第211話 クララさんは葛藤する
(どうしてここにバッシさんが……!!)
クララは驚愕した。その驚きたるや、未だかつて人生で経験したことがないものだった。あまりのびっくり具合にここが店で、今クララは客席に向かってお酒を運んでいる途中であるということすら忘れ、ただただ立ち尽くす。そんなことはこの店で働き始めてから初めてのことだ。
どんな理不尽な客が来ようが、酔っ払った冒険者に絡まれようが接客に務めるクララは今……素の自分がむき出しになっている。
なんでここにバッシが? え? なんで??
もはや他のことなど考えられない。動揺しながらもお盆を支えた腕が一ミリたりとも動かないのは完全に習性によるものなのだが、クララの目にはバッシしかうつっていなかった。
バッシはこちらを見て、やはりクララ同様驚きに目を見開いていた。
そうだ、クララはバッシの前ではもの静かな女性の皮を被っていたのだ。それが今やどうだろう。両手にありえない量のジョッキを運び、冒険者のどら声が飛び交う店内をのっしのっしと歩いているではないか
自分がネコを被っていたのが……バレてしまう!!
クララは迷った。今すぐに踵を返して知らんぷりをするべきか? それとも膝からくずおれて、「あっ、重すぎて腕が……!」などと言ってあくまでもか弱さをアピールするべきなのか。
しかしそんなクララの心の葛藤を知ってか知らずか、第三者により声がかけられた。
「おいーっ、こっちの酒、まだかぁ!?」
「アッ、すみませんねお客さん。クララちゃん、早いとこ持って行っちゃってよ、何してんのォ!?」
頼んだ酒がなかなか来ないのでしびれを切らした冒険者が声をあげ、それに反応した青天の霹靂亭の店主が謝罪をする。微動だにしないクララを不審に思った店長が、どっぷりふちまで注いだジョッキを持ってクララの元へとやって来た。
「ちょっとクララちゃん、お店忙しいんだからそんなところでぼーっとしてないで……って、あらぁ!?」
店長は固まっているクララを見、同じく固まっているバッシを見、そしてもう一度クララを見た。やばい。クララの背中を冷や汗が伝う。長らく接客をしている店長の観察眼は、もはや神がかっている。この目の前の男性とクララとの関係を一瞬で把握した店長は、低い声で黄色い悲鳴をあげた。
「キャーッ、ちょっとちょっと、もしかしてこの人がクララちゃんの婚約者さん!?」
「おい、エールまだかよぉ!?」
「あっ、ごめんなさいねお客さん! 今持っていくから! ホラホラ、クララちゃん。婚約者さんとの時間はあとで取ったげるから、この待たせたお詫びのエールとともにさっさとお客さんとこに持って行ってちょうだいな!」
言って店長はさらにクララの持っているお盆のてっぺんにエールをそっと乗せ、また他の作業をするべく戻っていく。
それは普通の人間ならばおおよそ持てる量ではない。その証拠に、バッシの向かいに座っているソラノが目を丸くしてこちらを見ていた。
ここで乙女アピールをしたければ、「もう、店長! 私こんなに持てませんよー!」と言うべきなのだろう。
しかしこの店は……今、ピークタイムを迎えており大混雑していた。あちこちで追加注文する手が上がっており、誰も彼もが大忙しで客席の間を駆け回り、料理と酒をお届けし、空いた皿を回収している。
人手が圧倒的に足りていない状況だ。今は気まぐれで気分屋として有名な猫妖精<ケット・シー>の手すら借りたいほどの忙しさである。
そんな中、クララは己のバッシの前で印象付けていたイメージを維持し続けるべくか弱い乙女の振りをするなど、到底出来る事ではなかった。
乙女の矜持と、店での役割。
二つを天秤にかけたクララは後者に秤が傾くことに気がつきーーそして、バッシににこりと極上の接客スマイルを浮かべ、言った。
「なんだぁ、来るなら来るって、前もって言ってくれればもっといい席用意したのに! ちょっと忙しいから、話はまた後でね!」
そして大股でバッシの横を通り過ぎると、ジョッキの載った盆を豪快にテーブルへと置く。
「お待たせーっ、お詫びのエールとともに、ジョッキ二十五個だよっ!」
おそーい、待ってました、などの声が次々に上がる中、クララはお詫びをしてから他からかかった注文の声に応えるべくその場を去る。
ちらりと見たバッシは、哀愁漂う背中で店から出ていくところだった。
心の中で思った。
(あぁ……終わったわ。さようなら私の結婚生活。こんにちは今まで通りの独身生活……)
「クララちゃーん、次はこれ運んで!」
「あいよぉーっ!」
クララは半ばやけくそのような気持ちで腹の底から声を出した。
+++
がたり。椅子を引く音でソラノは我に返った。
「あ。バッシさん? どこへ……」
「…………ちょっと店に戻る」
俯いているバッシの表情はソラノからはよく見えない。ただその声はいつもに比べると異様に低かった。バッシは代金を多めにテーブルの上へと置くと、そのまま去っていく。
ソラノはそんなバッシの背中を見送り、レオを振り返った。
「どうしよっ? バッシさんショック受けたのかな!?」
「あー、そんな感じだなー」
レオは椅子をそっくり返しながらのんきにジョッキを傾けている。
「クララさんだっけ? なんかバッシさんの話に聞いてた人とずいぶん違ったな。まあ冒険者用の酒場で働いてるような人間が大人しいわけないだろと思ってたけど」
「追いかけた方がいいよね」
「どうだろうな。そっとしておいた方がいいかもしれないぜ」
レオはあくまで深入りするつもりはないらしく、旨そうにフリットをサクサクしていた。この状況で料理を楽しめるというのはなかなかに図太い神経だ。もうソラノはフリットを美味しく頂けるような気持ちではなくなっている。去り際に見せたバッシのなんとも言えない表情が気になって気になって仕方がなかった。
「レオ君、ホラッ、お店戻るよ!」
「待てよ、せっかくだから食ってからにしよーぜ。もったいねーだろ。ソラノだって店に来た客が料理残して帰ったら悲しいだろ?」
レオの正論にソラノはたじろぐ。確かに提供された以上、全て平らげるのがお客のマナーだ。残されたら悲しい。それは店で給仕をしているソラノに痛いほどわかる感情である。
よってソラノとレオは、テーブルの上に残る料理をきっちり美味しく平らげてから店へと戻り、バッシの様子を見に行くことにした。
「バッシさんいる?」
「おう。奥でゴソゴソしてる気配がする」
「何してるんだろう……やけ食いかな?」
「なんか作業してるみてーだな」
店へと戻った二人はそっと扉を開き、中の様子を伺った。閉店後の店内は薄暗く、ガランとしている。背の高いレオがバッシが何をしているのか探りを入れたのだが店の奥に引っ込んでいるらしくよく見えない。時折ガサガサと音がすることから、何かをしているのは間違いがないようだ。
二人は顔を見合わせ、一つ頷くと店の中へと足を踏み入れた。
そしてソラノが遠慮がちに声をかける。
「バッシさーん……あの……」
「おう、ソラノか」
「何してるんですか?」
「ん?」
厨房にいるバッシは、何やら細長い糸を持っていた。まさか、自殺? クララさんのギャップにショックを受けたあまりに首吊り自殺をしようとしているのか? ソラノの顔がさっと青ざめ、叫んだ。
「バッシさん、早まらないでください!!」
「ウォッ、な、何だ!?」
バッシの手から糸を奪い取ろうと突進して来たソラノにバッシが面食らい、両手を頭上にあげてさっと糸を遠ざけた。
「ダメですっ、早まらないでください! 確かにクララさんは思っていたのと違う人でしたけど、きっといい人ですって!!」
「落ち着け、ソラノ!」
「おいソラノ、バッシさんが困ってるからやめろよ」
「レオ君も見てないで、バッシさんの自殺を止めてよ!」
ソラノが手を伸ばしても、バッシの肩ぐらいまでしか手が届かない。絶望的な身長差である。ソラノより遥かに背が高いレオに助けを求めて見たが、レオは「はぁ??」と言って首を傾げた。
「自殺? 何言ってんだよ」
「だって、糸、糸! 首吊り自殺でしょ!?」
「お前なぁ、バッシさんの手元をよく見てみろよ」
「手元っ!?」
言われてソラノはキッチン台の上を見た。そこにはごろりとした、ハムの塊が。
「……あ……」
「巻いてあった糸を取ってたんだ」
「何だ……」
騒いだ自分が恥ずかしくなり、あげていた手をおろして何となく締まりの悪い笑顔を浮かべてごまかしてみる。そんなソラノに構わずに、レオが首をかしげた。
「何でこんな時間にハムの巻き糸とってるんだ? まさか丸ごと食うのか。やけ食いか」
「いや、ちょっとな」
言ってバッシは視線を左右にさ迷わせ、拳を握ったり閉じたりする。そして咳払いをした後、「ちょっと手伝って欲しいんだ」と二人に向けて言った。
ソラノとレオは話を聞き、一も二もなく頷いた。
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