第89話 新玉ねぎのオニオングラタンスープ
「お待たせいたしました、オニオングラタンスープです」
「ありがとう」
次の料理を楽しみにしているフローラの前に置かれたのは熱々の湯気を立てるオニオングラタンスープ。
スプーンを下まで入れてすくえば、上にかかったチーズが後を引き、とろりと垂れる。一口食べてみた。スープに染み込んだバゲットからじゅわっと玉ねぎの甘みが溢れ出す。
「玉ねぎが甘いわ。熱々の料理が美味しい」
「フローラ様は出来立ての料理を召し上がることが少ないですからなぁ。こうした機会があったのはいいことかもしれませんな」
隣で同じくオニオングラタンスープを食すロレッツォがしみじみと言う。彼は護衛だが、幼い頃からフローラの成長を見守っていたため時々こうして実の親でも言わないようなことを言ってくる。
「しかし新玉ねぎは生で食べても美味しいですが、こうして調理されていても独特の甘みが損なわれないものですな」
「確かに、しゃっきりとした食感はないけれど甘みは残っているわね」
弱冠十三歳にして数々の美食を食べて来たフローラだったが、この店の料理はそれと同等、いや洗練されている見た目とは裏腹にどこかホッとさせるような味わいはそれ以上かもしれない。洗練と暖かみ。相反する二つが見事に調和した料理だ。
「ウチの料理人になってくれないかしら……」
「あとで打診をしてみましょうか」
フローラの呟きにロレッツォが頷く。
「にしても空港って随分沢山の人が来るのね」
店のガラス窓越しにターミナルを眺めていると、ひっきりなしに人々が行き交うのが見えた。どの人も大荷物を抱え、護衛を従えている人間も多々いる。
「今は花祭りも近いので、とりわけ利用客が多いのでしょうなぁ」
「花祭りねぇ」
フローラはため息をついた。
「おや、お嫌でしたかな」
「嫌ではないけれど」
スプーンを置いて、残っていたジュースで口を潤しながら答える。
この時期の話題といえば花祭りの事ばかりだ。どんなドレスを着るか、宝石はどうするか、髪型は、靴は、香水は。もっと幼い頃から毎年それはそれは楽しみにしていたが、今年ばかりはそうもいかない。浮かない心をせめて上向きにできないものかと、苦労してここエア・グランドゥールまでやって来たのだ。周囲の大人を説得するのに非常に骨が折れた。
と、そこまで考えながら窓の外を眺めていると、ピンク色の派手な髪色をした人物がこの店へとやって来るのが見えた。
「あら、あの髪色。美人と名高いリゴレット家の奥方様の髪色と同じね」
十三歳といえども社交界に参加し、貴族諸侯たちを把握しているフローラは瞬時に似通った人物を思い起こしてそう言う。
鮮やかなピンク色の長髪をしなやかに結い上げたリゴレット家の奥方といえば、社交界の華と呼ばれる人物だ。美しい見た目はもちろん会話術にもダンスにも長け、その優雅な身のこなしはとても成人した息子が三人もいるようには見えないと専らの評判だ。
夫であるリゴレット伯爵は騎士団の大団長を勤める威厳がある人物で、国の中枢にも影響を及ぼすような人物である。
「はて、あれはもしやそのリゴレット家の末息子ではありますまいか」
「えっ」
フローラはだんだん近づいて来るその人物を見る。
派手な髪色が似合う、作り物であるかのように恐ろしく整った顔立ち。ただ歩いているだけなのに道ゆく女性の視線を集めている。
「うむ、間違いありません。末息子は空港で働いていると伯爵が言っているのを聞いたことがあります。いやはや母親譲りの美貌だとは聞いておりましたが、その通りですなあ。フローラ様もお会いしたことくらいあるのでは?」
「あ、あるわ……しかも茶会では毎日のように話題にのぼっていてよ。今をときめく令嬢たちがみんなして彼との結婚を望んでいるんですもの」
高貴な身分の淑女ともなると婚姻の年齢は下がる。フローラは十三歳で婚約者を決められそうになっているし、周りのお友達も皆、結婚相手が決まっていたり既婚者だったりした。二十歳まで未婚の人間の方が稀な中、十代後半にもなる令嬢はこぞってそのリゴレット伯爵家の末息子と結婚したがっているというのは耳にタコができるほど聞いた話だ。
その男の名は確か、デルロイ。フローラが直接会ったのはもう六年は前の話だが、確かに皆んながもてはやすだけはある方だと思った記憶がある。
問題は、彼が自分の顔を覚えているかどうかだ。まあなまじ覚えていたとしても六年前といえばフローラは七歳だ。だいぶん顔立ちも変わっているし、おそらく自分が誰だかはわかるまい。
そうタカをくくったが、男とバチっと目があった瞬間、男はわずかに目を見開いてその薄い唇を開きかけた。続いてロレッツォに視線を移すと、瞳に困惑と衝撃の色が色濃く渦巻くのが見て取れた。
フローラはばっと視線を下げた。うつむいた目の前では食べかけのオニオングラタンスープがまだ湯気を立てている。かぶっていた帽子のつばを引っ張ってなるべく顔が見えないようにする。
「フローラ様、不自然ですぞ」
「わ、わかってるわよ。なんでロレッツォは普通にしていられるの」
「年の功というやつですなあ」
ほっほっほと笑う壮年の護衛が少しばかり憎い。
せめてこれ以上おかしく見えないよう、スプーンを手に取りスープを口に入れる。コンソメと玉ねぎの優しい味わいが少しだけ心を落ち着かせてくれた。
心臓がバクバク言っている。別にトキめいたわけではない。もっと切羽詰まった理由での動悸だ。
デルロイがさっさとどこかへ行ってくれるのを願うフローラだったが、無情にも彼は店の中へと入って来た。まずいわ、話しかけられたらどうしましょう。
しかし、店の窓際席で密かにドキドキしているフローラをちらりとも見ずに素通りし、デルロイはカウンター席まで歩いて行った。慣れたようにそこに腰掛ける。
「いらっしゃいませ。デルイさん、今日もお疲れ様です」
「うん、今日もソラノちゃんのオススメをお願い」
「はい!」
先ほどの店員と親しそうに会話をしつつ注文している姿を見るに、常連なのだろうか。
「しまったわね……」
「では作戦は中止としますかな。その方がわたくしめにとっては嬉しいのですが」
「なっ、中止なんてしませんわ。私は絶対に、ここで彼の姿を一目見るまでは諦めません!」
「やれやれ、強情なところは母君譲りですなあ」
ロレッツォが首を振り振りため息をついた。気づけばロレッツォのオニオングラタンスープはもうほとんど残っていない。
「私にだってプライドがあります。やっとの思いでこの偵察をもぎ取ったのだから、初日でやめるわけにはいかないわ」
「これはほとんど脱走に近い行為だと思いますがな……もしくは脅し取ったとでも言うべきですか」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。とにかく私は帰りません。それに料理だってまだまだ来るわけですし」
そう、フローラはここで帰るわけにはいかない。彼女には目的があるのだ。
そして彼女は周りに絶対に気取られてはいけない秘密を抱えていた。
この自分が実はーーグランドゥール王国の第七王女、フロランディーテであるということを。
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