のぼり
五月の夕暮れ。空は青く、静かな三日月が浮かぶも、まだ雲だけはオレンジ色の光を映している時間。不自然なほどに風はなく、じりじりと暑くなり始めている中、鯉のぼりがだらりとしっぽを下げていた。
そんなやる気の感じられない鯉のぼりを見上げながら塾からの帰路を辿っていた僕は、古い民家の屋根に座る一人の女の子を見た。年は僕と同じほど。頭には団子を二つ作り、日本のものとは様式の異なる着物を着ていた。屋根の端から足をぷらぷらと揺らして、どこか遠く——地を歩く僕からは見えない場所——を眺めている。
その横顔は気怠げにも感傷的にも、もはや扇情的にも見える。そんな複雑怪奇な表情を見せる彼女に、僕は見惚れてしまった。恋とは違う。「彼女と共に」や「彼女のために」という感情ではない。ただ、僕の心が彼女に囚われてしまった、魂が奪われたという表現だけが適切に感じられた。
ふと、彼女が僕を見た。滑るように動かされた華奢な首筋と空の青さを映す瞳。うなじから延びる後ろ髪はゆるりと舞う。彼女はじっと僕を見る。いや正確には僕ではなく、気づけば近くを通っていた誰かを見る。
僕は彼女の顔だけを見ていた。彼女を瞳に映しているこの瞬間だけが僕の人生の全てで、指先の感覚含めた全てで彼女がそこにいるという事実を受け止めていた。
しかし、腕時計の短針がふたつカチッと鳴った後、生暖かい風がふわっと僕の横っ面を押しのけようとしてきた。すると、彼女は風を受けながら立ち上がり、屋根の向こうへと消えていった。民家の向こうからジャリジャリと歩く音が小さく聞こえてくる。
——今追いかければ!
そう思うけれど、僕の足は動かなかった。僕の人生はもう終わったのだ。
雲は暗く、青に染まっていっていた。
——急いで帰らないと
僕は、走った。
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