第189話 ヴァンショー
「お疲れ様、アーニャ。もう帰っていいわよ」
「はい、お疲れ様でした」
自分の元で働き出して数ヶ月になる部下に帰宅を促し、エアノーラは自身も帰り支度を始める。
一年の締めくくりとなるこの季節は各店舗の売上の取りまとめや翌年の計画などで忙しい。特に来年は、空港の第一ターミナルに新たなエリアを設けるという動きがあるので尚更だ。
「お先に失礼します」
「ご苦労様」
去っていくアーニャを見送って束になっている書類を綺麗に分類分けして引き出しにしまっている途中、一枚のリストを発見する。
アーニャが作成した第一ターミナルに誘致候補の新店舗のリストだ。
一度提出された際に確認したが、なかなかよくできているなというのが素直な感想だった。
自分の下で働き出した当初のアーニャの仕事ぶりはひどいもので、まともに書類は作成できないし凡ミスは連発するしで、エアノーラとしても思わず頭を抱えたくなるほどであった。これで入職四年目だというのだから信じられない。一体この四年間何をしていたのかと問い詰めたくなる気持ちをグッと堪え、それでもエアノーラは引き取ったからには使える人材に仕上げようと奮迅した。
エアノーラの指摘は容赦がない事で有名だ。
ここ商業部門において部門長を担う自分の下で働く以上、一切の情け容赦は無用だと考えている。
おかげさまで直属の部下は一月もたたないうちに皆異動を申し出て、結局エアノーラは己のスケジュール管理から商談の準備に至るまで全てを一人でやる羽目になっていた。
しかしこのアーニャという職員、仕事はまるで出来なかったが根性はあった。
指摘されたことには愚直に従うし、間違いを正そうという気概もある。
そんな訳でエアノーラも辛抱強く育てようと意気込んでいた訳なのだが、思っていたより早く彼女は使える人材になりつつあった。
要するに今までのぬるま湯に浸かりきった職場環境が悪かったらしく、危機感を持てばそれなりに出来る能力を持っていたということだろう。素直な性格も幸いしたらしい。
リストを一瞥してから懐にしまいこみ、自分も帰宅するべく席を立った。
もう他に残っている職員はいないかと思ったら、一人残業している男がいた。
確か、最近入職したハウエルという名前の男だ。
「まだ仕事が残っているの?」
「いえ、少し気になることがあったので自主的に作業中です」
「ふぅん」
見れば数字が羅列されたリストと睨み合いをしながら必死にペンを走らせていた。
表情が微動だにせず眼球のみが忙しなく書類の上を行ったり来たりしている様は異様であるが、この年齢で入職してこのやる気は立派なものだ。
「仕事熱心なのはいいけれど、あまり無理のないように」
「はい」
ヒールをフロアの出入口へと向けたエアノーラは、そのまま職員用通路を通って帰路につこうとして足を止めた。
時計を見ると、時間はまだまだ早い。
空港にいると忘れがちだが、外は寒い季節だし、温かいものを一杯引っ掛けてから外に出るのも悪くないだろう。
その後、視察に行くのもいいかもしれない。
踵を返したエアノーラはそのまま柔らかな光を投げかけるビストロ ヴェスティビュールへと向かった。
「いらっしゃいませ。エアノーラさん、お疲れ様です」
「空いているかしら」
「はい、カウンターにちょうどひと席。どうぞ」
カツカツと十センチのハイヒールを響かせながら席に向かったエアノーラは、席に着くなり注文をする。
「体の芯から温まるものを頂ける?」
「体の芯から……胃にたまるものがいいですか? それとも軽めの方がいいでしょうか」
「ああ、食事はいいわ。飲み物だけで」
「かしこまりました」
厨房へと去って行くソラノを見やってからさりげなく店内をチェックした。
帰省客が増える空港内で、この店も御多分に洩れず人が増えてきている。
賑わいがあるのはいい事だ。
それでこそ、この自分を説得して店を存続させただけの事はあるというものだ。
空港に落ちるお金は多ければ多いほどいい。気軽な店を利用客が求めているのであれば、商業部門はそれを用意するだけだ。
今度誘致する店はーー中央エリアに集めている店とは毛色が違う。
単価を下げて、回転率を上げ、より多くの人が立ち寄りたいと思う店を。
アーニャがピックアップした店はエアノーラの意図を正確に理解したらしく、概ねそのような店が候補として上がっていた。
「お待たせいたしました。ヴァン・ショーです」
「ありがとう」
カウンターに出されたのは、ヴァン・ショー。スパイスと柑橘類、そして甘味を加えて温めた赤ワインだ。
透明な耐熱グラスに注がれた赤ワインはほこほことした湯気を立てている。そっと掌全体でグラスを包むと、じんわりとした温かさが皮膚を伝ってくる。
グラスに差し込まれたシナモン・スティックをぐるりと回して攪拌すれば、赤ワインにスパイスと柑橘が混じり合った複雑な香りが鼻腔を満たした。
そのまま持ち上げて、一口。
赤ワインは温めると、冷えている時よりも優しい味わいになる。
そこにシナモンの独特な味わいと、柑橘の微かな酸味。そして後からくる甘味は、蜂蜜か。
食道を通って胃の中からほっこりとする味わいに思わずエアノーラは笑みを浮かべていた。
「外は寒いから、帰る前に温かいものが欲しくなりますよねぇ」
「ええ、そうね」
接客の隙を見て話しかけてきたソラノにエアノーラは返答する。
「メニューも煮込み料理が多いようね。よく売れてるの?」
「はい、やっぱり冬なのでじっくり煮込んだトロトロお肉とお野菜の料理が好まれます。ヴァン・ショーも注文が多いですよ」
ソラノに言われ、手で包んだままのヴァン・ショーをもう一口。
「これは美味しいわね。スパイスも柑橘も赤ワインの味を邪魔してない。売れるのもわかるわ」
「特に空港の職員さんはリピート率が高いですよ。飛行船を降りたら徒歩の人が多いから、なるべく体を温めておきたいそうです」
「空港利用客は大抵馬車で移動するけれど、職員はそうもいかないから一杯飲んで帰りたいんでしょうね」
そういった需要の面でも、ここにこの店があるのは大きいだろう。下に降りた郊外にも店は勿論あるが、いちいち入るのは少しためらわれる。ここならば上着も着ずにさっと入れて、出たら飛行船に乗ってまっすぐ帰るだけなので気軽だ。
「そういえばアーニャから、新しく出店する店を選定していると聞きました」
「あら、もう? おしゃべりな子ね」
エアノーラは眉をひそめた。守秘義務という言葉を教えなければ。まだ部門内で留めておくべき事項を迂闊に口外されては困る。
「貴女も簡単にそういった話を口にしないで」
「すみません」
話題を振ったところ思わぬ叱責を受けたソラノは素直に頭を下げた。嘆息して、ヴァン・ショーを再び。
「実はこれから何軒か回ってみようと思っているのよ」
主語は入れずに少し先ほどの会話に乗ってやると、ソラノは下げた頭を上げてエアノーラを見やる。
「いいお店が見つかるといいですね」
「ええ」
懐にしまったリストを思い起こしながら、残ったヴァン・ショーを一気に飲み干した。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
ソラノに見送られて店を出て、エアノーラは時計を見た。
さて、最初に向かう店はどこにしようか。
脳裏にちらりと浮かんだのは、最近噂の中心街にオープンしたばかりのカフェだ。
なんでもそこの店長は、ソラノと同じく異世界人らしい。
カフェラテを売りにしている店で味は別格、もはや違う飲み物だというもっぱらの噂だった。
普通飲み物というのは添え物でメインには料理やデザートが来るものなのだが、それが逆になっているというだけでひどく興味をそそられる。
異世界人は変わったことをやる人が多いのだが、噂は本当かしらねとエアノーラは内心でほくそ笑みながら中心街まで向かう算段をつけた。
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