第32話 幻惑の檻
ソラノはまどろむ意識の中、夢を見ていた。それは日本にいた時の夢で、ソラノが小学五年生だった時の夢だ。
「空乃ちゃん、足を捻って怪我しまいまして。迎えに来ていただけませんか」
空乃は学校の保健室でぼんやりと横たわっていた。足がズキズキと痛む。体育の時間に走り高跳びで無理な体勢で着地したせいで、足を捻ったのだ。ただの捻挫だろうが、パンパンに腫れていて歩くのもままならない。
「まあ、ですがこの状態では一人で帰れないと思いますよ。結構腫れてますし」
保険医の先生が親と話す声が聞こえる。来るのを渋っているようだ。共働きなのですぐに仕事を抜けて来られないのだろう。いつもそうだ。
空乃はため息をつき、先生に言った。
「先生、私一人で帰れます」
「ええ? でも、その足じゃ歩けないでしょ。ひどい怪我だったら大変だし……いいわ、私と病院に行きましょ」
そのあと二言三言親と会話をした後、先生は電話を切って空乃に向き直った。
「ちょっと仕事を片付けるから、そこで待っててね」
保健室のベッドで横たわり、やることもなくチャイムが鳴る音をただ聞いている。五時間目は国語だ。後で友達にノート見せてもらおう、などと思いながら。
そうしていると保健室の扉が開き、「すいません、木下空乃の兄ですが」という声が聞こえた。
「えっ、お兄ちゃん!?」
空乃はベッドから起き上がってカーテンを開けた。そこには本当に空乃の兄が立っていた。年が十も離れている空乃の兄は現在二十一で、大学に通っていた。
「あ、お前、足を捻ったんだって? 大丈夫か」
「うん、ちょっと変な風に足ついちゃって」
「あら、お兄さんが来てくださったんですね。助かりますわ」
保険医の先生がほっとした声を出す。
「ご迷惑おかけしました。妹は俺が連れて帰りますから」
「はい。またね、木下さん」
「はい、ありがとうございました」
「ほら、おぶってやるから背中に乗って」
「えっ、ちょっと恥ずかしいんだけど」
小五にもなって兄におんぶしてもらうなんてちょっと恥ずかしい。誰かに見られたら絶対にからかわれる。しかし兄は許してくれなかった。
「駄目だよ、無理に歩いて悪化したらどうすんの。ほら、車停めてあるからさ、ちょっとの間だけだし、どうせみんな授業中だろ? さっさと乗って」
「……はーい……」
しゃがみこむ兄の背におずおずと身を預ける。結構重くなったはずの空乃を軽々おんぶし、ランドセルを腕にかけると颯爽と歩きだした。
「お兄ちゃん、大学は?」
「今日は二限までだから終わって家に帰ってたんだ。バイトは夜からだし、このまま病院行くからな」
空乃の兄は頼もしい。両親がほとんど家にいないから、空乃は兄に育てられているも同然だった。何か困ったことがあれば相談に乗ってくれるし、病気になれば看病してくれるし、勉強も教えてくれる。昔友達に、「空乃のお兄ちゃんって普通の顔してるよね」「ていうかむしろちょっと地味目だよね」と言われ、本気で激怒したことがある。空乃にとって兄はこの世で一番かっこよくて頼りになる大好きなスーパーヒーローだ。
「お兄ちゃん、就職してもおウチ、出てかないでね」
空乃は兄にギュッとしがみつく。兄は就職活動真っ最中だった。兄が家からいなくなれば、空乃は家に一人になってしまう。それはとても寂しい。
「空乃がもっと大きくなるまでは家にいるよ」
「本当? ていうかお兄ちゃん、私と結婚してくれるんでしょ」
「お前……小五にもなってまだそんなこと言ってるのか」
「いくつになっても言うよ」
学校の駐車場につき、空乃を助手席にそっと降ろしてから兄ははいはい、と言った。
「じゃ、病院行くから、シートベルト締めて」
「はーい」
運転席に乗り込んだ兄は空乃を見て、それから優しく頭をなでてくれた。その手は大きくて暖かくて、空乃に無条件で安心感を与えてくれる。空乃はふにゃり、と笑顔を作った。
+++
ーー
「!?」
ソラノの脳天に電撃のような衝撃が走った。叫ばなかったのは、口がふさがれていたせいだ。何かぬめっとした吸盤のようなものがソラノの頭部を覆っている。今しがたの衝撃にまどろみからは無理やり引きずり出され、覚醒した脳は状況を把握しようと必死で働きだす。頭部に巻き付いていた物体はするするとソラノから離れ、ズルッ、ベチャッ、と音を立てながらどこかに移動している。
何が何だかわからず、とにかく何が起こったのかをソラノは思い出そうとした。
確か家へと帰る途中、怪しげな人物がアパート前に立っていて、急に意識を失った気がする。
ーーもしかして誘拐? 攫われた?
背筋がぞっと粟立つ。皆が言うように、防衛意識が足りなさ過ぎたのだろうか。心配するカウマン夫妻の言う通り遅くまで仕事せず、さっさと帰っていれば人気のない道で怪しい人間に会うことなどなかっただろうに。
身を起こし、手足が動くか確かめる。特に拘束されているわけではなさそうだ。脱出できるだろうか。というかあの、ヌルヌルしたものは一体何だったのだろうか。
室内は弱々しい明かりが一つ灯っているだけだ。薄暗くてよくわからないが見回してみると、殺風景などこかの部屋らしい。あまり広い部屋ではなさそうで、おそらく四畳くらいの大きさだろう。天井もソラノの頭より少し高いくらいだ。
こういう時はどうすればいいんだろうか。大声を出す・・・のは、誘拐した人物に気づかれるから止めたほうがいい?それとも外に人がいるかもしれないから、助けを求めて叫んだほうがいいのかな。見た感じ部屋には扉も窓も無いようで、大きな箱の中にでも入れられているようだった。
状況を把握しても、どうすればいいのかさっぱりわからない。
魔法の練習をもっとしておくべきだったと悔やんだが今更どうにもならなかった。何か脱出する方法はないものか。
ふと、部屋の片隅に細長い桶のようなものが置かれているのに気づいた。よくよく見ると真っ白な指が数本はみ出している。
混乱するソラノは、震える足を叱咤して立ち上がり桶へと近づいてみた。
「誰かいるの……?」
ソラノは恐る恐る声をかける。その手はあまりにも白すぎて、とても生者の者とは思えない。そっと桶を見下ろすと、中には彫刻のように美しい顔をした女の子が一人、半身を水に漬かって横たわっていた。全身を見てはっとする。
女の子は上半身が人間で、下半身がーー魚の形をしていた。
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