第71話 一日の終わり ビーフシチュー/異世界からの来訪者

 ソラノは時計を見た。時刻は二十一時半を過ぎたところ。ということはアーニャはすでに三時間ほどこの店に滞在していることになる。満員になったらすかさず追い出そうと思っていたが、席はちらほら空くのでそうせずに済んでいる。 

 カウンターには馴染みの顔ぶれが並んでいた。店がリニューアルしてから、いつもお弁当を買ってくれていた職員が入れ替わり立ち替わり来るようになっていて、ワイワイと飲んだり食べたり話したりいつもお店は賑やかだ。相槌を打つソラノとしても楽しい。

 

 店は二十二時には閉店なのでもう少しだ。色々あったがあとは居並ぶ常連にお帰りいただき、閉店作業をすればおしまい、遅めの夕食を取りまた明日の午後から仕事を頑張ればいい。

 半ば強制的に約束をさせられたデルイとのデートについては今はまだ考えるのは止めよう。嫌なわけでは全然なくむしろ嬉しいんだが、なんというか気分は仕留められる直前のウサギのようだった。今まではソラノのペースに合わせてくれていたのだろうが、ここから先はそうはならないような気がする。そしてそれを考えると若干恐ろしい。

 余計なことを考えると手元が狂いそうで、変なミスをしそうだった。仕事に支障が出てしまうからもうやめよう。 


  そう思って気持ちを切り替えた矢先、店先に人が立っているのを見つけた。三十代ほどの男の人だ。

 彼は少し困ったような、戸惑ったような表情を浮かべてポリポリと頬をかいている。


(ーーあ、この人)


 彼はただ立っているだけなのだが、それだけでソラノには全ての事情が理解できた。この男の人は細身のジーンズに黒のシンプルなトップスを着て、上からなんの飾り気もないカーディガンを羽織っている。すっかり見かけなくなった、かつて街中にありふれていた服装。そして極め付けは、右手にスーツケースを握りしめて左の肩からボストンバッグをぶら下げている。手にはご丁寧にスマホまで握って。

 

 ソラノはカウンターから出て扉から顔を覗かせ、声をかける。


「こんばんは、お迷いですか?」


「あ……そうなんすよ。さっきまでミラノの空港にいたはずなんだけど」


「それはまた、随分遠いところから来ましたねえ」


 ソラノの場合、フランスだった。やはり空の上だけあって空港と縁が深いのだろうか。


「君、日本人だよね。ここはどこか知ってる?」


 黒髪黒目のこの人も、十中八九日本人だ。だってボストンバッグから緑のパッケージの緑茶のペットボトルが覗いている。わざわざミラノで買ったのか、ミラノにそんなものが売っているのか、それはソラノにはわからないが、とりあえずこう返事をする。


「はい。説明すると長いので、とりあえず店の中入っていきませんか?」


 この場合保安部へ連絡するんだったなと思いながら店内へと促せば、彼は戸惑いながらも中へと入ってくる。カウンターへと腰掛けた。アーニャの左隣の席だ。彼女の頭からうさぎの耳が生えているのを見て一瞬ギョッとした顔をしていた。バッシは表に出さないほうがいいだろう。初対面の人が見るにはインパクトが強すぎる容姿をしている。


「お洒落っすね」


「でしょう。改装したばかりなんですよ」


 ソラノは保安部三人組に向き直った。


「デルイさん、ルドルフさん、スカイさん。異世界からのお客様です」


「やはりそうですか」


「あー、成る程ね」


 ソラノの声掛けにルドルフとデルイが納得した。


「もうお仕事終わってますよね。どうしましょう。保安部に連絡しますか?」


「スカイ、お前行って来てよ」


「ちょっ、ヒドくないっすか!?俺だって勤務時間は終わってますよ」


「連れて行ってくれりゃ後は誰かが対応するだろ。それか誰か連れて来て」


 早速後輩を顎で使い出すデルイ。


「せめてこれ食べ終わるまで待ってくれません!?」


 スカイは追加で頼んだ料理を急いで食べていた。カイトはなぜかキラキラした瞳で見つめているアーニャを気にせず、マイペースにスマホを取り出し画面を見つめた後、首を横に振っていた。


「ダメだ、ずっと圏外。申し訳ないんだけど、電話したいからスマホ貸してくんないかな」


「あー、持ってないんですよねえ」


「持ってない?」


 そんな日本人いるの?とでも言いたげだが、持ってないんだから仕方がない。持ってたやつはスーツケースの中に眠っていて、この一年触れてすらいない。


「私は木下 空乃です。お兄さんのお名前は?」


「松浦 凧かいとです」


「カイトさんですね。どこから説明すればいいか迷うんですけどねー。ひとまずお腹空いてませんか?私がご馳走するのでご飯食べて行ってくださいよ、ビーフシチューが美味しいですよ」


 半ば押し付けるようにいうソラノ。デルイの後輩のスカイもまだ食べているところだしちょうどいいだろう。


「あ、じゃあ。奢ってもらうの悪いんで金は払います」


「通貨が違うので、支払えないんです」


「ん?ユーロでも日本円でもないの?」


「違うんです」


 ソラノはバッシにオーダーを通してビーフシチューを皿に盛り付けてもらい、それをカウンターの前に出す。

 このカイトという男はここから一年後、ソラノを大いに巻き起んで事件を起こすのだがここでは無関係なので割愛する。


 とりあえずソラノは笑顔を浮かべてこう言った。


「ここは異世界、世界最大の空港エア・グランドゥール! ビストロ ヴェスティビュールへようこそ。ひとまず食べて、落ち着いてくださいね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る