
こんなに優しく傍に寄り添ってくれる人も初めてかもしれない。
「今は別の誰かと住んでいるのかもね?」
「・・・・・・そうかもね」
その可能性もあるかもしれない。
わたしに飽きて、他の若い女の子と同棲しているのかもしれない。
「なんか悔しいな。赤ちゃん、ずっと欲しかったんだ。12週だったんだって。今日、スマホで検索してみたら、人工中絶は分娩になる時期なんだって。頭も手も骨も心臓もできている赤ちゃんで、本当はもう安定期に入る所だったんだって。それなのに、普通に堕胎されて、・・・・・・赤ちゃん、痛かっただろうな・・・・・・。生きてるのにバラバラにされて、無理矢理出されちゃって。・・・・・・すごく後悔してるの。もっとごねて、一人でも育てるって言えば良かった。なくしてからじゃ遅いけど・・・・・・。・・・・・・わたしが混乱している間に、病院に連れて行って堕胎させるなんて、酷い。・・・・・・悔しい。いくら別れた後に分かったことだとしても、考える時間くらいくれても・・・・・・」
甘くて美味しいプリンに癒やされているのに、心は悲鳴を上げている。
肩を震わせて涙を流すわたしを、大地君は後ろから抱きしめてきた。
空き缶が畳に落ちる。
力強い腕が屈み込みそうなわたしを、引っ張り上げてくれた。
今は甘えてもいいんだと、その力強さが教えてくれる。
わたしは食べかけのプリンをテーブルに置くと、大地君に抱きついた。
粉々になりそうな心が悲鳴を上げている。
助けて欲しい。
わたしの心の声が聞こえるように、大地君は強く抱きしめていてくれた。
逞しい胸を借りて、わたしは、今夜は一人で泣かずに、泣かせてもらった。
☆
目を覚ますと、居間で寝ていた。
隣に大地君が寝ている。
急に胸がドキドキし出す。
整った綺麗な顔立ちで、睫も長い。
昨夜のわたしは号泣してしまった。
感情のコントロールができなくなって、大地君にしがみついて、ずいぶん泣いた。
そのまま寝落ちてしまったのだろうか?
大地君はわたしを抱きかかえるように眠っている。
こんなふうに抱きかかえられたまま目覚めたのは、初めてだ。
ぎゅっと抱き寄せられて、距離がもっと近づいた。
大地君の胸に頬があたる。
わたしはまた目を閉じた。
大地君の心音を聞いていたら、また眠くなってきた。
次に目覚めたら、大地君がわたしを見ていた。
ニッと笑って「おはよう」と声をかけられた。
「おはよう」
「よく眠れた?」
「うん」
「今日は木の伐採はお休みして、ドライブに行こう」
「どこに?」
「山の方」
わたしは起き上がって、頷いた。
時計を見ると、もうお昼だった。
「こんな時間まで、ごめんなさい」
「体調が悪いときは、眠った方がいいんだぜ」
「うん」
「着替えて来いよ。俺も顔洗って着替える」
「うん」
洗面所を順番に使って、顔を洗うと、わたしは薄化粧をして半袖の紺色のワンピースを着た。その上から白いカーディガンを羽織った。
派手やかな色の服を着る気持ちにはなれなかった。
髪はそのまま下ろした。
バックを持って居間に行くと、大地君は、おにぎりを作っていた。ラップで1コずつ分けている。
「花菜ちゃん、どこかに紙袋あるかな?」
「紙袋?」
「おにぎり入れたいんだ」
「わかった」
小さな手提げの紙袋を持ってきて、大地君が作ったおにぎりを入れていく。
水筒は二人の分が用意してあった。
「おにぎりは山で食べよう」
炊飯器の釜を水に浸けて、「さて、行こう」とわたしを誘った。
今日の大地君は、わたしの婚約者のフリをしたときと同じ洋服を着ていた。
おにぎりの袋と水筒は、リュックに詰められた。
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