捨てることができるもの

 僕を見て、彼女は泣いた。笑うように、悲しむように、彼女は泣いた。左足の隣にはアスファルトに殴られたスクールバック。両手は震え、湧き出す感情を抑えんと睫毛が細かく上下している。口は開いているけれど、そこから声が出てくることはなかった。

 僕が彼女と知り合ったのは小学生の時だ。五年四組の教室で、窓から二列目の後ろのほう。会話をしたことなど一回もなかったけれど、三月になって席が偶然隣になり、話すようになった。それから中学高校、果てはなんの因果か大学まで同じになり、会えば言葉を交わす関係が続いていた。だからといって僕と彼女は、挨拶とそれに付随する会話をするだけで、行動を共にしたり、ましてや学外で会うようなことは一度もなかった。彼女が大学を中退してからは、会うことはなくなった。互いの連絡先は持っていたが、わざわざ連絡を取り合うような仲ではなかった。

 社会人になって数年、仕事帰りに彼女と会ったことが一度だけあった。僕は都内で一人暮らしをしていたから、帰路に彼女と再会するとは妄想もしていなかったから、すれ違う直前まで気づかなかった。彼女との会話は十分にも満たなかったと思う。いつもどおりの、挨拶とそれに付随する会話だけ。ただ一つだけ、別れ際にデートの誘いを受けた。僕は一日だけ悩む時間を貰い、翌日には了承の返事をした。

 翌々日には僕と彼女は地元へと足を運んだ。地元の老人御用達の観光地を巡り、まるまる一週間は滞在した。その間今までになくたくさんの言葉を交わしたけれど、左薬指の指輪には触れないようにした。地元でなんとか贅沢の限りを尽くした僕らは、最後に深夜の観光地巡りを決行した。不法侵入もした。彼女はずっと「帰りたい」と口にしていた。そろそろ日が昇る時間だという頃、僕らは一つの洞窟を潜っていた。まるで異質な空気を漂わせるその洞窟は、童心を切り取るように僕らの胸を苦しめた。

 翌朝、僕らは家へと帰った。久しぶりの我が家は、やっぱりほっとした。五年後には消える彼女の家へ僕は向かった。彼女は笑うように、悲しむように、泣きながら両親の話をしてくれた。

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