第226話 閉店後の罠
ミーティアは公爵令嬢として常に規則正しい生活を送っていた。
朝は早く起き、夜会がある日などはともかくとして、夜は早めに眠る。
しかしヴェスティビュールの閉店時間は夜遅く、いつもであればミーティアがベッドに入ろうかという時間に賄いを食べることになる。
おまけに出てくる料理がーー
「おし、じゃあ今日の賄いはガリバタバゲットとリゼットのチーズソテーな」
そうして用意されたのは、ガーリックバターがたっぷり塗りつけられて焼かれたバゲットと、青魚であるリゼットにたっぷりとチーズがかけられて焼き目をつけたソテー。
一日中目まぐるしく働いた後のこのニンニクとバターの香り、そしてリエットを覆い隠すほどにたっぷりと使われ、とろりととろけたチーズの見た目はもはや暴力的ですらあった。
料理を前にしてミーティアは自分がとてつもなく空腹であることに気がついた。
空腹を感じるなんていつぶりだろう、もしかして生まれて初めてかもしれない、と考える。
公爵家では朝昼晩に加えてティータイムが存在しており、時間になればいつでも十分すぎるほどの食事が出て来る。おまけに最近はろくに体を動かしてなかったので、お腹が空くことなどなかったのだ。
そんなミーティアにとって、このレオという青年が差し出してくれる賄いはたまらなく魅力的だった。公爵家では出て来ることのない、たっぷりとみじん切りにしたニンニクとバターが塗られた厚切りのバゲット。これでもかと使われたチーズ。
きっと今、これらの食事を口にすれば、未だかつて感じたことのない幸福感を得られるに違いない。
空腹状態のミーティアは本能が命じるままにふらふらと匂いにつられ、カウンターに近づこうとした。が、そんなミーティアの腕を掴んだ人物が。
「ソラノさん……」
「ミーティアさん、気持ちはわかりますけどダメです」
ソラノの黒い瞳は「それ以上料理に近づいてはならない」と訴えていた。
「レオ君、私たち別で食べるからそれは遠慮しておく」
「チッ……もう少しでつれそうだったのに」
レオは悔しそうに舌打ちをしてから料理を引っ込ませた。
ソラノは自ら厨房に立ち、至極残念な顔をしているミーティアへと話しかける。
「ミーティアさん、こんな時間にあんなに油っぽいものを食べたら、今日の苦労が水の泡ですよ。私たちはダイエットをしている、そのことを忘れてはいけません」
「そ、そうでしたわ……!」
ミーティアがこの店で働いている目的は、痩せるためだ。ここで本能の赴くままにバターやらチーズやらを食べてしまっては何にもならない。そのことを思い出させてくれたソラノに感謝をしつつ、彼女は一体何を作っているのだろうと見つめる。
ソラノは迷いのない手つきで何かを作っていた。
青々としたリゼットを手に取ると、切り込みを入れて塩を振り、少し時間を置く。白い粒々としたものを洗ってから水と一緒に鍋に入れて火にかけ、かと思えば今度は四角く柔らかそうなチーズのようなものを切って汁物らしきものを作る。
それからリゼットを洗うと再び塩を振り、少量の油を引いたフライパンの上で焼き始めた。良い香りを放つリゼットは中までしっかり火を通すと、特にアレンジを加えずにそのまま平皿の上へと盛り付けられる。
「私思ったんですけど、この国の食事は基本的にカロリー高めですよね。だからやっぱり、ダイエットするなら和食が一番です。はい、出来ました」
「和食?」
ミーティアの前に差し出されたのは、馴染みのない料理だった。
手前には汁物とライス、そして平皿には焼いたリゼット。たっぷりとしたサラダもついている。
「システィーナさんもそうでしたけど、貴族の方って和食あんまり食べないんですね。ヘルシーなのでダイエットにぴったりですよ、はい、一緒に食べましょう! 今日の私たちの賄いは、鯖の塩焼き定食です!」
「さ、さば……?」
聞いたことのない単語にミーティアが問いかけると、ソラノは焼いたリゼットを指し示した。
「思ったんですけど、このリゼットって味が私が知っている鯖そのものなんです。ちょっと小さめの鯖ですね。なので塩焼きにしたらシンプルに美味しいんじゃないかなって。食べてみてください」
そうしてソラノにナイフとフォークを手渡され、ミーティアはどうすればいいのだろうとソラノを横目で見た。ソラノは「今日は私もナイフとフォークで食べます」と言い、「さばの塩焼き」なる料理にナイフを入れた。一口大にほぐしたそれを口にいれているのを見て、ミーティアも真似てみる。
切ってみるとほかりと湯気がのぼり、内部がまだ熱々であることがわかる。小さくした身を口にする。
ーー瞬間ミーティアは、未だかつてない味覚に襲われた。
青魚は生臭いため基本的にチーズや酸味の強い味付けで出てくるのが普通だが、ふっくらと焼き上げたリゼット、いや、「さば」は塩のみを効かせた非常にシンプルな味わいである。しかしそのシンプルさが「さば」の味を際立たせていた。独特の臭みは完全に消えており、代わりにその味わいだけが残っている。不思議だったが癖になる味わいにミーティアは虜になった。
「お、美味しいですわ……」
「よかったです。鯖の塩焼きはご飯に合うんですよ。白米食べたことありますか?」
「いえ……屋敷ではパンが主流ですので……」
「じゃあ、ぜひ食べてみてください。土鍋で炊いたご飯は別格の美味しさです」
勧められるがままにライスに手を伸ばす。
「…………!」
艶々とした光沢が美しいライスは、噛むほどに甘みが出てきて味わい深い逸品だった。
「美味しい……ソラノさんは料理人でもいらっしゃったのですね!」
「いえ、私は家庭料理専門です」
「ですが、とってもお上手ですわ。このスープも風味が独特ですけど、なんだかホッといたしますわ。具材の白い四角いものはなんですの?」
「これは豆腐です。大豆という豆から出来ていて、低カロリーでヘルシーなんですよ」
「まあ、ダイエットに最適な食材ですわね」
全く初めての食材と味付けだがすんなりと受け入れることが出来るのは不思議だった。並んで座ったソラノに説明を受けながら食べる夕飯はなんだか新鮮で、あっという間に食べ終えてしまったミーティアは満足感でいっぱいだった。
「とても美味しかったですし、楽しいお食事の時間でした」
「良かったです。じゃあ、閉店準備をしましょうか」
立ち上がったソラノと共に、今度は店の後片付けをする。生まれて初めて持ったモップはとても重たかったが、懸命に床を擦って汚れを落とす。
やがては店が綺麗になり、ソラノを筆頭にして店の人々に「お疲れ様でした」と言われたミーティアは充実感で胸をいっぱいにしながら迎えにきた護衛に連れられて店を後にする。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「さぞお疲れでございましょう、湯浴みをどうぞ」
「ええ」
屋敷に着くと使用人に出迎えられ、ミーティアは一日の疲れをゆっくりと癒す。
「お嬢様、本日はいかがでございましたか?」
「とても楽しくて勉強になった一日だったわ」
入浴を済ませてさっぱりとした後、髪をくし削る使用人に向かって答えた。この使用人も、ミーティアの帰りを待ってこうして深夜にもかかわらず世話を焼いてくれているのだと思うと、感謝の気持ちが込み上げてきた。
今日だけではない。
最近塞ぎ込んでいたミーティアに、家の人たちはずっと優しく声をかけてきてくれていた。
流行りの服や宝石、美味しいお菓子や料理。工夫を凝らしてあの手この手でミーティアの気持ちをどうにか上向きにしようと努力してくれていたのに、ミーティアは自分のことばかりを考えて彼らの優しさを蔑ろにしてしまっていた。
なんて浅はかで子供じみていたのだろう、とこの一年の己の振る舞いを恥じる。
「働くって、大変なことなのね……わたくしちっとも知らなかった。いつも、ありがとうね」
「そんな、恐れ多いです。私達はお嬢様が幸せそうに笑う姿を見るだけで、満足なんですよ」
「なら、わたくし、もっと頑張るわ」
「ええ。ひとまず本日はもう、おやすみなさいませ」
身支度を終えたミーティアはベッドに入って照明を落とす。
心地よい疲労に支配された体は休息を求め、あっという間に眠りに落ちていた。
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