冷たい体

 真っ白に照らされた雲が、頭上を覆っている。それは到底雨雲には見えないにも関わらず、足元では雨が跳ねて踊っている。

 周りを歩く人たちは軒下を進み、片手には傘を持っている。堂々と雨に濡れているのは私くらいだ。母が去年の誕生日に買ってくれたお高い黒のワンピースはとうに濡れ果てていて、右手のボストンバッグの中身まで濡れていないか少し心配になる。

 ヒールで水たまりを踏みしめて歩く。時々後ろを振り向くが、特別私を追っている人はいないようだった。それにほっとしながらも、悲しくも感じる。

 父は忙しい人だ。いつ何時もその両肩には多くのお金が伸し掛かり、多くの従業員の生活を預かっている。けどそれなら、そのお金で私を連れ戻す人を雇うことだってできるはずだ。しかし、その様子はどこにも見られなかった。

——結局、父にとって私たちはその程度だったんだ。

 口には出さなかった。まるで家を出たことに後悔しているようになってしまうから。

 母と父、そして私と父の会話は、幼いころから少なかった。むしろ父は、母方の祖父とよく話していた。私が生まれる前、祖父の経営していた会社は、父のグループ会社とは関係がなかったらしい。つまり母と父の結婚は、まあそういうことなのだろう。なんとも時代錯誤甚だしい。

 父も母方の祖父も、どちらも会社の経営が大好きだったようで、会うたびにそういう話をしていた。お金が好きというわけではなさそうだったが、お金稼ぎが好きなのだろう。祖父は母にあまり興味を示さなかったし、父は私にあまり興味を示さなかったところを見ても、二人は血が繋がっていない割によく似ている。

 そんな家だったから、母が消えたことに関してはあまり疑問には思わなかった。せめて私には行先を教えてほしいとは思ったが、まあそこはいい。親も旦那も自分に興味がないにも関わらず、家系に囚われ続ける人生は辛いだろう。私の人生に母がいないようなものだ。私だって逃げたくなる。

 しかし、ここで私がまったく予想しえなかったことが起きた。母が消えたことはいい。再三言うが、そのことを私は気にしていない。母が消えた後、父も、そして祖父も、母を探すそぶりを見せなかった。妻、娘の心配よりも、会社を正常に動かし続けることが彼らは大事なようだった。

 半ば衝動的に私は家を出た。きっと私が家にいないことも、彼らは気にしないのだろう。母が傍にもういないとわかって、それでもこんな家に居続けないといけないとわかって、私の体は急速に冷えていった。多分この体は、母からの抱擁以外で温まることはないと私にはわかった。

 だから私は傘をささない。私の体は、これ以上冷えることはない。

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