第166話 キャビア・ド・オーベルジーヌ
「いらっしゃいませ」
にこりと微笑むソラノに迎えられ、システィーナはまたしても常時開け放たれているビストロ ヴェスティビュールの扉をくぐっていた。ちなみにこれで四回目だ。
おおよそ二、三日に一度の割合でこの店を訪れているという事実に、システィーナは自分で自分に戸惑いを隠せなかった。しかしそれはそれとして、気がつけば足がこの店へと向かっているのだ。
邸から結構な距離があるにも関わらず、予定が空いている日には店で食事をしている。
システィーナとていっぱしの貴族令嬢であるからしてそれほどに暇な毎日を送っている訳では無い。そもそも父に教えられて召喚術の訓練もしているし、招待をされれば茶会や舞踏会へも行く。
ただ、春の花祭りより始まった社交シーズンは晩夏には終わりを告げており、貴族達は各々の領地へと戻っている。システィーナの生まれたシャインバルド家やデルイのリゴレット家のように武勲によって功績を建てた家、或いは文官の家系の類は領地を持たずに王都に居を構えているためにそうした例からは漏れる。
要するにシスティーナは暇すぎるということはないのだが時間を持て余し気味だった。
「だからこれは、暇つぶしのために来ているだけであって、決してこの店を気に入っている訳ではないのよ」
そんな言い訳を自分自身にしながらもシスティーナはさて今日の料理は何にしようかしらと内心で心を躍らせる。
お店で食べられるメニューはどれも美味しい。
コース仕立てになっている訳ではなく、好きなメニューを自分で選べるというのもシスティーナにとっては珍しく、ワクワクした。最初に来た時にはお任せで持って来てもらったが、メニューとにらめっこしている時間も楽しいのだ。
何より周りの目を気にしなくていいというのが良い。
そうしてメニューとにらめっこをしていると、ソラノがそっと寄って来て言った。
「今日のオススメは、
「何ですって?」
思わず耳を疑ってメニューから顔を上げると、ソラノはいたずらっ子のような笑みを浮かべてこちらを見ているではないか。
「昨日の晩に作って一日冷やして味をなじませてあります。カリカリのバゲットに塗って食べると美味しいですよ」
「本気で言っているの?」
「それはもう。システィーナさんのためにせっせと昨日の夜に仕込んだものです。名前で敬遠せず、是非お召し上がり頂きたいなぁと思っています」
全く何の邪気のない顔でそう言われると心が揺らぐ。これが店の料理を食べたことのない時ならばにべもなく断れたのだが、一度その美味しさを知ってしまっていると興味がそそられるというものだ。
キャビア・ド・オーベルジーヌ。
噂で聞くにはナスを使った料理らしいのだが、一体どんな味なのか。
システィーナの迷える胸中を悟ったのかソラノはダメ押しの一言を放ってくる。
「とろっとろになるまでじっくりとオーブンで焼いたナスとアンショワ、にんにくを混ぜてフライパンで焼いた一品ですよ。熱々のバゲットにたっぷり乗せてお召し上がりいただけば、満足いくこと間違いなしです。本日のオススメのペイザンヌスープに合わせるのにもぴったりです。ちなみにロゼワインと相性が抜群で、ワインも良いものが仕入れてあるんですよ」
「……!」
スススとさりげなく見せてくるロゼワインのラベルは、確かに女性に根強い人気がある種類のものだった。あっという間に品切れるため入手が難しいことで有名なはずだが、この店で飲めるとは。
感情が多分にこもったそのトークに、システィーナの喉がゴクリと鳴った。
このロゼワインに合うお料理ですって? 気になるわ……!
システィーナは視線を斜め下へと向け、指先を膝の上でぎゅっと握りしめた。そしてごくごく小さな声で、言う。
「……い、いただくわ……」
「はい!」
非常に良い笑顔を浮かべでソラノが快諾し、すぐさま注文を通しに行く。
待つ間にシスティーナは期待が高まるのを隠せずにいた。
うずうずしながらカウンター奥の厨房に視線が釘付けになる。
やがて目の前に出された料理。
「お待たせいたしました、ペイザンヌスープと、キャビア・ド・オーベルジーヌ。バゲット添えです」
ほかほかと湯気が立つ、一センチ角に切りそろえられた色とりどりの野菜たちがぎっしりと入ったスープとカリカリになるまで焼かれたバゲット。そして横にはココットにたっぷりと入れられたオリーブ色のキャビア・ド・オーベルジーヌ。
まずはスープをスプーンですくって一口。
人参に玉ねぎ、セロリにベーコン。そしてドラゴンパセリが隠し味に入ったスープはあっさりとしていて食べやすい。少し肌寒くなってきた時期にぴったりの一品だった。
続いてメインのキャビア・ド・オーベルジーヌ。
ゴクリと喉を鳴らし、緊張してやや震える手をココットに伸ばした。スプーンですくってバゲットへと塗る。
それを口へ、運んだ。
カリッと音がして硬めのバゲットが噛みちぎられ、咀嚼する。
口の中にとろりとしたナスの食感と、にんにくのパンチ、そして遅れてアンショワのかすかな塩辛さを感じた。
噛めば噛むほどに旨味が広がり、じんわりとした美味しさが溢れ出す。
「美味しい……」
思わずそう呟いてしまい慌てて唇をおさえる。ちらりとソラノを見やれば接客に忙しそうで聞こえていないようだった。ほっと息をついてロゼワインへ手を伸ばす。
フルーティで甘い味がキャビア・ド・オーベルジーヌの後味をさっぱりと流してくれた。
「お味はいかがでしたか?」
食べ終えてお皿を下げるタイミングでそう尋ねられた。
「……美味しかったわ」
プライドの高さから十秒は迷った末に、ごく小さな声で答える。
けど、と付け加えてキッとソラノを睨みつける。
「結局のところ、お料理を作るのはシェフの仕事よ。貴女はただ給仕をしているだけ———やっぱりデルイさんにふさわしいとは思えないわ」
そう、結局はただ料理を運んでいるだけの人間だ。
いや、的確な料理の説明も、常に絶やさない笑顔と明るい声も、絶妙なタイミングで料理やお酒をもってくるその繊細な接客も実はすごいものだということが数回の来店で理解できた。その給仕の姿勢は邸の使用人と比べても遜色ない、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。
ソラノはやってくる人間が冒険者だろうが高位の貴族だろうが、はたまたどんな種族だろうが分け隔てなく受け入れて平等に振る舞う。
この扉をくぐればいつだって「いらっしゃいませ」とハキハキした声と心からの笑顔で迎え入れてくれるのだ。
それはやろうと思ってできるものではなく天賦のものと言ったほうがいいだろう。
理解した上で認めたくなかった。
デルイが求めているものがこうしたものであるという事実を受け入れたくない。
それはシスティーナが持っていないもので、この先努力したところで身につくとも思えない。階級社会で生まれ育ったシスティーナはどうしたって人を表面的な部分で判断してしまう。
家柄、階級、職業、才能の有無や立ち居振舞い、顔立ちの良さ。
それらに囚われている限り、きっとデルイの心は手に入らない。
その事実が悔しくて悔しくて、システィーナはやるせなさがこみ上げてくるのを感じた。
「……納得できないのよ」
カウンターの上で拳を握りしめ、食いしばった歯の隙間から声を漏らす。
「貴女がデルイさんに、何をしてあげられるというの? 私ならご両親に反対されることもなく婚約を結ぶことができるわ。地位も! 家柄も! 才能も! 何一つ私に勝てない貴女に、何ができるっていうのよ!」
唐突なシスティーナの喧嘩腰に少し驚いたような顔を見せたソラノだったが、少しためらった後にごく冷静に言葉を返してくる。
「そうですね、確かに私ができることはとても少ないです……けど、これだけは自信を持って言えます」
胸を張り、ソラノは続けた。
「美味しい料理を用意して、『お帰りなさい』と笑顔で出迎えることができますよ」
「そんな……」
たったそれだけのこと、と言って馬鹿にすることが出来なかった。システィーナにはたったそれだけのことができる自信がなかったからだ。
ソラノの返答は非常にシンプルで、デルイが求めているものがそんな素朴なものなのだとすれば確かにシスティーナに勝てる見込みなど無いだろう。
「……けど、店で出しているのは貴女が作っている料理じゃ無いわ」
「はい。自分でも覚えて、多少自信のあるものを作れるようになったんです」
「なら、その料理とやらを私に食べさせてみなさいよ」
引っ込みがつかなくなったシスティーナは睨みをきかせて言う。もう後に戻ることなんてできなかった。
一体どんな料理を作っているのか、この目で確かめこの口で味わうまではーー負けを認めることなんて絶対にできない。
「いいですよ。営業日だと都合が悪いので、四日後の店休日の同じ時間にここへお越しください」
あっさりとそう約束するソラノの顔が、憎らしくてたまらなかった。
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