第238話
「ふぅ、今日も一日お疲れ様だな、トリスタン!」
店の扉を閉めたアランは、額の汗を拭って爽やかな笑顔を浮かべながら奥のパン工房に籠るトリスタンに声をかける。しかし、工房から声が返ってくることは無かった。アランが工房へと顔を出すと、そこにはひたすら洗い物にはげむトリスタンの姿が。
「トリスタン、おーい? トリスタン!」
「うっ! ……あ、兄さん」
ゼロ距離まで詰め寄り、ふかふかの灰色の耳に向かって思いっきり大声を浴びせられたトリスタンは尻尾の毛を逆立てて驚いた後、我に返ってアランの方を見る。
「何か呼んだかい」
「呼んだかい、じゃないさ」
アランは腰に手を当てて嘆息した。
弟のトリスタンは生粋の職人肌であり、黙々と作業に没頭する性格だ。店の表に立つには向いていないが、パンを作らせたら王都随一の腕前であるとアランは思っている。
「なあ、今日の視察の成果、どうだと思う? エア・グランドゥールに出店できたらいいよなぁ!」
アランは灰色の耳をピンと立てながら、思いを馳せた。
空の上に浮かぶエア・グランドゥールはグランドゥール王国と世界とを繋ぐ重要な交通の要衝。この王都の中心街以上に様々な人が行き交う場所だ。エア・グランドゥールから旅に出る事に憧れを抱いている王都民も多く、貴族の中でさえエア・グランドゥールから旅行をするとなれば一種のステータスになる。
そんな場所に、自分達の店を出せるかもしれない。アランの胸は、かつてこの店を父親から継いだ時と同じくらいに夢で膨らんでいた。
王都中心街に店を構えるというのは大変だ。ライバル店は多いし、賃料は高いし、客の舌は肥えている。そんな場所で過酷な競争を勝ち抜くためには、常に工夫を凝らす必要があった。
トリスタン達フゥファニィ家の売りは、クロワッサン。かつて父は中心街ではなく、少し離れた場所で店を経営していた。厳選した素材を使って丁寧に焼き上げたクロワッサンは人気を呼び、さらにある商品によって噂が爆発した。
それこそが今店の看板商品となっている、数種類のフレーバーのクロワッサンだ。
苺<フレーズ>、アールグレイ、カボチャ。
生地に練り込まれたそれぞれの風味は、軽い口当たりのクロワッサンによくマッチしていて非常に美味しい。クロワッサンに新たな味を追加するというのは斬新な手法で、唯一無二のそのクロワッサン達は人気を博し、売れに売れ、とうとう中心街に店を移すまでに至った。
父が高齢になったため、今ではアランとトリスタンの二人が先頭に立ち店の切り盛りをしている。
二人でパンを作り、売り子として雇用している従業員と共に店を盛り上げる。おかげさまで激戦区である中心街でも安定した人気を博していた。
「……けど、エア・グランドゥールかぁ。そろそろ花祭りもあるし、ここらで他の店と差をつける、何か新しい商品を作りたいところだよな」
アランは考える。彼らが他にどんな店に視察に行ったのかはわからないが、ライバルは大勢いる。老舗の店から新進気鋭の店まで、王都には山のようにパン屋があるのだ。主食がバゲットの国であるから、当然である。
「皆があっと驚くようなパンを作りたいよなぁ」
「……確かに、ずっと同じものだと、飽きられるかもしれない……」
「お、トリスタンもそう思うか」
パン工房の台座に身を預け、腕組みをしていたアランは弟のトリスタンにぐっと上半身を近づけた。
「生地に練り込むためには、乾燥させて粉末状にしないといけないから……中々難しいよね」
「そうなんだよなぁ」
アランは弟の言葉にうんうんと頷く。
苺、アールグレイ、カボチャの三つはなんとか粉末状にするのに成功したものの、新しいものとなると難しい。色々試してはいるのだが、どうにも美味しいクロワッサンが出来上がらない。
あーあー、とアランは腕組みをしたまま天井を見上げた。
工房内を照らす魔法の明かりを見つめながら、考えること数分。いい考えは何も思い浮かばない。弟は黙々と閉店作業を進めている。
「……よし」
アランは首を戻してトリスタンを見ると、言う。
「ひとまず、そのエア・グランドゥールに存在している店を見に行ってみないか?」
「え、今から?」
「まさか。明日だよ」
「明日……? 急だなぁ……」
前髪の隙間から覗く顔は、驚いている。エア・グランドゥールは中心街から郊外まで馬車で行き、さらに飛行船に乗らなければ辿り着けないので、中々に遠い。
「ちょうど明日は店休日だし、行くぞ!」
「ま、待って兄さん……!」
アランは早々にエア・グランドゥールへ行くことを決めると、さっさと閉店作業を終わらせにかかった。
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本日、異世界ビストロのコミックス1巻が発売になります。
週末のお供に、ぜひお買い求めください。
島田先生による特典も用意されています。私もコメント寄せさせていただきました。
https://comic-growl.com/article/bisutoro
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