第90話 アクアパッツァ①

「ね、カイト。ここがそのお店?」


「そうだよマノン」


「ふーん、何だかあまり来たことないタイプのお店」


「味は美味しいからそんなに警戒しなくとも大丈夫だ」


 松浦 凧まつうら かいとは約ふた月ぶりにビストロ ヴェスティビュールへとやって来た。

 隣を歩く、こちらの世界にやって来てから出来たパートナーである猫耳族の女の子であるマノンはカイトの腕にしがみついてその大きい金眼でジロジロと店構えを見つめている。頭に生えた猫耳がピクピクと動いていて、警戒心の強い野生の猫のようだった。


「いらっしゃいませ、あ、カイトさん!」


「や、ソラノさん。お久しぶり」


 店に足を踏み入れるなり、元気な女の子の声が飛んでくる。こちらのことを覚えていたらしく、両手に空いたお皿を持ったままパッと明るい笑顔を見せてくれた。


「お久しぶりですね! 本日はお食事ですか?」


「うん。前のビーフシチュー代も返そうと思って」


「いいんですよ、あれは私の奢りですから」


「そういうわけにはいかないよ。年下の女の子に奢ってもらうなんて格好悪いだろ」


「でも私も、この世界に来たばかりの時にこのお店のシェフにご馳走してもらったんですよ。だから受け取れません!」


「うーん、そうは言ってもなあ」


 カイトが困ったように頬をかくと、ソラノは屈託のない笑顔で代替案を出して来た。


「じゃ、こういうのはどうですか?受け取らない代わりに、今日はお食事をたくさんされていく」


「いいね。じゃあ今日はめいいっぱい飲んで食べて行こうかな」


「はい! テーブル席とカウンター席、どちらがいいですか?」


「カウンターで」


「かしこまりました、こちらへどうぞ」


 カウンターへと案内され、マノンと二人で席に着く。メニューを手渡されオススメを聞き、魚料理に興味を惹かれた。


「へえ、アクアパッツァがあるんだ」


「はい、アサリのいいのが手に入ったらしいんです」


「じゃ、俺はアクアパッツァと白ワイン」


「私はロールキャベツと赤ワインで」


「はい!」


 すぐさまやって来たワイン。前回来た時とは違い店が忙しいらしく、ソラノはワインを運んで来たのちずっと接客のために動き回っている。

 ワインを飲みながら店内を見回せば、多様な顔ぶれが席を埋め尽くしていた。

 窓際に何やら幼いながらも品のいいお嬢様と護衛らしき壮年の男が座っている。そしてふた席ほど先のカウンター席には、前回来た時に世話になった保安部に勤めているという男。目があうと、グラスを掲げてにこりと表情を緩めて挨拶をくれたので片手で挨拶を返す。小洒落た店内とワインが様になる男だ。


「お待たせしました、アクアパッツァです。ロールキャベツはもう少しお待ちください」


 くるくると立ち働くソラノが隙を見計らってアクアパッツァを提供してくれた。湯気が昇り立つアクアパッツァをカイトの前に置く。


 アジほどの小さな魚の上にアサリ、黒オリーブ、ミニトマトに似た野菜が散りばめられたアクアパッツァ。

 

「アクアパッツァがビストロ店で出て来るのはちょっと驚きだな」


「え? 何でですか?」


「だってこれはイタリアの料理だろ?」


 ソラノの疑問に答えるようにそう言うと、カウンターから少々驚いたような丸い目が返ってくる。


「そうなんですか?」


「そうだよ、知らなかったのか」


「いやー、私、この世界に来るまでフレンチって馴染みがなかったので。イタリアンもピザとパスタくらいしか知りませんし……」


 そう言ってテヘヘと舌を出すソラノ。考えてみれば彼女はおそらく二十代にも満たない年齢だろう。隣にいるマノンと同じくらいの年齢の日本人で、アクアパッツァがイタリアンと知っている子がどれほどいるか。

 そうこうしているとソラノは他の客に呼ばれて去っていく。


「ゆっくりして行ってくださいね!」


 去っていくソラノに軽く手を振ってから、目の前に置かれたアクアパッツァを見る。イタリア滞在中に何度か食べたことがあるその料理は今となっては日本でも珍しくなく、家庭でも手軽に作れて見栄えがいいとのことで広く浸透しているが元々はイタリア南部の海に面した都市ナポリ発祥の料理だ。

 まあ異世界くんだりまでやって来てフレンチだイタリアンだなどと言い出すのもおかしな話かもしれない。それを言い出したら日本のビストロでもアクアパッツァやパスタを提供する店もあるし、和風ビストロなんて言葉もある。シェフの得意料理によって各店で個性が出るのも面白い。


 ナイフとフォークを手に取り魚に切れ込みを入れる。スープに絡めてふっくらとした身を口に入れれば、魚とアサリの出汁、そしてニンニクのパンチが効いた味わいが口内を満たす。トマトのような野菜の酸味もあっさりした味わいに一役買っている。


「いいなぁ、私もそっちを頼めばよかったかな」


 マノンが羨ましそうな顔でこちらを見ていた。確かにアクアパッツァは見た目も香りも暴力的だ。隣でいい匂いを嗅いで入れば、食べたくもなるだろう。香りをおかずにワインをちまちま飲んでいるマノンは小動物のようだった。

 

 ここでこうして料理を食べていると、二ヶ月前にこの世界に転移して来た時のことが思い出される。

 

+++


 松浦 凧、三十五歳。

 日本でコーヒーに魅せられて十五年、カフェで働き続けた自身の淹れるエスプレッソ・ドリンクがつい先日世界一の栄光に輝いたのは記憶に新しい。

 ミラノでの国際バリスタ選手権に出て長年の夢であった優勝のほまれをいただき、日本へ凱旋する途中でこの不幸な異世界転移が巻き起こった。

 最初何が起こったのかさっぱりわからなかったが、説明を受けるうちにどうやらここが別の世界だという事を理解した。


「うーん、まいった」


 ひとまず中心街にほど近い宿を借りベッドの上でそう独り言ひと ごちた。癖でついつい、ややウェーブがかった髪を弄びながらスマホをいじるも、相変わらず圏外を表示している。


「こういうのは石田の方が喜ぶんじゃないかなぁ」


 石田というのはカイトが働いていたカフェでパティシエをしていた男だ。


 スキンヘッドに日サロで焼いた浅黒い肌をして、趣味のボディビルで身につけた無駄のない筋肉を無駄にもつ彼は、筋トレをしながらネット小説を読むのが日課だと言っていた。彼ならば異世界に飛ばされたとしても嬉々として順応するだろう。

 そんな石田は見た目のインパクトとは異なり鮮やかな手際と繊細な舌を持つ男で、彼の作り出すケーキたちは甘さ控えめ、コーヒーと抜群に合うとのことで店で人気を博していた。

 やたら筋肉美を見せつけようと真冬でも半袖で出勤して来るところを除けば、店で一番人気のパティシエだ。カイトも彼とは仲が良く共に夢を語り合っていた。ちなみに肉体について賛辞を送ったことは一度もない。否定もしないが肯定もしていなかった。


 確か石田と日本で交わした最後の言葉はこうだった。


「石田。この選手権で俺が優勝したら、独立して一緒にカフェをやらないか?」


「松浦……それは死亡フラグってやつだぜ。そういう事を言う奴に限って、夢を叶える事なく道半ばで死んでいくんだ」


 カイトは無事優勝し、死にもしなかったが日本に帰れる見込みは薄そうだ。あの時は石田のセリフを笑い飛ばしたが、あんな事言わなきゃよかったかなと少々後悔する。


「ま、でもしょうがないか」


 カイトは膝を打つ。飛ばされたのが深夜帯だったためこの世界の様子はイマイチわからないが、飛行船が飛んでいたところを見るに文明レベルはそこそこと考えて良さそうだ。ならばここでカフェを開けばいい。今まで培った技術は決して無駄にならないはずだ。


「とすれば明日から忙しいな」


 すでに気持ちを切り替え、明日に備えて計画を練るカイト。なんの事はない。店を構える場所が候補地であった清澄白河きよすみしらかわから異世界に変わっただけのことだ。念願だったバリスタ選手権世界一に輝いた自分の腕を超えるドリンクを淹れられる者など、世界が変われどそうはいないだろう。二十歳からの目標であった自分の店を持つという夢を叶えるためカイトは全力を尽くそうと心に誓った。


 この世界で夢を叶えるためにカイトがやった最初のこと。それは金を借りることだった。

 話を聞いたところこの世界で地球からやって来た人間は随分優遇されるらしい。生活資金の半年間受給、住まいの無償提供。そして無利子無期限での借り入れ。


 無利子無期限返済と言ってもさすがに上限があるらしく、最初に借りられる金は一千万ギールということだった。もっと借りたければ応相談、もしくは完済すれば次はもっと借り受けられる。というわけでその上限いっぱいの金をどーんと借り、予め開設しておいた銀行へと貯金する。

 金は役所で借り受けられたが、役所に来るまでの間に市場を見て回ったところ物価はあまり日本と変わらないようなのでこれだけあれば足りるだろう。


 次にカイトはこの世界のカフェ事情を調べるため、中心街へと赴き目につくカフェに片っ端から入って行った。頼むのはエスプレッソとカフェラテ。これで店の味を査定する。

 ここグランドゥール王国は世界に名だたる王国であるらしく、その王都となれば賑わいもひとしおだ。カイトは自身のシンプルな服装がやや人目を引いているのを理解しつつも、特に気にする事なくそのまま敵情視察へと向かう。


「いらっしゃいませ、ご注文はいかがしますか?」


「エスプレッソとカフェラテを」


「は……後からお連れ様がいらっしゃるので?」


「いや、俺一人で二杯飲むよ」


 不審な顔をする店員にそう返すと、ちょっと納得できなさそうな顔をしながらも二杯持って来てくれた。

 デミタスカップと呼ばれるごく少量しか入らない小さなカップに入れられたエスプレッソと、通常のコーヒーカップに入れられたカフェラテ。

 まずはエスプレッソから一口。


「豆が古い」


 カイトの感想はこれだった。古い豆を使用したことにより味に酸味が強く出てしまっている。味がボケており、エスプレッソを飲んだ時のダイレクトなパンチが伝わってこない。おそらく一度に一気に挽いた豆をちまちま使っているのだろう。

 次にカフェラテ。表面のミルクの気泡が大きく、運ばれて来たばかりだというのにもうエスプレッソと混じって茶色くなりつつある。見た目からしてアウトな予感が漂っていた。そして口に含めばその予感は確信に変わる。


「ダメだな。泡が粗すぎる」


 こんなもの、今時のファミレスのドリンクバーでもお目にかからない。カフェのコーヒーレベルが低すぎだ。

 しかし出されたものは全てを胃に入れるのがカイトの信条だった。故にどんなに不味かろうと全てを飲み干し、「ごちそうさまでした」と言ってお代を払い去っていく。


 屋台のような店から人気の店まで一日十軒カフェをはしごする生活を十日続けたところで、どこも似たり寄ったりのファミレス以下のカフェラテを出す、という結論に至った。人気と名高い店で出て来るのもそんなレベルなのだから、恐れることは何もない。自分が店を開けば間違いなく繁盛する。と同時にもう一つの目標が出来上がった。

 この世界のカフェレベルを向上させること。抜きん出た存在が現れれば追随するのが世の常だ。自分がここでの金字塔を打ち立てようじゃないか。


「と決まれば揃えるものは豆、ミルク、器具だな」


 必要なものは全てここ王都で揃える。本当は自分で生産者のところまで赴き買い付けをしたいところだが、この世界の飛行船で行くとなると時間がかかりすぎる。行って帰って来るだけでとんでもない時間と金がかかるだろう。こだわりは大切だが、今そこにこだわりすぎても仕方がない。ある程度で妥協することも大切だ。

 三日間コーヒー豆を扱う焙煎工場を渡り歩いた結果、幸いにしていい品質のものが手に入った。豆のまま購入し、挽くのはミルを買って自分でやることにする。


 ミルクは牧場まで行くのは遠すぎるので、業者が行き交う市場へ行っていいものを見つける。大きな都なだけあって市場には豊富な食材が取り揃えられており、困ることはほとんどなさそうだった。


 器具に関してはコーヒー専門店が数軒あり、そこで見繕う。あまり客が入ってなさそうな専門店でじっくりと吟味する。業務用にコーヒー豆も取り扱っており店の中は芳醇なコーヒーの香りで満たされていた。


「エスプレッソマシンは直火式だけか」


 日本であれば電気式と呼ばれる、いわゆるシアトル系コーヒーチェーン店で使われている大型のものが一般的であるが、ここでは直火式の小型のものしか存在しない。小型のコーヒー沸かし器の意を持つマキネッタと呼ばれる直火式はカイトにも馴染み深い。一見すればスタイリッシュなヤカンのように見えるこれはイタリアで広く普及しているものであり、何と言っても手軽さが売りだった。


「お客さん、こちらの商品が気になりますかな?」


「ああ……」


 言いながらもカイトはしばし悩む。直火式のエスプレッソマシンは欠点がある。電気式のものに比べて得られる気圧が高くなく、エスプレッソを抽出した時のクレマ、つまりコーヒー表面に出来る茶色い泡がほとんど出来ない。ということはだ。


「ラテアートが難しいな」


 一杯のエスプレッソをキャンバスに見立ててミルクを注ぎ入れ、リーフやハートを描くラテアート。カイトが最も得意とするそのドリンクは是非ともこの世界でも再現したい。


「ま、ひとまずやってみてから考えるか」


 カイトは直火式エスプレッソマシンのマキネッタを一つ購入してから店を出た。

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