第235話 アーニャの受難②

 王都中心街。春の花が芽吹く季節に、人のざわめきも次第に大きくなる。

 この都が最も美しく輝く季節を目前に、誰もが浮き足立っていたが、アーニャは一人縮こまっていた。

 パン屋に併設するカフェで腰を落ち着け、カフェ・オ・レと共にパンを頂く。

 皿に乗っているのはクロワッサンだ。しかしその色合いは普通のものとは一線を画している。

 苺の味のクロワッサン。

 ブーランジェリー、フゥファニイ・フェレール<フゥファニイ兄弟のパン屋>では、数種類の味わいのクロワッサンが人気を博している。


「成程、これが王都で今人気のクロワッサンか」

「珍しさだけではなく、繊細なクロワッサンの生地をとても丁寧に作っていますね」


 ロベールとエアノーラはクロワッサンを食べながら味を品評していた。直径八センチほどの小さめに焼かれたクロワッサンは口当たりがとても軽く、ついつい何個も食べたくなってしまう味わいである。

 実際三人は通常のクロワッサンに加え、店の売りであるフレーバークロワッサン、苺、アールグレイ、カボチャの三種類全てを試食していた。


「こうやって一人に何個も買ってもらう目的で、わざとクロワッサンを小さく作っているのだろうな」

「これなら中心街での食べ歩きにもぴったりの大きさですね」


 ロベールとエアノーラは至極真面目にクロワッサンを味わいつつ、意見を交わす。

 しかし、アーニャは今、評判のクロワッサンを味わうどころではなかった。


(私……今っ、部門長と殿下と一緒のテーブルで食事している……っ!)


 目上の二人に挟まれるようにして食事をしているアーニャは、緊張しすぎてクロワッサンの味などまるでわからなかった。それどころか王都でも指折りの評判である店自慢のクロワッサンに対し、怒りすら覚えていた。


(あううううっ、どうしてこの店のウリはクロワッサンなのっ!? ちぎるとカスが飛び散るし、唇に生地がくっつくし、とてもじゃないけど優雅に食べるなんてできないわ!)


 アーニャは後悔していた。友人であり行きつけの店の看板娘ソラノのように、自分も優雅な食事所作をもっと真剣に覚えるべきだったと。

 しかしそんなアーニャの心の葛藤などどこ吹く風で、エアノーラとロベールの二人はクロワッサンの味、価格、店の内装や外装、店員の態度、客層に至るまでつぶさに観察している。


(だめよ、私。こんなんじゃ……部門長みたいな立派な職員になんてなれないわ。冷静になって、この店がエア・グランドゥールに相応しいかを観察するのよ)


 そうやって自分を鼓舞し、震える手でクロワッサンを引きちぎって口へと運ぶ。

 外はサクサク、中はしっとりふわふわに焼き上げられたクロワッサンは見事な出来栄えで、噛み締めるとほんのり甘みがする。味に集中していると、少しだけ緊張が薄れてきた。 ここが本日視察を予定していた最後の店で、先の二店舗に比べると多少慣れが出てきたと言うのもあるかもしれない。

 とはいえ、未だアーニャはロベールに対して途方もない距離を感じているが。


「アーニャ、いつまで食べているの? もう出るわよ」

「は、はいっ、すみませんっ」


 気がつけばエアノーラとロベールの二人はとっくにクロワッサンを食べ終えており、あとはアーニャのみとなっていた。大変な失態だ。アーニャは優雅な所作を忘れ去ってクロワッサンを大きく一口で放り込むと、カフェ・オ・レで流し込む。

 品位に欠ける食べ方にエアノーラは眉を顰めたが、咎められはしなかった。

 ロベールはアーニャの取り乱しまくっている行動に別段気を悪くした様子もなく、席を立つ。

 するとパン屋の店員が明るい笑顔を浮かべながら近づいてきた。二十代半ばほどの、くるくるした栗毛とそばかすが目立つ健康そうな青年で、巻き毛の頭からは灰色がかった耳が生えている。犬耳族だ。


「当店のクロワッサンの味はどうでしたか?」

「中々良かったわよ」

「王城で提供しても遜色ない味わいだった」

「それは良かった。天下に名高いエア・グランドゥールの方のご視察ということで緊張していたんですが、お墨付きをいただいたようでホッとしました」


 この青年の胸に留められているネームプレートをアーニャはちらと見た。アラン・フゥファニイーーこのブーランジェリー・フゥファニイ・フェレールフゥファニイ兄弟のパン屋の店長だ。

 アランは目の前の二人がどのような身分、立場の人間なのかを知った上で、こうして気さくな態度を示している。それは先の二店舗とは大きく異なっていて、アーニャを軽く畏怖させた。


「よろしければこれ、空港の皆さんで召し上がって下さい」


 そう言ってアランは店自慢のクロワッサンがこれでもかと詰め込まれた紙袋を渡してくる。アーニャは慌てて受け取った。


「またのご来店、お待ちしています!」


 元気な声に見送られ、三人でフゥファニイ兄弟のパン屋を後にした。

 花と緑の都はその名に恥じぬ景色となっており、街頭についている花籠からはピンクや水色、薄紫といった色とりどりの花が溢れんばかりに咲いている。

 縫うように中心街を歩き、三人はロベールを待っている馬車の前へと行く。本日三人は乗合馬車ではなく、ロベールを乗せる王族専用の馬車で王都の郊外から中心街までやって来ていた。


「乗りたまえ」


 ロベールが命じるまま、御者のエスコートの手を取って馬車へ乗り込むエアノーラとアーニャ。

 人生でもう二度と乗らないであろう、王族専用の馬車へと乗り込んだアーニャは、そのあまりの乗り心地の良さと馬車の中とは思えない程に広く快適な空間に目眩を覚えた。

 快適なのに、居心地が悪い。

 根っからの庶民で小心者のアーニャとしては、一刻も早くこの馬車を降りたかったが、エアノーラは全く動じていなかった。きっと何度か視察を共にし、乗ったことがあるに違いない。二人は向かい合わせになって座り、アーニャはエアノーラの隣に縮こまって腰を下ろした。アーニャに構わず、二人は会話を続ける。


「ふむ、どこの店も良いものを提供していたな」

「左様でございますね」

「エアノーラはどこの店が気に入ったか?」

「そうですね……」


 エアノーラはロベールに問われ少し考える。それから口を開いた。


「二店舗目のドメール・ルモワが宜しいのではないかと」

「成程な」


 ロベールは深紫色の瞳を細め、面白がるような声音で相槌を打つ。


「老舗ブーランジェリーとして中心街でもう五十年も店を続けておりますし、味にしっかりとした方向性を感じます。日持ちする焼き菓子も多く取り揃えていましたし、土産として購入していく層も狙えるかと」

「君はどう思うかね」

「えっ、わ、私ですか」


 唐突に意見を尋ねられたアーニャは驚きのあまり耳がピャッと立ち上がってしまった。ハーフ獣人にとって耳や尻尾は感情を表現する一種の手段であり、無意識のうちに気持ちと連動してしまう。

 背筋を伸ばしたアーニャは、おずおずと口を開いた。


「私は、フゥファニイ・フェレールが良いかと……フレーバークロワッサンというのは面白いアイデアでした」

「フゥファニイ・フェレールもコンセプトとしては確かに面白いけれど、少しインパクトに欠けるわ。日持ちもしないし、かといってヴェスティビュールのバゲットサンドのように飛行船内で食べる程のボリュームも無い。空港に誘致しても、売れ行きは微妙でしょうね」


 肩をすくめるエアノーラの意見は非常に的確だ。アーニャは先ほど受け取ったクロワッサンがたっぷり詰まった紙袋に視線を落とす。確かに美味しかったけれど、それだけではダメなのだと思い知らされた。

 中心街で売れているからといって、エア・グランドゥールでも成功するとは限らない。

 空港という場所にふさわしい商品を売っているかどうか。それを見極めるのが、商業部門の仕事だ。

 馬車は郊外に向かって進んでいく。

 やがて馬車は郊外の空港へと着き、そこからは飛行船に乗り込んでエア・グランドゥールへと向かう。

 やはり三人で席へと着くと、一時間弱という短い空の旅を楽しみ、そしてようやくエア・グランドゥールへと帰り着こうかというその時。ロベールが不意にこんな事を言い出した。


「大変なことに気がついたぞ、エアノーラ」

「なんでございましょうか」

「第一ターミナルに存在するビストロ店、私は入った事がない」


 腕を組んだロベールはそれから至極真剣な顔で言葉を続ける。


「空港の目玉となる、第三のエリアの誕生が誕生するというのに、その鍵となる店に行った事がないというのは問題だ。ちょうど腹も空いていたし、よし、この後向かうぞ」


 腹が空いていたって、先ほどまで三つも店を周り、しかも殿下は誰よりもパンを食べていたではないか。

 アーニャは声にできないツッコミを心の中で処理し、この不穏すぎる事態を黙って見守った。エアノーラは懐中時計をポケットから取り出して時間を確認した後に首を小さく横に振る。


「大変申し訳ありませんが、殿下。私はこの後に出席しなければならない会議があり……よろしければアーニャを貸し出しますので、どうぞ店へお連れください」

「えっ」

「そうか、ならば仕方がない。よし、アーニャ君、案内をよろしく頼む」


 えええぇ!? という叫びをアーニャはかろうじて飲み込んだ。

 この上殿下と二人で、一体何を話せというのだ。上司からの限界を超えた無茶振りにアーニャは胃が痛くなるのを感じたが、断るという選択肢は存在しない。

 上司であるエアノーラに命じられ、空港でも国でもトップに君臨するロベールに「頼む」と言われたら、アーニャはもう頷くしかないのだ。

 かくしてアーニャは半べそになりそうなのを堪えつつ、引き攣った笑みを浮かべながら、


「……僭越ながらご案内させて頂きます、殿下」


 と言ったのだった。


+++

コミカライズ5話更新されました。

https://comic-growl.com/episode/2550689798749805237

アーニャが可愛いです。

そしてラストにあの人が登場……?

見知ったキャラが漫画になって動いている!上のサイトをポチッと押して確認だ!

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