第51話 ガストロノミー
ガストロノミー、という言葉をご存知だろうか。フランス語で「美食」を意味するこの言葉は格式の高いレストラン名の冠として用いられていることが多い。贅沢な空間に高価なお皿やカトラリー、テーブルクロスやナフキンに至るまで最高級のものが使用されており、給仕にはメートル・ド・テルと呼ばれる給仕長やソムリエが上質なサービスを提供してくれる。
そんな日本にいたら絶対に縁がないような空間に、ソラノは今この時、バッシとともに足を踏み入れていた。
店前に立つ案内係りに予め予約してあった名前を告げ、席へと通される。予約時に一度店にきていたソラノだがここまで飾り立ててしまえば一度会っただけのソラノのことなど見破れるはずもなく、二人はすんなりと席へ通される。
赤いカーペットが敷き詰められ、頭上にはシャンデリアが輝くその空間はまさに浮世離れしており、他の客も旅装とはいえお洒落をして来ている。かつてこの世界に来たばかりの時、ソラノは日本で着ていた普段着のままでこの富裕層エリアをうろうろして冷たい目で見られたことがあったが、今ならわかる。確かにかなり場違いだっただろう。
給仕係が引いてくれる椅子にゆっくりと腰掛け、背筋を伸ばす。テーブルの上にはフォークとスプーンが何本も置かれており、中央には真っ白なお皿が据えられている。その上には綺麗な形に整えられたナフキンが乗っていた。
「食前酒は」
「キールで」
バッシがつつがなく答え、給仕係が去って行く。バッシがナフキンをとったタイミングでソラノも同じ行動をする。ドリンクが運ばれ、バッシと目線の高さに合わせて乾杯をした。続けて出て来たオードブル、ナイフとフォークを手に取り左側から少しづつ切って口に運ぶ。
コース料理を食すのはとかく時間がかかるものだ。何も準備がない状態でこんなことを数時間近くもやることになったら、背中に汗はダラダラかくし、何を話していいやらわからず変なことを口走りそうだし、そもそも値段が気になって食事どころではなくなる気がする。ワイン一つ頼むにしても価格ばかりを見ていただろう。
「食事は楽しむもの。マナーは最低限気をつければいい」なんていう人もいるだろうが、それは基本のマナーが完璧だからこそ言える言葉だ。ズブの素人は言っていい言葉ではないし、それを鵜呑みにするととてつもない恥をかく。
しかしこの数ヶ月に及ぶ特訓を重ねたソラノは、そんな愚を犯すことはしない。二人はごく自然な動作で食事をし、一旦ナイフとフォークを置く時も考えることもなく正しい形でカトラリーを皿の上に置き、ワイングラスを持つ手の形も完璧だった。背筋が曲がることもなく、料理を上手く切れないなんてこともなく、フォークの背に乗せる大きさも丁度いい。
そしてこれが最も重要なことなのだがーー緊張せずに食事を楽しめるということは、周りを観察する余裕があるということだ。
「本日のスープ キングロブスターのスープです」
サーブされたスープを奥から手前にすくい、口の中へと流し込む。魚介類の濃厚な味わいがする。
「キングロブスターってなんでしょうか」
「海に生息する海老の一種だ。体長は一メートルほどもあり身がぎっしりと詰まっていてとても濃厚な味わいがする。捕獲が困難なので市場にはあまり出回らない、貴重な食材だな。もし俺が調理するならグリエにする」
「そんな貴重な食材がスープの段階で出てくるなんて……」
思わずスープをすくう手が震えそうになる。これから出てくるメインには一体どのような食材が使われているのか。
「高級食材を使うのはレストランの格を表す大切な要素だ。お嬢さんが選んだこのガストロノミーは王都の中心街にも店があるんだか、そこは王都でもトップクラスの格式高い店だよ。ほら、見えないだろうがお嬢さんの後ろのテーブルにいるのは、公爵家のご子息とその友人だな」
「公爵……なんだか身分が高そう」
「その隣は貿易により一代で富を築いた商会のご一家だ」
「私たち今、そんな人たちばかりが集う場所に身を置いてるんですね」
「だが心配いらない。お嬢さんの作法はパーフェクトだ」
「全てはバッシさんのおかげです」
合間にちょっとした会話をしながら、提供される高級な料理の数々。ワインがバッシがソムリエと相談して決めてくれるので、ソラノは任せるだけだった。何が出て来ても美味しいのでなんだって構わない。
「タラのヴァプール 白ワインソースです」
ヴァプール、それは蒸気で蒸す調理法をさす。もはやソラノの中ではそんな事は聞かなくても知っている知識となっていた。
「以前バッシさんが作ってくれたタラの衣焼きとはまた違う味わいですね。こっちはふっくらとしています」
どちらの方が美味しいか、と聞かれたらソラノとしては断然バッシの料理なのだが、そんな事はいちいち口に出さない。白ワインを一口味わいながら含み、バッシが言う。
「そう、同じ食材でも調理法によって全く異なる味わいになる。さらに使用する調味料やハーブの組み合わせで料理は無限の広がりを見せていくんだよ」
「奥が深いです」
この二人の会話はいまいち色気にかけているが、当事者たちはいたって真面目に料理について語り合っているのでどうでもいい事だった。
ちなみにメインの肉料理は牛肉を使わないメニューにしてもらうよう予約の時に予め伝えてあった。今回コースは基本的に店のお任せだったが、要望を伝えればその通りにしてもらえる。というわけで二人は口直しのグラニテを頂いた後に、供されたコカトリスのコンフィを頂く。
「コカトリスって魔物ですよね。魔物、身分の高い人たちは食べないかと思っていました」
「コカトリスは希少で極めて美味だから、やんごとなき身の方々も口にする。大切なのは魔物かどうかと言うことじゃなく、美味いか不味いか、珍しいかどうかと言う部分だ」
「なるほどー……」
「ちなみに最高級とされる肉は竜の肉だ。竜といってもランクがあるからピンキリだが、低ランクでも庶民が口にする機会はあまり無い程の高級食材だよ」
「そういえば前、ルドルフさんとデルイさんが実家で竜のお肉を食べていたって聞いたことが……あの二人、やっぱりお金持ちなんだぁ」
「誰だ?」
「最後にお店に入ってきた二人組です」
「あぁ、あの二人」
バッシはワインを口に含み、なにやら考えてから言う。
「どういう関係かは知らないが、あのうちの一人の誘いを断っただろう」
「えぇ……はい。だってバッシさんと行かないと、視察になりません」
「理由がどうであれ、あの断り方は良くないと思うぞ。ああもキッパリ言われたら、傷つくだろう」
ソラノもワインを一口飲む。そろそろ酔いが回ってくるかと思ったが、仕事だと意気込んでいるせいかまだ頭ははっきりしていた。
「お嬢さんが同じ立場で断られたらどうだ? もう少しやんわりした言い方をするべきだったと思う」
「確かに……そうですね」
言われてみればそうだ。あの時はこれからディナーへ行くという意気込みが勝ちすぎて、デルイの気持ちまで考える余裕がなかった。それでなくとも最近は、彼の誘いを無下にしている自覚があった。
「あとで謝ります」
「それがいい」
料理もお酒も着々と進んで行く。やっと最後のデザートまできた。長かった。
「デザートは俺も作るが……パティシエがいるところはやはり違うな」
「でも前に女王のレストランで頂いたシルベッサのシャーベットは美味しかったですよ」
「あれはパティシエの作ったものだ。俺は知識を披露しただけ」
「あ、そうだったんですか」
「作れないわけじゃねえんだが専門分野ではないからな。パティシエを雇えたら違うだろうな」
「まあその前に、お店潰れないように努力が必要ですね」
「そうだな」
コーヒーを飲み、ナフキンをテーブルに戻して席を立つ。ナフキンは綺麗に畳まないのがマナーだと聞いたときは意味がわからなかったが、それが美味しかったという合図となるそうなのでそのようにする。
「ごちそうさまでした」
ソラノは最後にお辞儀をし、バッシとともに店を出た。
「お嬢さん、よくやった。完璧だったぞ」
「ありがとうございます。やりきりました。意外に緊張しませんでした」
「それはマナーがごく自然に身についた証拠だ。最初に一番レベルが高い店に来たからな。後は楽勝だと思えばいい」
「はい。ちなみにお会計、おいくらでした?」
第一ターミナルへと戻る道すがら、興味本位で尋ねてみる。
「ざっと十万ギール」
「じゅっ……」
「大丈夫だ、経費で落ちる」
絶句するソラノにバッシは何気なく言う。
「ちなみにこれでも安いほうだ。おそらく店で一番高いコースを頼んでいたらもっと金額はかさんでいたぞ」
「お金持ちって怖い……」
一生理解できなさそうな世界にソラノは震えた。
「ところで店に入って料理を食べてみての感想はどうだ?」
バッシに問われ、ソラノは考える。
「内装からテーブルセッティングから、全てが豪華でおどろきました。出てくる料理もなんだか貴重な食材ばかりで……でも」
「でも?」
「見た目の華やかさに欠けていた気がします」
少し前までのソラノなら、マナーに気を取られこんな傲慢とも言えることを感じる余裕などなかっただろう。だがソラノは今現在、料理をじっくり観察する余裕がある。その結果、出てきた感想がこれだった。料理は素晴らしかった。けれどどれもこれも、ややシンプルな感じがしたのだ。
「なるほどな。だが貴族街からほど近い高級レストランも大体があんな感じだ」
「そうなんですか? 私がいた世界では、もっと見た目にこだわったお店が多かったですよ」
「向かっている方向性の違いだな。ま、明日はモーニングとランチだ。またそこでも観察してみようか」
感想を述べながら第一ターミナルへと向かっていた時、バッシが不意に足を止めた。
「あれ? 店の明かりがまだついてるぞ」
「え?」
バッシが言うのでソラノは店を見た。確かにまだ明かりがついている。
「戻ってくるの待ってたのか?」
店に近づき扉を開くと、そこにいたのはカウマンにマキロン、アーニャにルドルフ、デルイだった。なにやらみんなでワインを飲みかわし、料理をつついている。
「おぅ、帰って来たか」
「おかえり、ソラノォ。高級レストランの味はどうだった?」
飲みすぎているのかアーニャは顔が赤いし呂律が若干回っていない。
「どうって……美味しかったよ。皆なにしてんですか?」
「嬢ちゃんの話をしてやってたとこだ」
「ソラノちゃん、家にゴキブリが出て悲鳴あげたんだって?可愛いところあるね」
「えっ、なんでそんな話を!」
「もし今度出たら俺が倒してあげるよ」
「デルイさんゴキブリ平気なんですか?虫とかダメそうな顔してますよ」
「虫よりもっと気持ち悪い魔物倒してきてるから全然平気」
「ソラノさんが思っているよりこいつの肝は座っているぞ」
先ほどまでの格式ばった雰囲気から一転して、和気藹々とした様子に一気に肩の力が抜ける。デルイがなにやら戻って来たバッシに絡んでいた。
「二十歳も年下の可愛い女の子とデートして、どうだった?」
口調は軽いが、目が笑っていない。バッシはデルイと初対面だったはずだが、何かを察したのかデルイの肩を叩き、親指をぐっと立てた。
「安心しな、兄さん。確かにお嬢さんは素敵だが、俺はもっと……年上の女性が好みだ」
「…………」
「店が落ち着いたら返すから、もう少し俺に預けておいてくれ」
「あの、デルイさん」
「ん?」
ソラノは話しかけようかかけまいかしばし迷った後、おずおずとデルイに話しかける。
「さっきはすみません。ちょっと気持ちに余裕がなくて・・・デルイさんがダメってわけじゃなくてですね。今日は視察なのでバッシさんと行かないといけなかったんです。言葉が足りなくてごめんなさい」
「あー……」
デルイはなにやら気まずそうな顔をして髪をくしゃっとかきあげた。
「俺こそごめん。ソラノちゃん、仕事だったもんね」
「はい」
頷くソラノにルドルフがからかうような声を出した。
「ソラノさん、気にしなくていいですよ。こいつの場合、ただの嫉妬だ」
「嫉妬?」
「おい」
デルイが不満そうな声を出したが、気にせずルドルフは続ける。
「ソラノさんがあんまり可愛かったから、他の男と出かけて欲しくなかったんですよ」
「おい!」
デルイはカウンターテーブルをバンバン叩いて抗議した。
「今更なんだ。事実だろ」
「説明されると恥ずかしいだろ!自分で言った方がマシだ!」
「あー……」
なんと言っていいかわからず、ソラノは困った。デルイは珍しく顔を赤くしており、こちらまで照れてしまいそうだった。
「ねーっ、ソラノ! このまま朝まで飲もうよ!」
「なに言ってんの。明日も早いんだからもう帰るよ。ほらほら、撤収!」
絡んでくるアーニャの相手をしてひとまず話をごまかす。なし崩しに片付けを始めて、このまま閉店の運びとなった。
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