第159話 ロンバート子爵の憂鬱


「もう、結構だわ」


 静かに告げられたその言葉の意味を、セルヴェス・ロンバート子爵は理解するのに数秒の時間を要した。

 見やると目の前では婚約者のエマが顔色を真っ青にしてセルヴェスのことを怒りに燃える瞳で見つめている。エマは立ち上がるとすっと背筋を伸ばし、セルヴェスへと告げる。


「貴方が私に興味がないということはよくわかりました。旅は中止といたしましょう」


 言うが早いがエマは店を出るべく足早に進む。


「おいっ、エマ、ちょっと待つんだ!」

「さようなら」


 中腰になってセルヴェスは呼び止めるが、一顧だにせずにカツカツとヒールの音を響かせてエマは店を出て行ってしまった。店には微妙な空気が漂い、呼び止めるために伸ばしたセルヴェスの右手だけが間抜けに宙を彷徨った。

 嘆息して、席に着く。隣のテーブルに座るフロランディーテ殿下を見ると気の毒そうな表情を向けられてしまった。慌てて声には出さずに深々とお辞儀をして謝罪の意を示す。フィリス殿下との楽しい食事のひと時に水を差してしまったことへの謝意だ。

 殿下がこの店を贔屓にしていると言う話は、末端貴族とはいえ王立学術機構にてそれなりの地位を戴いているセルヴェスの耳にも届いていた。

 しかしまさか、偶然にもこうして出会うだなんて思いもよらなかった。


 こういった場合はどうすればいいのか、根っからの学者気質であまり社交に積極的ではないセルヴェスにはわからなかった。

 声をかけるべきなのか、お忍びと言った風なので声をかけない方が正しいのか。

 しかしお忍びにしても二人はあまりに目立っていた。質素ななりに身をやつしていてもその気品は溢れ出ているし、だいたいこの店を気に入っているという話は有名なのだ。

 いるかもしれない、と頭のどこかで考えている状態で隣の席に座っていれば必然的に正体に気がついてしまう。

 ならばやはり、挨拶くらいはするべきなのだろうか。

 後から来た騎士の家系であるリゴレット伯爵夫妻は何食わぬ顔をして食事をしているからそれが正解ということなのか。

 食事を取っていても殿下達のことが気になって気になって、何を食べていたのかも正直覚えていない。


 目の前の皿を見ると、婚約者であるエマの皿にはこの時期によく獲れる川魚のブロッシェをすり身にして団子状にした料理、クネルが。そして自分の皿には尾長鴨のソテーが載っていた。


 再びため息をつく。

 エマの気持ちがセルヴェスには全くわからない。学術機構で共に学者をしている彼女に惚れ、熱心に口説き落として婚約にこぎつけたはいいものの、セルヴェスは今いち女心というものを理解できずにいた。

 貴族家であるということで平民の彼女が気後れしないようにとあれこれ画策してきたが、それでも行儀作法や挨拶、食事マナーとちょっとしたことで差を感じているようだった。エマ自身が努力をしているし、家の者達も少々のことならば多めに見ている。そこまで家格が高い訳でもなく、そもそもセルヴェス自身が社交に疎いので問題ないと思っているのだがエマはそうは思っていないらしい。

 ならばと誘ってこれから婚前旅行へと繰り出す所だったというのに、なぜかエマは店を飛び出して行ってしまった。

 

 一体、何が気に入らないのだろうか。

 

「あの、恐れ入りますが……」


 おずおずと言った調子で店の給仕係の娘が話しかけてきた。目線が下になるように膝をついてこちらを見上げてきている。


「ああ、すまないな。連れなら護衛がすぐに連れ戻してくるから」


「いえ。出すぎたことかと思いますが、追いかけた方がよろしいのではないでしょうか」


「問題ないよ。先ほども言った通り、護衛が追いかけているだろうから」


 店の外には子爵家で雇っている護衛を待たせてある。エマが飛び出したのならそのうちの一人か二人が追いかけているはずだ。セルヴェスが行ったところでなんと声をかけていいかわからないし火に油を注ぐだけだ。そう思ったのだが、この給仕係は眉尻を少し下げ、困ったような顔をしてなおも進言してくる。


「こういう時、女の人は追いかけてくるのを期待しているものなんですよ」


「なんだって? 自分から出て行ったのにか?」


「はい。それでこう言ってくれるのを待ってるんです。『ごめん、俺が悪かった』」


 セルヴェスは目を剥いた。言われた言葉の意味が理解できない。


「なんだって私が謝らなくちゃならないんだ。何も悪いことなどしていないだろう」


「失礼ですが、お連れ様は貴族のご出身ではないのでは?」


「そうだが……」


「では、恐らく気がついていないのだと思います」


 言ってこの給仕係はその大きな黒い瞳をセルヴェスの隣のテーブルに座るフロランディーテ殿下にちらりと向ける。

 合点がいった。

 セルヴェスは立ち上がると、「すぐに戻る」と言い、そのまま店を飛び出していった。


+++


「お待ちを、どこへ行くのですか!」


「放っておいて!」


 護衛が後ろから追いかけてくるのもかまわずにエマは空港内を小走りに駆けていた。着慣れていない貴婦人然とした裾長のワンピースは足にまとわりつき、高めのハイヒールで足がもつれそうだったがそれでもがむしゃらに走る。

 目には涙が浮かび、視界は潤んで霞んでいた。


 今、エマの思考にあるのはただ一つ、婚約者であるセルヴェスへの失望だった。

 隣のテーブルには気品溢れる淑女が座っていて、セルヴェスは席に着くなりそちらばかりを見つめていた。エマとの会話は完全に上の空であり、何を注文して何を食べているのかもまるで気がついていない様子だった。


「やっぱり私の振る舞いは至らなかったのね……!」

 

 どこへ行く訳でもなく空港内を疾走しながらそう零す。

 自分は、平民出身の学者だ。セルヴェスの研究に対する熱意とそれをサポートすることにやりがいを感じ、いつしか恋仲になったがやはり結婚というのは無茶な話だったのだろう。懸命に貴族の所作を身につけたものの端々に至らなさが目立ち、自分で自分が嫌になる。

 そもそもエマはあまり器用な方ではなく、研究以外のことをするのが苦手だった。

 今着ている服も靴も慣れなさすぎてそわそわするし、飛行船を利用した旅行といった金のかかることも楽しみというよりは申し訳ない気持ちが勝っている。

 行く場所が歴史に名高い龍樹の都というのは心躍るけれども、それでも大枚叩いて行くとなると気後れしてしまうものだ。


 結局エマには身分の差を埋めることなどできなかったということだ。虚しさに気分が沈む。


「あっ」


 ヒールで走ったせいで足首からぐにゃりと曲がり、床に体が叩きつけられる。後ろから追って来た護衛が気遣って起きるのを手伝ってくれたが、エマは惨めな気持ちでいっぱいだった。

 あのまま真っ直ぐ飛行船に乗って王都まで行けばよかったのに、頭に血が上っていたせいでがむしゃらに走り、空港の中央エリアまで来てしまっていた。貴族連中がそこかしこを歩いていて、無様にこけたエマの姿を眉をひそめて見つめていた。


「エマ、待ってくれ!」


 息を切らせてセルヴェスが追いかけて来た。


「私が悪かったんだ、すまない!」


 そんなセルヴェスをエマはきっと睨みつける。


「何よ、あなたも結局、品のいいお嬢様がお好きなんでしょう?」


 面倒臭い女だと自覚しつつもそんな言葉が出てくるのを止められなかった。セルヴェスは首をブンブンと横に振る。


「違うんだ、エマ。それは誤解だ、聞いてくれ」


「あら、何が誤解だっていうのよ。隣の席ばかり気にして、私の会話なんて全然聞いてなかったくせに」


 私ってこんなに女々しい奴だったのねと、自分で自分が嫌になるがそれでも止められない。この人と結婚できるならとずっと耐えて来た小さなストレスの積み重なりが爆発してしまった。

 

「やっぱり私に、あなたとの結婚なんて荷が重かったんだわ。婚約は破棄しましょう」


 涙ながらにそう言った言葉にセルヴェスは小さく息を飲むと、エマの肩を両手でがしりと掴む。


「違うんだ、エマ。後生だから私の話を聞いてくれないか」


 そういうセルヴェスの様子はなぜだかいつになく必死で、両手はエマにプロポーズの言葉を言った時と同じくらいにぐっしょり汗にまみれていたので、エマは思わず首を縦に振った。



+++


「おかえりなさいませ」


 店へと帰って来たら笑顔で給仕係の娘が出迎えてくれた。その顔はどことなくホッとした表情を浮かべているので、大方の事情を知っているのかもしれない。


「お客様、お食事が途中でしたけれど、よろしければ再度お作りいたしましょうか」


「ああ、よろしくお願いするよ」


 そう答えたのはセルヴェスだ。

 そしてエマは先ほどの席に促されて卓に着くと、恐る恐る隣のテーブルに座る人物を見た。


『私たちの隣に座っているのは、フロランディーテ殿下と婚約者のフィリス殿下なんだ』

 

 数分前にセルヴェスに聞かされたその話は俄かには信じ難かったが、こうしてよくよく観察してみれば確かに絵で見たフロランディーテ王女に似ている。特徴的な銀の髪は帽子で隠されて見えないけれども、パッチリとした紫色の瞳も、その整った顔立ちも見覚えはある。

 エマはまだ婚約者という立場であり、花祭りの舞踏会には招待されていなかったし、顔を出す社交場には王族といった遥か雲の上の身分の人は出入りしていなかった。

 まさか、自分の婚約者が盗み見ていた人物がこの国の王女だなんて想像できるはずがない。

 隣にいるのが王族であると考えると途端にエマの気持ちは落ち着かなくなった。場の雰囲気を乱すような発言をして飛び出してしまったが、まさか不敬と見なされないだろうか。投獄なんてことになったらどうしようか……などと益体もないことを考えていると、あろうことかその王女様がこちらを見つめ、そしてそっと体を傾けて来たではないか。


「ごめんなさいね、私のせいで雰囲気が悪くなったみたいで」


「えっ!? いいいいえ、滅相もございません!」


 大国の王女御自らに鈴が鳴るような美しい声でそう言われてしまっては、どんな学会の発表の場でも堂々としていると評判のエマをしても動揺せざるをえない。背中に冷や汗がつたい、額からは一筋の汗がつうと流れる。


「こちらこそ大変な無礼を働き申し訳ございません」


 セルヴェスが深々と頭を下げて謝罪するとフロランディーテは首を小さく左右に振った。


「そんな、無礼だなんて。私のせいで何か誤解を与えてしまったんでしょう?」


 するとフロランディーテ殿下は大変申し訳なさそうな顔をしながらため息をついた。それを見た向かいに座るフィリス殿下がフォローを入れる。


「もう僕達がこのお店に来るという事実は広く知られているから、お忍びのスタイルを取るのは難しそうだね」


「そうね、気に入っていたお店なのだけれど、これ以上の迷惑はかけられないわ」


 そう語るフロランディーテ殿下の横顔は寂しげであり、気にいたものを手放す際に見られるような一抹の寂寥が見て取れた。一国の王女というのも案外不便なのだろうかとエマは思わず勘ぐってしまう。


「お待たせいたしました。クネル・ド・ブロッシェと尾長鴨のソテーです」


 暖かく湯気の立つ料理を給仕係がテーブルへと運んで来る。合わせてワインも注いでくれ、改めて食事の再開だ。


「ではごゆっくりどうぞ」


「じゃあ、乾杯からやり直そうか」


「ええ」


 セルヴェスと二人、グラスを掲げて乾杯をする。

 ナイフを入れればすり身のブロッシェは柔らかい弾力をわずかに感じさせる。王都を通るロヌール河の河川でも釣れるこのブロッシェは産卵期を迎える今が旬であり、そのプリプリした身がすり潰され、卵や牛乳と混じり合いふわふわの食感となっている。オーブンで焼かれたブロッシェは口の中でふわっと優しくとろけた。

 上にかかったトルメイ「トマト」のソースも焼かれて香ばしく、いい味を出している。

 熱々の美味しい料理を頂き、ワインで流し込めば先ほどまでの高ぶった感情までもが胃の中にストンと落ちて行くかのようだった。


「エマ、ブロッシェの味はどうかな」


「とても美味しいわ、さっきよりも」


 エマは素直な感想を口にする。先ほどと同じ料理なはずなのに、先ほどよりも美味しい。隣にいるのが高貴なる身分の方々ということを除けば、非常にくつろげる気のおけない空間だった。おそらくセルヴェスは気取った店が苦手なエマのことを気にかけてこの店を選んでくれたのだろう。

 学術機構にいる時も、二人は研究室でバゲットでもかじっているか、カフェで軽食を取るかだった。

 貴族位にあるというのに、研究熱心でそういう気取らないところが好きになったのだ。

 ここでこうして落ち着いて食事をしていると、そのことが思い出される。

 私は、きっと頑張りすぎていたのだわ。一人で頑張って、空回りして、結果セルヴェスにこうして見当違いの八つ当たりをしてしまったのだからどうしようもない。

 セルヴェスはそんな自分をどう思っているのかとみてみれば、ナイフとフォークで料理を切り分け実に美味しそうに食べていた。


「冬を前に肥えた尾長鴨は脂が乗っていて美味だね。ベリーのソースの酸味が効いている」


 さっきまで味もわからないような顔をして食べていたのが嘘みたいに味わっている。


「こんなに美味しい料理を味わわないで食べるなんて、随分勿体無いことをした」


 二人でそのまま和やかに会話をしながら食事をし、会計を済ませて席を立つ。

 もうまもなく、飛行船の出港時刻だ。


「ご馳走様、それとアドバイスを有難う」


「いえ、解決したようで何よりです」


「これから出国だが、また帰りにも寄るよ」


「はい、お待ちしております。良いご旅行をお祈りしております」


 給仕係の娘は気持ちのいい笑顔でそう言うと、頭を下げて見送る。

 店を後にすると、憑き物が落ちたかのようにエマの気持ちはすっきりとしていた。


「さて、龍樹の都は歴史的建造物の宝庫だ。君との論戦が楽しみだよ」


「私もよ、セルヴェス」


 ここにいる二人は子爵とその婚約者ではない。王立学術機構で出会い、恋に落ちた学者二人だ。

 それが一番大切なことであり、忘れてはいけないことなのだと、エマは自分の心にとどめた。

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