第81話 人参のスープ

「いらっしゃいませ」


「いらっしゃったよ……」


「お疲れ様です、ヴィクトーさん」


 扉をくぐって入ってきたのは管制部門課長の四十代の男。ボサボサの髪にくっきりと刻まれた目の下の隈、まばらに生えた無精髭、シワシワの制服を着た男はまるで三日三晩ほぼ徹夜で働いていた人間の雰囲気を醸し出していた。

 ヴィクトーはよろよろとカウンター席の一番目立たない席に腰掛けてハーッと大きくため息をついた。

 テーブル席に座っていた貴族らしき女性が嫌そうな顔をしてさっさとソラノをお会計に呼んだ。会計を済ませてからヴィクトーの接客へうつる。

 ヴィクトーは幽鬼のようにげっそりした顔に弱々しい笑顔を貼り付けて言った。


「すまないね、この店に来るような格好じゃないとはわかっていたんだが」


「いいんですよ。随分疲れてるみたいですね」


「ああ、ちょっとトラブルに次ぐトラブルに見舞われてね。かれこれ三日は管制塔にカンヅメだ」


「それは……お疲れ様です」


 ソラノは心の底から労いの言葉を紡ぐ。お仕事を頑張る人は凄いと思う。ヴィクトーの隣に座るデルイも三日ここへ現れなかったので仕事が大変だったのだろうが、彼はどこか超然としているのでイマイチ疲労感というものがみられない。少なくともこのようにくたびれた感じを全開にしているのは見たことがなかった。


「本日は前菜にもスープにも、ヴィクトーさんがお好きな人参が使われていますよ!」


「お、そりゃありがたい。じゃあ前菜からもらおうかな。白ワインと一緒に」


「はい!」


 疲れた心と体にはとびっきりの笑顔とご馳走が必要だとソラノは思っている。バッシに元気よくオーダーを通してからお水と白ワインを渡した。後ろではレオが懸命に皿洗いに勤しんでいる。


「すみませーん」


「はい! ただいま参ります」


 他のお客様からお呼びがかかった。ソラノはレオに指示を出す。

 

「レオ君、前菜出来上がったらバッシさんから受け取って、カウンター席のヴィクトーさんに提供してくれる?」


「おう、わかったぜ」


 レオが素直に頷いたので、そのままカウンターから出た。注文を承り、ついでに入ってきた他のお客様を客席に案内し、それからオーダーを通して新規のお客様にお水を持って行く。ヴィクトーは美味しそうに前菜のキャロットラペを食べていた。

 一通りの接客が終わったのでカウンターへと入って行くと、ちょうどバッシがスープを出してきたので受け取る。


「どうぞ、人参スープです」


「おお」

 

 橙色の人参スープ。浮き実までもがクルトンではなく揚げた人参でできている。


 ヴィクトーは人参が好物だ。四十代も後半に差し掛かっている彼は最近健康に気遣っていて豊富なビタミンを含む人参を積極的に食べている。奥さんが栄養管理をしっかりしているらしく、「人参は体にいいからって言われてさ。カミさんの作る人参料理がうまいんだよ」と惚気ていた。


「このスープはカミさんには作れない味だよなぁ」


 無精髭がポツポツと周りに生える口にスープを流し込み、ヴィクトーが言った。


 バッシの作る人参スープは手が込んでいる。

 

 人参と玉ねぎをバターでじっくりと炒め、馴染んだらそこに自家製チキンブイヨンを注ぎ入れる。丁寧にアクをすくって弱火で四十分煮込み、クミンと塩を加えて撹拌<かくはん>する。鍋に戻して生クリームを加え、沸騰直前まで温める。

 ここにカリカリに揚げた人参の浮き実を飾ったら完成だ。


「このちょっとスパイシーな香りは何だい?」


「それはクミンの香りですね」


 クミンというと馴染みがないが、カレーの主原料となっているスパイスだ。エスニック風の清涼感がある香りが特徴で、人参によく合う。


 よくよく味わって飲み込むと、またワインに手を伸ばす。


「たまらんね」


「それはよかったです」


 ヴィクトーがじっくり味わっている合間にもソラノは店内を動き回って接客をしていた。ひと段落ついたところで、ソラノの方から話しかけてみる。


「それで、どうしてそんなにお疲れなんですか?」


「聞いてくれるかい」


「はい、聞きますよ」


 そう言うとヴィクトーは大きく頷き、グラスをカウンターに戻した。


「ゴタゴタが重なったっていうのはあるんだがね。一番大きいのは妖樹のせいだな」


「妖樹?」


 ソラノが首を傾げて尋ねる。隣に座ってスカイと談笑していたデルイもふとこちらに興味を持ったようだった。皿を洗っているはずのレオも「妖樹だと?」と呟いて振り向いてきた。


「ああ。そういう名前の魔物を乗せた飛行船が第三ターミナルに着港したもんでね。一時的にターミナルを封鎖して、保安部の職員と王都の騎士団が討伐にあたったんだ。隣の君たちの方がその辺は詳しいんじゃないか?」


 そう言ってヴィクトーがデルイとスカイに話を振ると、スカイがそれに食いついた。


「詳しいも何も、俺たちそれの討伐してきたんすよ。デルイ先輩がすげー強くって、四百人分の魔素を吸った推定Aランクの妖樹をほとんど単騎で撃破したんです」

 

「Aランクの妖樹を単騎で?」


 皿を握ったままのレオが話に割り込んでくる。興が乗ったらしいスカイが身振り手振りを交えて語り出した。


「そう。迫り来る鞭みたいな枝を避けたり切ったり雷魔法で焦がしたり、そんでおどろおどろしい本体にも怯まずに突っ込んで行ってあっという間に弱点の幹の双眼を突いて倒してんの」


「片眼はスカイが突いただろ」


「でも先輩のフォローなしじゃあそこまで辿り着けませんでした」


「スゲー、この人そんな強いのか」


 冒険者として感ずるところがあるのかレオがデルイをまじまじと見る。デルイは否定も肯定もせず、ただ整った顔に笑顔を浮かべワイングラスを傾けていた。


 そうか、討伐があったから来なかったのか、とソラノは納得した。それは疲れたことだろう。何かサービスで出せるものがあるかバッシに後で聞いておこう。


「そんな妖樹を倒したのはいいんだが、船がボロボロになったもんで整備のために第三ターミナルのドッグが一つ占拠されてな。飛行船の発着にも影響が出たんだ」


 曰く、飛行船の発着というのは細かく時間が決められているのだが、この時期は特有の季節風により飛行船の発着時間に遅れが生じるらしい。それに対処するために管制官は接近してくる各飛行船と連絡を密に取り合い、目視での誘導をしている。

 しかしそれに加えて妖樹騒動によってターミナルが一つ封鎖されたため着港ができなくなり著しくダイヤが乱れた。その後もドッグを一隻が長々と占拠しているため他船のメンテナンス作業に影響が出て、本来そこを使うはずだった船を別の空いているターミナルやドッグに誘導しなければならず、その網の目を縫うような作業に膨大な労力を裂かれた。

 勤務体制は厚くしてあったが対処しきれず、否応無しに課長である彼が現場責任者に駆り出され、こうして徹夜仕事を強いられたというわけだ。


「それは大変でしたね……」


 ソラノはおかわりのワインを注ぎながら同情した。


「ああ」


「しかもまだ制服でいらっしゃるということは……」


「そう。今は少し休憩をもらっただけでね。仮眠をとったらまた管制塔に逆戻りだ」


 いっそ開き直ったようにヴィクトーが笑う。


「早く帰ってカミさんと娘に会いたいもんだ」


 そう言うヴィクトーにソラノがかけられる言葉はない。レオは皿洗いを放り出して、デルイとスカイと三人で妖樹談義をはじめていた。


「ひとまずメイン料理でも召し上がって元気出してください」


「そうするよ」


 隈が浮かんだ目元にうっすらと笑みを浮かべてヴィクトーが言う。結局彼が家へと帰れたのはさらに三日が経った後だと、後から聞いてソラノは知った。





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