涙で塗れたキャンパスを

 カチッカチッ、と時計の音が部屋に響く。今日の太陽は分厚い雲の向こうにあり、美術室をうすぼんやりと照らしている。湿気が強く、どこか空気もどんよりと停滞している。それが余計に、時計の音を強調する。

 時計の刻む一拍に合わせて、私は無心で筆を動かす。黄色の絵具をぺたぺたと塗りたくる。気の遠くなる作業だ。キャンパスの横幅は私が両手を広げても届かないし、私が背伸びしても天辺には届かない。それに対して、私は幅5cmほどの平べったい筆で戦っている。

 顔や腕についた絵具は既に乾ききっていて、水につけても落ちなくなっている。髪は艶を失い、枝毛が肌に刺さる。美術室についている水場にいけば、血色の悪さと隈のせいで生気を感じさせない顔が鏡に映る。珍しく嗅覚に意識を移せば、絵具と汗の混ざった悪臭が空っぽの胃を刺激してくる。

 周りは「それは現実逃避だ」と私を責め立てる。同級生は毎日参考書と戦っている。きっとそれは、確実に彼らのためになるだろう。彼らを望む大学へと連れて行ってくれるだろう。それは正しい道だ。先生も、親も、安堵し笑顔で褒め称えるだろう。彼らには、私の芸術が理解できない。彼らには、私の信念が理解できない。私は、コレで生きていくのだと、彼らに示さなければならない。

 私は筆を動かす。血を色に、骨を色に、筋肉を色に、私の全身で色を塗る。思い出を色に、信念を色に、魂を色に、私の全霊で色を塗る。この一枚のキャンパスが過去から未来までの私の人生そのものであると主張するように、空腹も頭痛も吐き気も押しのけて私は筆を動かす。

 ふと、私は筆を止めた。今塗ったばかりの色へ目を向ける。

——水が多い?足していないのに?

 パレットを見れば、上からぽつぽつと、水が足されていっている。頬をこすっても、それは止まることを知らない。私の色が崩れていく。

 私は絵具をとると、対抗するように混ぜていく。けれど水は止まらない。もともと残り少なかった絵具はすぐに空気の音を吐き出すだけになった。黄色だけじゃ抑えきれず、いつしかパレットは溢れた水で全ての色が混ざり、ぐちゃぐちゃになった。

 不安と恐怖が「それは現実逃避だ」と私を責め立てる。心配を隠せない親の顔が私を責め立てる。常識に囚われた生物が私を責め立てる。

 私はパレットを床に投げつけた。水分を増した絵具が跳ねて、キャンパスと私に乱雑にへばりつく。

 鏡を見る。汚い色に塗れた私とキャンパスが仲良く並んでいる。

 こんなものが私か、と笑いがひとつ零れた。

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