第184話 追憶のエレナ
「ハウエルさん、お疲れ様です。今日のお昼ご飯は特別なものを用意しようと思っているので! 是非! お召し上がり頂けないでしょうか!」
お昼の混雑をさばききり、少し客足が減った店内でソラノは意気揚々とハウエルにそう話しかける。
「特別なものですか」
「はい、きっとお喜びいただけると思いますよ、是非!」
是非是非とやたらに押してくるソラノにカウマンとバッシ、レオといった店にいる面々は「おいおいテンション高いな」と引き気味な顔をしているがハウエルは微動だにせず「ではお願いします」と言ってきた。
そうと決まればソラノの腕の見せ所だ。レオに大きくリードされているが、ソラノだって作れるのだ。
溶いた生地をクレープパンに流し込み手早く焼いていく。チーズとハムを乗せて四隅を折りたためばあっという間に完成。コツが分かっているととても簡単な料理だった。
「どうぞ、黒麦のガレットです」
「黒麦の……」
「今日のは自信作ですよ!」
さあどうだ。これならさすがに、ちょっとくらい表情が動くだろう。
ハウエルがナイフとフォークでガレットを切り分けるのを、もはや遠慮も忘れて食い入るように見つめる。完全に変な人だったけど、構っていられるものか。
これはもう、戦いだ。
笑わないハウエルと笑わせたいソラノによる仁義なき戦いなのだ。
この店の扉をくぐって料理を食べる人は、それが店の従業員だろうが空港職員だろうが空港利用客だろうが誰であれ笑顔にさせたい! そんなソラノの固い決意の現れだった。
ガレットがハウエルの血色の悪い口に吸い込まれていく。
カリッ。
サクサクッ。
いい音が響いた。
瞬きすら忘れて見守るソラノの側で、ピンと背筋を伸ばしたハウエルはごくんとガレットを飲み込んだ。
「どうでしょうか」
「まあ黒麦の味ですね」
期待に満ちた声で問うたソラノに対し、あっさりとそう返してくる。
相変わらず眉一筋動かない。
「ダメかぁ……」
がくりとする。
うーん、ハウエルさん、なかなか手強い。しかし相手が強ければ強いほど燃えるのも確かだった。きっとハウエルを笑顔にすることができれば、ものすごい達成感を味わうことができるだろう。躍起になるソラノを店の面々は好きにさせており、この件に関しては完全にソラノに一任されている。
めげてはダメだ。何か他の手立てを考えよう。
そんな気持ちを胸に洗い場に戻りお皿を洗っていると、ハウエルが立ち上がる気配がする。
「では、戻ります」
「あ、はい。ありがとうございました」
本日も手伝ってくれたハウエルに礼を言うと、去り際に珍しく立ち止まり彼の方から声をかけてきた。
「……黒麦にはアルヴァのチーズが合うと思います」
では、と言うと裏扉から出て去っていく。
「アルヴァのチーズ?」
カランと閉じた扉を見つめながら、聞いたことのないチーズの名前にソラノは首をかしげた。
「やあ、ソラノちゃん」
「こんにちは、ガゼットさん」
入れ替わりでやって来たのはガゼットだ。空いているカウンター席にすっと腰掛けると、真冬だというのに少し汗をかいていてハンカチで額を拭いている。
「午前の会議が長引いて、やっと今からお昼だよ。ガレットもらえるかい」
「お疲れ様です。はい、かしこまりました」
レオにオーダーを通すと果実水を提供する。
「ハウエル君はどうだい。役に立っているかな」
「すごく助かっています」
「ちょっとは愛想良くなったかね」
「それは何とも……」
ソラノは正直なところを述べた。お世辞にも愛想が良くなったとは言えない。ガゼットは落胆したらしくフムゥと息を吐いた。
「なかなか難しいみたいだね。西方諸国の出身らしいんだが、あの国は治安が悪いから……きっと昔に酷い目にあってあんな感じになってしまったに違いない」
確かにレオに聞いた話によると西方諸国は随分と荒んだ国のようだし、そんなところで暮らしていたとなれば心に傷を負っていたとしてもおかしくないだろう。
ガゼットの想像もあながち間違っていなさそうだ。
「働いているうちに心を開いてくれるようになれば良いんだがね」
「そうですね、私もお手伝いができるようにやってみます」
ひとまず焼けたガレットを差し出して、さてどうすれば良いかなと考えた。
+++
なぜ、あんなことを言ったのか。
通路を歩きながらハウエルは自分で自分に問いただす。
黒麦を食べたのは久方ぶりだ。西方諸国でわんさか採れるその麦はこの国に来てから郊外の市場で見かけることは無かった。
売られているのは小麦と米ばかり。こういったところでも文化の違いというのを感じさせる。
一段階、いや二段階は品質の良いものが市場に普通に売られており、皆がそれをお行儀よく並んで買っている。野菜でも肉でも魚でも。そして甘味や酒類といった嗜好品までも。
ここで暮らせば暮らすほど、ハウエルの胸中は
この国で暮らしていれば、君がいなくなることもなかったのか。
脳裏によぎるのはいつも明るい笑顔を浮かべる妻の姿だ。
街の役場へと仕事に出かける自分を笑顔で見送り、帰ってくると黒麦の粥を用意して待っていてくれる。
役場で働いているといっても収入は大したものではなく、貧しい暮らしの中では粥と野菜スープがあればいい方で、たまに手に入るアルヴァのチーズが食卓に並べば大したご馳走だった。
決して裕福とはいえない暮らしの中、それでもエレナがいればハウエルは幸せだった。
次の瞬間、ハウエルの脳裏に浮かんだのは燃える街だった。
隣街まで行っていたハウエルを出迎えたのは、魔物の襲撃によって焼け落ちた街。
見慣れた場所は塵芥に期し、轟々と燃える炎が視界いっぱいに広がる。
建物も人も全てが無に還って行く。
丘の上に集った逃げ延びた人の中に妻の姿はなかった。
駆け出そうとするハウエルを止めたのは誰だったのかもう覚えてもいない。そこに飛び込んだところでみすみす死にに行くだけだとわかっていても、妻の姿を探さずにはいられなかった。
火の手が止んだところでかつて自分の家があった場所へと向かったハウエルを待っていたのは、焼け焦げて原型をとどめていない建物と、焦げた妻の姿。
もう二度と妻が自分に笑いかけることはないと知りーーハウエルは自身の幸せが根底から崩れていくのを感じた。
変わり果てた街を捨てたハウエルは他の者と隣街に逃げて暮らし始めたが、魂が抜けたように無気力になった。エレナのいない人生など何の意味もない。自分も一緒に死ねたら良かったのにと毎夜考え、日々を過ごすうちに気力が削がれていく。
そんなハウエルの耳にある日、街を襲った魔物を討伐したと言う噂が届いた。
「何でも、商人のイオネッタが雇った冒険者が討伐したらしい」
「あの人が……あくどい噂も色々聞くが」
「コレクターだという噂がある。おそらく魔物に興味があったんだろう」
そんな話が聞こえて来た。
イオネッタ……国一番の豪商の名前だ。理由がどうあれ、エレナの仇をとってくれたことに間違いはない。ハウエルでは到底成し遂げられなかったことをイオネッタは代わりにやってくれたのだ。
有り難い。
死んでいたハウエルの瞳にわずかに光が灯る。
妻の魂を救ってくれた恩人だ。感謝の気持ちを伝えなければ。
この教育水準の低い西方諸国において読み書き算術に優れたハウエルはイオネッタの元へ行っても重宝され、程なく信頼を得られた。
恩人の元で仕事をこなしていると、妻を失った胸の痛みを少しだけ忘れる事が出来た。夜毎うなされる悪夢が少しだけ薄れた。
それがどんな内容であれ、与えられた職務を全うするだけだ。ハウエルにあるのは恩義を返すために働き続けるという思いだけで、内容の良し悪しなどもうどうでも良かった。
頭を振って思考を追い払う。
久々に食べた黒麦のせいで郷愁にかられてしまったようだった。
余計なことを考えるのはやめよう、今は任務に集中すべきだ。
誰もいない職員通路を歩きながら、ハウエルは暗く落ち窪んだ視線を廊下に投げかけた。
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