第176話 仮面の男

「売上票を集めてまいりました」


「ああ、ありがとう」


 ガゼットは机の前に現れたハウエルから束になった各店舗の売上票を受け取って礼を言った。ハウエルは一礼して席に着くと、与えられた雑務をこなしていく。

 アーニャの抜けた穴を埋めるべく採用されたハウエルは、愛想がないという点を除けば今のところ素晴らしい働きをしてくれている。

 まだ働き始めて二十日ほどだが、言ったことは一度で覚えるし、物腰も丁寧だし、わからないことがあれば質問をしてくる。三十八歳で西方諸国出身ということで、恐らくこの国に来るまでに色々な苦労があったのだろう。

 最初人事部門に言われた時は「さてどうしたものか」と思った。しかし強く勧められ、面接をしてみたところ中々に良さそうだったのだ。

 年齢がややネックになったものの、それまでの経歴が決め手になって採用が決まったのだが大当たりのようだ。

 正直言ってアーニャの百倍は役に立つ人材であった。このままだとガゼットの代わりに主任になるのでは……と内心で怯えているのは内緒の話である。

 まあしかし、もう少しにこやかに接してくれないかな、とガゼットは考える。商業部門は中央エリアに出店する各店の人間と顔をあわせることが多いから愛想がいいに越したことはない。

 それにこのままだと商業部門の中でも距離を感じてしまうだろう。それは良くない。せっかく仕事ができるのだから、職場内での人間関係も円滑にしておくべきだ。

 そんな思いを込めガゼットはもらった売上票をパラパラとめくりながら声をかけた。

 

「なあ、ハウエル君」


「何でしょうか」


「今日仕事の後に一杯どうかね」


「申し訳ありません、そういった場所は苦手でして」


 眉一つ動かさず、全く申し訳ない表情を浮かべずに断るハウエルにガゼットはちょっと面食らった。実のところ断られるのは二度目だ。一度目は「歓迎会をやろう」と提案したところを断られている。

 上司の面目にかけてこのまま食い下がるわけにはいかない。


「まあまあ、たまには上司と一杯やるのもいいと思うのだが。私も君と交流を深めたいと思っていたところだし」


 前のめりになって前時代的な誘い文句でハウエルを仕事帰りの一杯に誘おうとするも、ハウエルはまたも頭を下げて「申し訳ありませんが」と言って断ってしまった。

 これ以上しつこくすると嫌われてしまうだろう。

 ため息をつく。

 アーニャ君であれば喜んで乗ってくれたものを……中々部下と親睦を深めるのも難しい。

 デスクからぐるりと首を巡らせると、フロアの彼方でエアノーラに何やら叱責されているアーニャの姿が見えた。

 よくやる、とガゼットは思う。自分ならばあんな仕事量の多い場所に行きたくない。なるべく目立たず、楽して、淡々と仕事をこなして生きていきたい。

 

 とはいえ、やるべきことはやらなければ。

 売上票をぱしんと手のひらで叩くと、自分の仕事を全うすべく机に向き直った。


+++


「ハウエル君、今日の業務はもう終わりだから上がっていいよ」


「はい、お疲れ様です」


「やはり一杯だけでいいから……」


「申し訳ありません、アルコールは苦手で」


 やたらに飲みに誘って来る上司をかわして一礼を残し、フロアを去る。

 着ていた制服から地味な色合いの私服へと着替えると第一ターミナルに向かって歩き出した。

 帰るのにいちいち飛行船に乗らなければいけないというのは、面倒な話だ。帰宅に余計な時間がかかる。

 そんなことを思いながら職員用通路を抜け、飛行船に乗るために待機する。目の前を通る人々は皆上質な服を着て、栄養状態のいい肌艶をしている。これからどこか外国へ行くにしろ王都へ降りるにしろ、表情は明るく希望に溢れている。

 西方諸国とは大違いだ。

 ここでは魔物の脅威に怯えることも、明日の命を心配する必要もない。

 同じ世界のはずなのにまるで別世界のようだった。

 ふと振り返ってそこに在る一軒の店を見た。


 ビストロ ヴェスティビュール。


 柔らかな光を灯すその店がハウエルの感情を動かすようなことは何も無い。ただハウエルの脳内には、真の上司から預かっている毒薬を配布する算段のみがはじかれていた。


 再び前を向き、到着した飛行船へと乗り込む。ややあってから出港を告げるアナウンスが流れ、煌びやかな夜空を滑るように飛行船は進んでいく。

 夜空に浮かんだ星を見ながらハウエルの胸中には毒薬以外の思いが浮かんできた。

 仮面のような彼の表情を唯一変えることができる存在。

 今はしかし、余計なことを考えるのは止めよう。

 頭をゆっくりと振ると、ハウエルは帰路の途へとついた。

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