第135話 【閑話】蕎麦の味
ずずず。
ずる、ずるるる。
ずぞぞぞー。
閉店後のヴェスティビュール店内に奇怪な音が鳴り響く。
魔物が人間の腸<はらわた>を喰らっているのか、それとも血に飢えた吸血鬼が血を啜っているのか。
おおよそこの国の食事処で聞こえるような音ではない。ましてここは天下に名高いハブ空港、エア・グランドゥールだ。
「あー、蕎麦の味だ」
「美味しいですねぇ、お蕎麦」
深夜にほど近い時間にも関わらず店には四人もの人間がつめていた。
ソラノとノブ爺、カイト、それに付き合わされているバッシだ。
かつお出汁と醤油とみりんと酒で作った冷えたそばつゆの中には、茶色い麺。
いわゆるかけ蕎麦である。
本当はざる蕎麦にしたかったのだが、ざるが店にないため仕方がない。店にあった白磁器の平たいボウルにそばつゆと麺を入れ、上にはネギ<リーキ>を刻んで散らした。
黒麦で蕎麦を作りたいというソラノの提案に一番に乗っかったのはノブ爺だ。
「俺は蕎麦は四十年ぶりだ……」
感慨深げに言いながら蕎麦を啜るノブ爺。目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「前にも黒麦がこの国に入って来たことがあったんですよね。その時には作らなかったんですか?」
「原料が一般の店で売られる前に体調不良沙汰で立ち消えたからな」
「ああ、なるほど」
「日本人といえば蕎麦だ。最後に食ったのは島根の玉造温泉でだったな。出雲大社にお参りして、その帰りだ」
「へえ、出雲には行ったことないんですけどいい所ですか?」
「ああ。神聖な空気に満ちているぞ。まあ日本人なら一度は行ったほうがいい」
「まあもう無理ですけどね!ここ別の世界ですし」
「そうだったな。俺は出雲帰りにこの世界に来ちまったんだった。にしても美味いなぁ」
美味い美味いといいながらノブ爺は蕎麦を噛み締めるように味わい食べる。
四十年とは気の遠くなるような年月だ。
それほどの時間が経ち、もはや忘れかけていたような郷土の料理を食べたならばそれはどのような気持ちになるのだろう。
食べられると知った時の衝撃、口にした時の感動。
きっとソラノなんかでは想像もできないほどの感情の動きがあるに違いない。
「ノブ爺さんが感慨深げに蕎麦を食べてるところを悪いんだけどさ、これ蕎麦って言えるかな」
カイトは白い陶器のボウルに入った麺をつまみ上げ、渋い顔をして言った。
箸で摘まれているのは幅が五ミリ、長さは五センチほどの茶色い物体だ。
「幅が広すぎるし長さが短すぎる。これじゃ麺というよりすいとんかほうとうだ」
「いやだって蕎麦作り難しすぎてこれ以上のものは無理だったじゃないですか」
「兄ちゃんは細けえな。味が蕎麦なら蕎麦って呼んでもいいだろ」
至極まともなカイトのツッコミに二人は反論する。
ガレットも作れたし、日本人が三人もいれば出来るんじゃないかと調子に乗って取り掛かった蕎麦作りは難航を極めた。
生地がまとまらずボロボロ崩れるし、伸ばそうにもひび割れてきて滑らかな生地にならないから細長い麺など作れない。
まあこれは完全なる趣味であり、店で出すわけではないからもうこれでいいやという結論になった。店の中も粉だらけになるし適度なところで諦めたほうがいいだろう。
幸いそばつゆはノブ爺が作り方を知っていたので味はそれっぽくなっている。
小麦粉を使っていないので十割蕎麦だ。
「十割蕎麦はただでさえ作るのが難しいのにどうして挑戦するんだ」
「俺は十割蕎麦以外、蕎麦とは認めねえ」
「小麦粉入れたらもう少し作りやすかったんですかね」
すいとんのようなほうとうのような形状の麺をつまんでソラノが言う。
厚みもあるので噛み切る時にむにょっとする。
これはこれで蕎麦の味がガツンと口に広がるのでいいと思うのだが、蕎麦と呼ぶには程遠い見た目だ。
「それが蕎麦なのか」
「味は蕎麦ですが見た目は断じて違います」
翌日の仕込みをしているバッシにもきっちりと否定しておいた。
「カイトさんはまだこの世界に来たばっかりだから、そんなに日本食が恋しくなったり
しませんか?」
「そうだな、まあこっちでもかなりの和食が食べられるし別に不便はしてないな」
「今度ラーメン一緒に行きましょうよ」
「ラーメンあるんだ」
「あるんですよ、屋台の夜鳴きラーメン!私、本物初めて見ました」
「確かに東京だと見かけないよな」
ものすごく雑談を繰り広げながら蕎麦を手繰る三人。仕事後の〆という感じがして、心地いい。
「この世界って何なんでしょうね」
ふとソラノが疑問をこぼした。並んでいる二人がソラノの顔を見る。
「魔法があって、人間とは明らかに違う種族の人たちが暮らしていて、飛行船みたいに独自の文化が発展していて。でも食事事情が似通っているっていう」
「そうだな」
カイトがくせ毛気味の黒髪を弄びながら考える。
「一年に一人のペースで地球からこっちに人が来ているなら、文化が混じり合って当然なんじゃないか。俺が始めたラテアートも、騒ぎになってるガレットもそのうちここで根付いて、この世界の文化になるんだろう」
「そもそも何で……この世界に飛ばされたんでしょうね」
「さあな。神の気まぐれってやつじゃねえか」
そばつゆまでも飲みながらノブ爺が答える。
「ま、どこの誰の仕業かわからないけど、今現在楽しいならそれでいいんじゃないか」
「確かにそうですね」
カイトの言葉にソラノは賛成した。この世界は楽しい。毎日色々なお客さんが来て、色々な出来事が起こる。日本にいたら決して経験できないような事がここではしばしば起こるのだ、これが楽しくなくて何が楽しいと言えようか。
「これからもこんな感じでやっていけるといいですね」
「こんだけ流行ってるんだから店が潰れる心配もないし、大丈夫だろ。前と比べりゃ別の店だ」
そばつゆを飲み干したノブ爺が満足そうな顔でそう言い、立ち上がった。
「ごちそうさん。うまい蕎麦をありがとよ、また食いにくるから」
「はーい。閉店後でよければいつでもお蕎麦作ります」
「俺も明日の店の準備があるからそろそろ帰る。ソラノちゃん、バッシさん、ありがとう」
「こちらこそ蕎麦作りを手伝ってもらってありがとうございます。マノンさんによろしく!」
去っていく二人を見送ると店はバッシと二人になった。蕎麦を食べていたボウルを運んで洗う。
「良かったな、蕎麦が出来て」
「はい。もうちょっと精度をあげようと思っています」
さすがにあれではカウマン一家に食べさせるよう代物ではない。人に振る舞うのであればせめてもう少しレベルをあげたかった。
「何にせよ今日もいい日だった」
「そうですね」
お客さんが沢山来て、笑顔で料理を食べて帰ってくれる。
それは店をやっている上で一番の原動力となる事だ。
「明日もいい日だといいですね」
「ああ」
また明日が良き日となる事を願って。今日もまた夜が更けていった。
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