第178話 アーニャの一歩前進

「アーニャ、ちょっといいかしら」


「はいっ」


 商業部門長であり、今や自身の直属の上司となったエアノーラの呼びかけにアーニャは秒で返答した。

 フロアの中でも一際立派で、そして一際書類が多いにも関わらず整然と片付けられたデスクの前まで行けば一枚の紙が置かれている。それをすっと滑らせてアーニャの方へと寄越し、説明を始めた。


「春から秋にかけてのヴェスティビュールの売上票よ。他店に比べて単価も座席数も低いから純粋に比較はできないけれど、まあ及第点だわ。特に王女殿下の御用達、というのが大きいわね。上流階級の中でも噂になっているみたい。空港に来たら一度は訪れたい店、というのがあの店の今の印象みたいよ」


 言われてアーニャは売上票を見つめる。確かにそれはソラノがやって来た昨年と比較しても売上が抜きん出ていた。一昨年と比べれば言わずもがな。

 凄い。

 ただ一言、そんな感想が出る。

 あのうらびれた、今にも閉店しそうだった店がここまで蘇るなんて!

 どんな魔法を使ったって難しいことをやってのけたあの店の人たちは本当に凄い。

 友人として誇らしい気持ちでいっぱいだ。


「これを踏まえてあの場所に他の店も出店させようというのが先日の商業部門内会議で決定したのだけど、貴女も店のリストアップをしてくれないかしら」


「え……」


 アーニャは売上票から目を離してエアノーラを見つめる。相も変わらず全身を隙のない装いでかためたキャリアウーマンであるエアノーラは小さく頷いた。


「そのくらいのことはもう出来るでしょう」


「あ……はい!」


 それは、配属が変わってから初めてかけられた叱責以外の言葉。

 新規に出店する店の候補店をリストアップする。

 もちろんそれがそのまま採用されるわけではなく、参考程度のものなのだろうけれど、それでもエアノーラが目を通してくれるというのは変わりなかった。

 その事実が嬉しい。

 今まで数年間、ただひたすらに雑用をこなして足踏みをし続けるだけだった仕事内容に劇的な変化が訪れたのが数ヶ月前。そこから怒涛の毎日を過ごし、ついにエアノーラの助手としての仕事をする時が来たのだ。

 

 嬉しい!


「じゃあ早速よろしく」


「はい!」


 喜びを隠しきれずに元気な返事をする。今日はアーニャにとって大きな前進をした日となるだろう。どんな店をピックアップするか早速考えなくては。

 やる気に満ち溢れるアーニャだったが、時計を見ると既に昼を回っている。フロアの中はがらんとしていた。

 

「よしっ、お昼を買いに行って、考えながら食べようっと!」


 ガッツポーズを作ると、アーニャは昼ご飯を買いに行くべく席を立った。




「えーっと」


 お昼を買いに行った先のヴェスティビュールでアーニャは困惑した。

 そこには商業部門の制服の上からエプロンを締め、直立不動で淡々と弁当を売りさばく中年男がいる。 

 いつもならばここにはマキロンかレオがいるはずなのだが、マキロンの姿はなく、代わりにこの謎の男とレオがいる。レオは忙しそうに店内の店の接客をしているので職員向けのお弁当販売はこの男は一人で請け負っていた。

 

 この人誰? こんな人、商業部門にいたっけか……ていうかなんで商業部門の人がお店で働いてるんだろう……。


 アーニャの胸中には疑問が渦を巻いている。 

 そんな思いを知ってか知らずなのか、男はアーニャに声をかけて来た。 


「お弁当ですか、サンドイッチですか」


「え? えーっと」


「お弁当ですと本日は煮込みハンバーグ弁当が、サンドイッチはロースハムのサンドイッチがオススメですよ」


 抑揚のない声でそう尋ねられ、アーニャは困惑した。


「じゃあ……ロースハムのサンドイッチで」


「はい」


 代金をぴったり渡すとサンドイッチを受け取る。


「あの、商業部門の人……ですよね」


「はい。先月より入職しましたハウエルと申します。ガゼット主任の元で働いています」


「ああ、ガゼットさんの!」


 ガゼットはかつてのアーニャの上司なので、そう聞くと俄然親しみがわく。


「私、もともとガゼットさんの部下だったんですよ。ガゼットさん、あんまりやる気ない人ですけど、無理に仕事押し付けられてません? 大丈夫ですか?」


「はい、今のところ問題ありません」


「ならいいんですけど、もし何か困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」


 唐突に先輩風を吹かせるアーニャに嫌な顔一つせず「はい」と言って頷くハウエル。アーニャは満足したように頷くと店を出た。

 すると店から職員用通路に向かう途中に見慣れたモスグリーンのワンピースを着込んだ友人の姿が。友人の方もこちらに気がつき声をかけてくる。


「あ、アーニャだ」


「ソラノじゃない。今日は出勤早いのね」


「うん、ハウエルさんが心配で早めに来たの」


「ああー、どうして商業部門の人が店で働いてるのよ」


「ちょっとマキロンさんがギックリ腰になっちゃって、すぐに人手が欲しかったんだけど

素性のしっかりした人を雇うにも時間がかかるから、相談したらハウエルさんを貸し出してくれたの」


「そうなの……大変ね」


 昔ならばアーニャが派遣されていたところであろうが、生憎今のアーニャは忙しくてそれどころではない。忙しいといえば。先ほどの喜ばしい出来事をぜひ報告したいアーニャは前のめりにソラノに詰め寄った。


「そういえば聞いてよソラノ!」


「なになに、どうしたの?」


「実は私、新しく出店する店のリストアップをエアノーラさんから頼まれたのよ!」


「凄いじゃん! 出世だねー、やっと補佐っぽいお仕事を任されるようになったんだね」


「そうなのよ、だから気合を入れてお店選びをしないといけないの」


「じゃあ、一つ視察してほしいお店があるんだけど。中心街に春頃できたラテアートのお店」


「知ってるわ! 凄い人気だもの!」


 ソラノの情報に食いつくアーニャ。その店の噂ならば聞いたとこがある。なんでも凄い芸術的な絵が表面に施されたラテを出すという店だ。しかしアーニャ自身はまだ行ったことのない店である。


「是非行って飲んでみてよ。きっとカフェラテの常識が覆されるよ」


 そう言われると行きたい、行ってどんなカフェラテが出るのか、この目で確かめたい。


「ありがとう、早速今日仕事が終わったら行ってみることにするわ!」


「はーい、頑張ってね」


 手を振るソラノに見送られアーニャは意気揚々と職場へと戻る。その足取りは今までの中で一番軽かった。

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