第31話 不穏な影

 その日の夜、ソラノは満足して家路へと着いていた。お弁当は待っている人が沢山いて、容器を返却しにきてくれた職員は口々に「美味しかったよ」とか「明日も買いに来るから」と言ってくれた。

 容器を洗って綺麗に拭いて、明日の準備をしていたら予想外に遅い時間になってしまった。さっさと帰ってもう寝よう。

 たたた、と風の魔法を足にまとわせ小走りに住宅街を駆け抜ける。角を曲がった先、自宅が見えたその時に、ふっとーー目の前に誰かが立ちふさがった。


「? どいてください」


 ソラノは不審なその人物に話しかける。黒いローブを着て、フードを目深にかぶっているせいでどんな人物なのかよくわからないが、こんなことは一度もなかったので不安を駆り立てた。

 男か女かもわからないその人物は、ソラノが後ずさりして走り去ろうとする数倍も早く動く。


幻惑の檻ファンタズマゴリア


 魔法に対してほとんど無防備なソラノを捕らえるのにその魔法は十分すぎる威力を発揮した。虹色に光る檻に捕らわれたソラノは刹那の内に意識を刈り取られ、その場に倒れ伏す。

 フードの人物はソラノを抱えると、一瞬のうちに姿を消した。



 フードの男は王都の中心街へと赴き、街で一際大きい宿の一室に窓から入っていく。姿を見とがめられないのは高度な透過の魔法を使っているからだ。自身だけではなく触れている者の姿をも消し、壁や床をすり抜けることができるその魔法は習得が非常に困難な上多大な魔力を消費する。王家の隠密であっても使いこなせるものはごくわずかだ。

 意識のないソラノをどさりと豪奢なベッドの上に投げおろし、自身の主へと跪く。


「連れて参りました」


「ご苦労」


「幻惑の檻で眠っているので、三日は目を覚まさないかと」


「大変結構だ。明日、飛行船に乗り込み出港することとしよう」


 主は眠るソラノを見下ろした。幻惑の檻は眠り魔法の最上級に位置する。使用された者は抗い様のない眠りの檻へと引きずり込まれ、そのまま最低でも三日三晩眠り続ける。抵抗するには熟練の魔法障壁を築くか己の精神力の強さに賭けるか、はたまた外部から相当な覚醒魔法アウェイクをかけられるか。何にせよ、何の力も持たない小娘に解けるような術ではない。


「目撃されてはおらぬだろうな」


「護衛に相当な手練れがついておりましたが、それも四六時中というわけではなさそうで。一人で歩いているところを簡単に連れ去ってこられました」


 主人に聞かれ淀みなく答える。この小娘についていたのは船の捜査に来た保安部の一人で、船に囚われた品の声を聞いていた。咄嗟の判断で極楽鳥をけしかけなければ、あの場で声を頼りに秘密の部屋の場所を暴いていただろう。


「ならば良い」


  主はソラノの頬を撫で、目を細めてその細い肢体を眺めた。


「貴重な取引品が手に入った。異世界人で、若く、純粋。先方はそういう手合いを非常に好む」


 西方の空港は男爵の取引相手の影響を非常に強く受けている。検査を受けるとしても形だけに過ぎない。この国さえやり過ごせばあとは万事上手くいく。


「船の中の積み荷は生きているか?」


「はい。死なぬ程度に海水に浸け、常時幻惑の檻に囚われております」


「しかし声を聞いたと空港職員が申していた」


「時折大気中の水分を通じて、無意識に魔法を発しているようで……それも一瞬のうちに途切れますので、聞き違いだと思われましょう」


「厄介な種族だ」


 主がため息をつく。取引額が文字通り桁二つ違わなければ、ここまでのリスクを冒してまで運ぼうとは思わない。しかも先方のたってと望みとあらば仕方がないだろう。


「それに比べてこの異世界人は随分と聞き分けがよさそうだ」


「同じ部屋に入れておいたとしても、大した影響はないでしょう。何せほとんど力を持っていませんので」


「ふむ。明日の午後には出港だ、午前には船に乗り、エア・グランドゥールへと向かう。透過した状態で着いてきて、つつがなく船へと運び入れろ」


「御意に」


 主ーーラヴィル男爵が愉快そうに笑い、通信石を起動した。石が虹色に光り、やがてくぐもった声が聞こえてくる。


「私だ」


「ああ。時間を取らせて申し訳ない。今回、ご所望の品のほかにもう一匹、珍しいモノを手に入れましてな。きっとお気に召すことでしょう」


「人魚か?」


「いえ、異界から来た娘です」


 声の主は驚いているのか、息をのむ声がした。


「安全なのだろうな?異界人には強者が多い」


「ご安心を。この娘は何の力も持っておりません。私の部下の魔法に全く抵抗できずに捕まりました」


「ならば……良い品だな。値段は人魚と同等か、場合によってはそれよりも出そう」


「それは有難い限りです。こちらとしても運搬には少々のリスクを伴う」


「こちらへの着港は何時になりそうか」


「明日には出港致しますので、遅くとも六日後には」


「そうか、楽しみにしている」


 

 通信石を切り、ソファへと身を沈めた。首尾は上々だ。王都は広く、様々な者が住んでいる。目撃者もおらず証拠の一切も残していない状態で、この脆弱な異世界人が誰に攫われたのかなどすぐにはわかるまい。さっさと出港してしまおう。


 男爵が人魚の売買に手を染めたのは、ひとえに人魚族のせいだと本人は思っている。かつて交易の主軸していた珊瑚は海に潜れば簡単に手に入る上に、宝飾品として各国の貴族や豪商に高値で売ることができた。それを獲るなと言い出したのは人魚族に他ならない。海の生態系のことなどラヴィル家には何の関係もない話だ。人魚族の抗議は激しく、とうとう海底から武器を携えてやって来るまでに至ったのだがーーそこで男爵は気が付いた。

 戦う者の中には若い娘が混じっていた。これを攫い、売り飛ばせばその金額はいかほどだろう。早速手ごろな娘に目をつけて捕獲し、得意先へ取引を持ち掛けたところ驚くほどの金額を提示された。

 ラヴィル家は人魚族との争いに乗じて若い娘を攫っては売り飛ばした。人魚は海の中では無類の強さを誇るが、上空一万メートルを飛ぶ飛行船に乗せてしまえば著しくその力は低下する。飛行船が空に上がれば、もはや抗う術など持ち合わせていなかった。


 人魚の行方不明事件が表沙汰になり、大事になる前に手を引かざるを得なかったがーー今回運よく、一匹だけ捕まえることができた。西方諸国の得意先で、以前より熱心に人魚を所望していた人物に売ることで合意がなされている。その人物はコレクターで、数多の珍しい種族を屋敷に飼っているという。

 西方諸国は魔物の動きが活発で情勢が不安定だ。それ故犯罪の取り締まりが甘く、違法品が横行し人身売買までもが黙認されている。一度売ってしまえば、男爵に足がつくことなどあり得ない。


 この厄介な国さえ出国できれば、思うがままだ。男爵は窓辺により、夜更けに輝く月を眺めながら、グラスに注がれた酒を呷った。

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