第194話 仮面の男と思い出の味①

 相変わらず午前は空港にある小さな店の手伝いをし、午後は商業部門の仕事をこなす、という日々が続いている。取るに足らない内容の仕事ばかりであるがイオネッタの望んでいる通り信頼を勝ち取る事は出来ていそうだった。

 

「お疲れ様です、今日もありがとうございました」


 やたらに元気なソラノという子が本日も労いの言葉をかけてくる。


「本日の賄いです、どうぞー!」


 頼んでもいないのにトレーに乗った料理を運んで来たソラノは、それを従業員の休憩用の狭いスペースへと置いた。ちらりと見たハウエルは思わず顔がこわばる。


「……これは」


 煮込まれた黒麦の粥に、スライスされたアルヴァのチーズ。

 ここで食べられるはずもない料理だった。

 思わずソラノの顔を仰ぎ見ると、なぜだか自慢げな表情をしている。


「あれから気になって気になって、探したんですよ、アルヴァのチーズ! そうしたら異国街ってところにあったんです。ついでに製粉されてない黒麦も見つかったんでラッキーでした」


 ゆっくり食べてくださいと言って接客に去って行くソラノ。ハウエルは少し戸惑いつつも椅子を引いて座り、今しがた供された料理に向き合った。

 黒麦の粥もアルヴァのチーズも西方諸国ではありふれた食べ物だ。とはいえ、一角山羊のチーズは庶民が毎日食べるには贅沢な代物なので、せいぜいが月に二、三回口にできればいい方だった。

 イオネッタの元で働くようになってからは金銭にゆとりが出来たハウエルだったが、このアルヴァのチーズを買ったことは一度もない。

 はっきりとした理由を問われれば答えに窮する。なんとなく避けていた、というのが一番しっくりくるだろう。

 なんとなく、このチーズを見るといつも亡き妻のことを思い出してしまい買う気にならなかったのだ。この間チーズのことを言葉にしたのは完全に無意識のなせる技だった。食べ慣れていない人からすれば見た目も味もよくないアルヴァのチーズが、まさかこの国で手に入る代物だとは思っていなかったし、よしんば売っているにしたってわざわざ探しに行くとは想像だにしていなかった。


 スプーンに手を伸ばして粥をすくう。

 塩気のみが効いた、黒麦の独特の味わいが口の中にダイレクトに広がった。

 驚くほど故郷で食べた味わいに似ている。小洒落た料理ばかりを出すこの店で一体どうしたらこんなシンプルな味の料理を作れるのだろうか。


「おっさん、上手いか?」


 複雑な気持ちで咀嚼をしていると、店の接客係の青年のレオが声をかけて来た。


「西方諸国の黒麦粥の味に瓜二つだろ」


「……」


「俺、冒険者やってたから西方諸国に行ってた時があってよ。そん時に食った味を思い出して再現したんだぜ」


「君が」


 そうそう、とレオは厨房の台にもたれかかり、腕を組んで頷いた。


「あいつさぁ、この黒麦の粥を再現したいっつって俺に頼み込んできて。でも俺は正直気が進まなかったんだけどさ、店の高級ワイン一本で引き受けた」


「この料理を再現するためだけにワインを?」


「おう、馬鹿げてるだろ。それだけじゃないぜ、このチーズだって休日潰して探し回ったんだとよ。しかも定価の何倍もの値段をふっかけられて買ってんだぜ」


「……理解しがたい行動だ」


「俺もそう思う。ソラノは大体においてお節介で阿呆だ」


 言いながらもレオの表情は満更でもなさそうで、それは困った仕事仲間をフォローしているようにしか見えなかった。


「まあそんなわけだから、味わって食ってくれよな」

 

 言うだけ言ってレオは客席の方へと去って行く。ハウエルは再び自身の前に置かれた賄いに視線を戻す。スプーンを置いてフォークに持ち替え、今度はチーズに手を伸ばした。

 フォークに刺さった一切れを見てややためらう。これほど間近でアルヴァのチーズを見たのはいつぶりだろう。エレナがいた時に時々食べていたそのご馳走のようなチーズは、エレナがいなくなってからは避けるようになってしまった。

 食べないという手もある。

 しかし残してしまうのも勿体無い気がする。ここで食べなければもう二度と口に出来ないような気がして、そしてそれは大切なものを全て置き去りにしてしまうような気がして、なぜだか心が拒否した。


 覚悟を決めたハウエルは手にしたフォークを恐る恐る口に運んだ。

 広がるのは牛とは違う、一角山羊の独特の風味。 

 酸っぱさが勝るそのチーズはハウエルにとっては牛のものより食べ慣れたものでーー酷く懐かしい味わいだった。

 噛み締めるごとに伝わるチーズの味。

 黒麦の粥をひと匙すくった。

 ああ、そうだ。この味だ。

 

 故郷より遥か遠くにいるはずなのに、ハウエルの脳裏には幸せに暮らしていたあの街の風景がありありと目に浮かんだ。いつも夢にうなされる焼け落ちる街の光景ではなく、平和だった頃の風景だ。

 街の役場に出かける自分を笑顔で見送るエレナ。そんなエレナの額にキスを一つ落とし、出かけて行く自分。

 全ては過去に消え去ったはずの出来事でーーもう二度と、手に入ることはない現実。しかし確かに自分の中にある暖かな記憶。


 一口食べるごとに思い起こされる昔の記憶に思いを馳せながら、気づけばハウエルは夢中で料理を食べていた。


「ハウエルさん、お味はどうですか……って、えっ!?」


 様子を見に厨房の奥へと顔を出したソラノが驚いた顔をする。


「え、ハウエルさん、どうして……えっ!?」


「ああ」


 言われて初めて気がついた。

 自分の頰を、涙が伝っていることに。

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